静かな劇場 

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真実の自己(3)肉体=私ではなく、肉体は〃持ち物〃

2019-02-09 11:49:11 | Weblog
前回は、私自身を知ることがいかに大事であるかをお話しました。
今回は、「知るとのみ 思いながらに何よりも 知られぬものは己なりけり」とあるように、分かっているようで、実は全く分かっていないのが己、自分というものであることをお話いたします。

 ある人がメガネをなくして家中探し回っておりました。どれだけ探しても見つからないので、家の人に「私のメガネ、どっかで見かけなかったか?」と尋ねると、「あなたの目にかかっていますよ」と言われたそうです。それはメガネをかけて、そのメガネを探しても見つからない道理です。
 それと同じように、自分で自分自身を探すということは、メガネをかけてそのメガネを探しているような、ややこしい話なんです。

普通、私とは何かと聞かれたら、この体を指して、「これが私だ」と答えると思います。しかし、よく考えてみてください。これは私ではなくて「私の体」です。
つまり、これは私のペン、これは私の時計と言うように、ペンも時計も「私」の持ち物であって、私ではありません。これを「私の」と言っている持ち主が「私」なのです。

 ペンや時計なら誰でも分かりますが、肉体も同じです。
これは私の腕、私の足です。これは私の胴体、私の頭であって、私ではありません。この体を「私の」といっている持ち主こそが本当の「私」なのです。

 私たちは生まれてからずっとこの体で生きてきたと思っています。しかし、人の体というのは、大体37兆もの細胞からできていて、それが刻々と新陳代謝しておりますから、およそ7年で全部入れ替わるそうです。
 ということは、子供の頃の体と、大人になった今の体は、物質的には全く別物です。

 もしこの肉体=私なら、子供の頃の私と今の私は別人になります。
しかし、実際はどうでしょう。子供の頃も私。今も私。肉体は入れ替わっても私は私のままです。
 それは、肉体とはあくまで「私の持ち物」だからで、「持ち物」が入れ替わっても、持ち主である「私」までは変わらないのです。
 繰り返しますが、私とはこの肉体ではありません。肉体は変わっても、一貫して変わらない「私」というものがあるのです。

 さて、肉体の心臓が止まると、死んだといわれます。確かに肉体はそこで終わって、焼かれて跡形もなくなります。しかし、肉体はあくまで「私の持ち物」なので、肉体は消えても、持ち主である「私」まで消えてしまうわけではありません。

     生       死
ーーーーー〇-------✖ーーーーーーー
     ↓        ↓
ここが肉体の生まれた時、ここが死んで滅する時とします。

仏教では、この肉体の「生」「滅」に関わりなく、一貫して続く「永遠の生命」のあることを教えています。
この永遠の生命というのが、私たちの本心です。真実の自己ともいわれます。しかし、それは意識のずっと底にあって、簡単に分かるものではありません。

 禅宗の道元は、「仏道を習うというは自己を習うなり」と言っています。仏道を習うとは自己、つまり真実の自己、永遠に続く生命を学ぶことだという意味です。
 また親鸞聖人も大変尊敬しておられた源信僧都という方は、「よもすがら仏の道に入りぬれば わが心にぞ尋ね入りぬる」と仰っています。仏道を求めるとは、「わが心」この本心を尋ねることなのです。

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