静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

聖道・外道におもむきて

2010-06-25 21:49:38 | Weblog
 親鸞聖人は、
「聖道・外道におもむきて余行を修し余仏を念ず、吉日・良辰をえらび、占相・祭祀をこのむものなり、これは外道なり、これはひとえに自力をたのむものなり」(一念多念証文)
とおっしゃっています。
「聖道・外道におもむきて」とは、聖道仏教の寺や、神社などに行って。
「余行を修し」とは、座禅をしたり、拍手打ったり、賽銭を投げたりする行為をいう。日の善悪を信じたり、占いなど、これらを皆、外道と断定されています。

 蓮如上人は、外道を信じている者は皆、無間地獄へ堕つると厳戒されています。
「更に仏法にてはなし、あさましき外道の法なり。これを信ずる者は永く無間地獄に沈むべき業にて徒事なり」(御文章)

 また経典には、神に仕えた者の恐ろしい結果を、
「一度、神を拝んだ者は、五百生の蛇身を受け、現世に福報は更に来たらずして、後生は必ず三悪道(地獄・餓鬼・畜生界のこと)に堕す」
とも教えられています。


 戦時中、天皇はじめ神への不敬は、国体に反する重罪と見なされ、いかに厳しい弾圧、拷問にあったかは、これまで見てきたとおりです。
本願寺に真に親鸞学徒の自覚があったなら、それでも護法の鬼となって聖人のみ教えを護り抜いたでしょう。その結果として、教団は解体、建物も破壊されたかもしれませんが、教えは純然と残されたに違いないと思います。
教えさえあれば、世の中の〃狂気〃が過ぎ去った時、再び、信仰の芽は吹き、多くの人々が親鸞聖人のみ教えの元に集まってきたはずです。

 ですが、「往生の肝腑・骨目」である一向専念のみ教えをねじ曲げ、国家神道を受け入れ、権力者の〃提灯持ち〃となることで、寺と教団は形としては残りましたが、もはやそこには親鸞聖人の教えは消滅し、戦後、アメリカ軍の手によって「国家神道」が解体されても、本願寺が真の浄土真宗に立ち直ることは二度となかったのです。
 
「真実の仏法者にとって、念仏者にとって、命懸けて護らねばならぬものは国法でもなければ、世間体でもない。もちろん、名誉でもなければ、財産でもない。それはただ、釈尊出世の本懐である、一向専念無量寿仏と、その布教だけなのである」

真宗界の崩落の歴史(13) なにが変わった

2010-06-17 21:21:48 | Weblog
前回、前々回のエントリーで、太平洋戦争時と、石山戦争時代の浄土真宗の違いを比較してみた。

石山戦争の時代にはあった、あの不惜身命の恩徳讃の精神が、なぜ、近代以降、見られなくなったのか。

答えは明瞭である。

教えていることが変わったからだ。

教えが変われば、当然、聞き求める者の姿勢も変わる。

三世因果を認めず、後生の一大事を説かず、死後の浄土も地獄も否定し、往生の肝腑である「一向専念無量寿仏」の教えまで捻じ曲げ、その上「善をするな、勧めるな!」の大合唱で、かつての浄土真宗の同行と同じになれるものだろうか?

今日、東西本願寺で、正しい親鸞聖人の教えが説かれているなら、戦時中のことを今さらほじくり返して、あれやこれや言う必要もないことである。だが、種々の圧力に屈し、教えが曲がったまま今日に至り、正しい親鸞聖人の教えを説くと、浄土真宗であるはずの人たちに、〃後ろから刺される〃という今日的状況がある以上、昔ながらの本来の姿を取り戻すため、教えが変わっていった経緯を書こうと思うのである。

真宗界の崩落の歴史(12) 仏敵も畏怖した南無六字の城

2010-06-15 20:28:15 | Weblog
■親鸞学徒の団結の源泉 すべては弥陀の本願力

濃蹶(のうけつ)・峡顛(きょうてん)
いずれか抗衝(こうしょう)せん
梵王ひとり降旌(こうせい)を樹てず
豈図らんや右府千軍の力
抜き難し南無六字の城

 江戸後期の儒者・頼山陽の、この漢詩でも有名な真宗史上最大の護法の戦い、それが石山戦争である。
美濃を制した斎藤道三(濃蹶)も、甲斐の武田勝頼(峡顛)も、あらがえなかった織田信長(右府)に、本願寺の顕如上人(梵王)だけが屈しなかった。あの信長千軍の力でも攻め落とせないとはだれが予想しただろう。驚くべき南無六字の城、石山本願寺──。

 近代以降の、頭でっかちで信仰の痩せ細った〃浄土真宗〃とは明らかに異なる、この決死報恩のエネルギーは、一体どこから生み出されたのか、歴史の事実に学んでみよう。


 石山戦争の舞台となる石山本願寺は、蓮如上人83歳の御時、建立せられたものである。 ご布教の合間に、石山の地を検分なされた蓮如上人は、3つの川の合流地にある丘陵を、聞法に最適の場所と思われ、すぐに建設工事に取りかかられた。

 当時、京都には山科本願寺があり、大変なにぎわいを見せていた。しかし、上人は浄土真宗の未来を見据え、あえて新たな大寺院を建立されたのである。

 予見に違わず、石山建立から35年後の天文元年(1532)、真宗の繁盛をねたむ勢力に、山科本願寺は焼き打ちに遭い、完全に焼失する。この時、蓮如上人の隠居されていた石山が、浄土真宗の新たな本拠地となったのである。

 以後、石山は大きく発展し、続々と移住する門徒で寺内の六つの町が十に拡大。永禄7年(1564)には、2千余の家屋が軒を並べた。ここに居住する者は皆、聞法、勤行、信心の沙汰など、親鸞学徒の規律ある日常を送っていたという。
 また、山科の二の舞いを踏まぬよう、加賀(石川県)から築城者を招集し、近国の門徒を募って、堅固な石垣を築き、文字どおりの「法城」とした。また諸国の門徒が交代で番屋に詰め、寺内の警護に当たった。彼らは番衆と呼ばれ、いったん緩急あれば、平時の数倍から数十倍の人数が集まったという。


 当時、本願寺が大きな力を持てたのは、後生の一大事の解決を求める全国の門徒の真摯な聞法心と御布施による。それは皆、蓮如上人のご教化の賜物だった。
 3頭の駿馬を次々乗り替えられての精力的な全国ご布教、また『御文章』という画期的なメディアにより、聖人のみ教えは正確に、広く速やかに伝播した。

「苦しい人生、なぜ生きる」。いつの時代でも、だれもが希求する普遍の問いである。
本師本仏の阿弥陀仏だけが、すべての人を「摂取不捨の利益」(絶対の幸福)に救うと誓われている。その誓いを果たすために成就なされた南無阿弥陀仏を、聞信の一念に弥陀より賜り、往生浄土の本懐を遂げさせていただく。それこそが、苦しくとも生きねばならぬ本当の目的であると明らかにされた親鸞聖人のみ教えは、干天の慈雨のごとく人心を潤し、教線は拡大の一途をたどった。

そのお勧めに従い、自宅の一部を改装して聞法道場とする人や、公共の道場を設ける村が続々と現れ、「二十八日講」「尼講」などと呼ばれる講(会合)が頻々と開かれるようになった。
 ここでは身分の上下は関係なく、同じ目的に向かう「御同朋・御同行」の精神が生まれた。それまで領主との主従関係にのみ生きていた農民が、信仰という深い部分で横につながったのである。

 農村の変化はこれだけではない。
後生の一大事を平生に解決し、往生浄土の本懐を遂げるという、人生の目的がハッキリすることで、人生に活力がわき、おのずと勤勉にもなった。それが農業技術の進歩と相まって、米の生産高を飛躍的に向上させたという。荒れ地を新田に開拓し、豊かで、仏法中心の生活を営む村が、次々と生まれたのである。

 町民も、仏法の自利利他の精神を商工業で実践し、大いに栄えた。彼らは信仰を深めると同時に、社会的地位も向上したのである。 真宗門徒の連帯は一村内にとどまらず、やがて惣荘、惣郷などの境を超え、大名も無視できない一大勢力になっていった。


 一方で、勃興する真宗勢力を苦々しく思った者もいる。
その筆頭が、姦雄織田信長である。信長は桶狭間の戦いで今川義元を破り、33歳で尾張・美濃を領する大名となった。
 永禄11年(1568)、将軍・足利義昭を立てて上洛し、五畿内の猛将をことごとく破り、天正3年(1575)には、武田勝頼をも長篠の戦いで破った。

「天下布武」を掲げる信長にとって、阿弥陀仏以外に権威を認めぬ真宗門徒が、目の上のこぶだったのは言うまでもない。石山が軍事的・政治的要害の地でもあることに着目した信長は、この地の譲渡を迫った。

 だが11代宗主・顕如上人はこれを拒絶。その後何度も押しつけられた無理難題も、ことごとく突っぱねた。元亀元年、業を煮やした信長は、ついに石山攻略のため挙兵する。
 蓮如上人以来、血と涙で築き上げた法城は未曽有の危機にさらされた。だが、愛山護法に燃える親鸞学徒が全国から参集。その数、4万とも5万ともいわれている。

 兵糧や武具まで手弁当の民兵が、「進めば極楽、退けば地獄」と書いたムシロ旗を掲げ、一死報恩の覚悟で当時の最強軍団と戦ったのである。
 実地に参戦できない者は、兵糧懇志を続々と本山へ送り届けた。その記録は今も各地の古文書に残っている。一例を挙げれば、越後のある末寺の門徒は、黄金一貫目、白米1500俵、麦90俵、油10樽、味噌80樽、白木綿150反を石山に送っている。

 彼らは厳重な石山包囲網をかいくぐり、物資運搬を敢行した。信長に制圧されたかに見えた美濃、三河、近江からさえ、懇志が途切れることはなかった。

 広島の毛利氏領内の安芸門徒も立ち上がった。天正4年、懇志を積んだ兵糧船600余艘、警護の軍船300余艘という大船団が瀬戸内海を渡り、敵船を突破して支援した。


 開戦より10年。親鸞学徒の頑強な抵抗に、信長もついに攻略を断念、講和を結ぶことになった。「南無六字の城」は、がむしゃらな兵馬の蹂躙を最後まで許さなかったのである。
 その2年後、本能寺の変で信長は、腹心の明智光秀に裏切られ、非業の死を遂げている。


 一体、何が石山本願寺を仏敵から護り抜いたのか。立地条件や諸将の支援もあっただろうが、戦いの決定的要素は団結である。全国の親鸞学徒を、愛山護法の心一つに燃え上がらせたものは何だったのか。
 それこそは、苦悩の衆生を救うため、阿弥陀仏が五劫の間思惟され、兆載永劫、全身全霊のご修行の末に成就なされた大宇宙の功徳の結晶、南無阿弥陀仏の絶大なお力にほかならない。儒学者・頼山陽をして瞠目させたのも、その威神力なのだ。

〝南無六字の城〟の漢詩は、護法に燃える親鸞学徒の心意気とともに、計り知れぬ弥陀の大願業力を教えてくれている。     



真宗界の崩落の歴史(11) 戦時教学

2010-06-14 18:31:16 | Weblog
前回、大本事件にふれましたが、その3年後には『蟹工船』で知られるプロレタリア作家・小林多喜二が、特高に逮捕され、築地警察署で拷問の末、虐殺されるという事件が起きました。『赤旗』の記事によれば、その多くは共産党員ですが、多喜二と同じ警察署内で、虐殺80人、拷問による獄死が114人、病気による獄死が1503人にのぼったということです。いかに当時、思想・宗教弾圧が常軌を逸していたか、お分かりと思います。

こういう時代、親鸞聖人の教えに忠実に、後生の一大事を説き、一向専念無量寿仏を貫くことが、いかに大変なことか。おおよそは分かると思います。
後生の一大事の詳しい説明は、下記のURLを参照ください。

http://www.shinrankai.net/2010/05/gosyou.htm

国家総動員法(昭和13年)が制定され、日本が狂気の如く全面戦争に突入していくと、「人間死んだら地獄へ堕ちる」などという布教が、当局に受け入れられるはずもありません。
そんな、殺すことも殺されることもためらわれるような教えは、当時において、国政に反する危険思想だったのです。
男は戦場に赴き、敵と戦い、潔く戦死するのが最高の誉れとされた時代、「死んだら地獄」では困るのです。
戦死したら靖国神社の英霊として祭られ、護国の神となる、そう信じ込まなければ、どうして敵弾飛び交う中、突撃できるでしょう。

こういう時代背景の下、布教の現場から、後生の一大事は引っ込められ、その解決である「一向専念無量寿仏(阿弥陀仏一仏に向かい、阿弥陀仏一仏を信じよ)」の教えも、公然と捻じ曲げられていったのです。

恐怖が支配するこの時代、こうした真宗僧侶・学者の〃変節〃ぶりを、平和な時代に生まれ育った者が批判するのは容易いことです。ですからここは、批判めいたことを書くのは避けることにし、いかに教えが曲げられたか、その事実だけを淡々と述べることにします。それは昔のことを蒸し返し、ということではなく、それが今日の〃浄土真宗〃の状況を理解するのに必要だと思うからです。


「戦時教学」とも呼ばれる教義の変質を、当時の代表的な真宗学者の言説から見てみましょう。『宗教と現代社会』(信楽峻麿)から多く引用しました。

まず、天皇制が徹底されるにつれ、阿弥陀仏と天皇を重層させてとらえるという解釈が生まれました。

〈弥陀の本願と天皇の本願と一致している〉(東・曽我量深)

〈天皇が仏に帰せよと仰せられるから天皇の仰せによって仏に帰依し、仏に帰依することにより天皇に帰依する。平面的に天皇即仏ではいけない。(中略)天皇が奥の院である。弥陀がその前にある〉(東・暁烏敏)

〈もし仏陀が日本国に来生せられるならば、必定まず天皇絶対をお説きになり、以て国体を明徴したまうことはいうまでもないことであろう〉(西・佐々木憲徳)

〈真宗の信仰もまた、その信仰を挙げて天皇に帰一し奉るのである。一声の念仏を称うるにしても、その念仏にこもる力を挙げて、上御一人(天皇)に奉仕しているのである〉(西・普賢大円)

また、日本神道と妥協し、阿弥陀仏と神との一体化が計られます。

それまで本願寺は、神祇不拝の立場を貫き、門徒にもそのように指導していたにも関わらず、昭和11年12月、東の法主・大谷光暢は、明治神宮、靖国神社に相次いで参拝。翌年1月には伊勢神宮に参拝。西本願寺も昭和12年1月、当時の法主・大谷光照が伊勢神宮を公式参拝しています。

さらに15年には勧学寮も、伊勢神宮の大麻拝受を「宗義上差し支えなきものと存候也」と認定するに至ります。

〈大慈救世聖徳皇、父の如くおはします。大悲救世観世音、母の如くおはします、の聖徳皇の代わりに天照大神の名を、観世音の代わりに弥陀を立ててよい。父と母は形は二つあるが絶対である。子より見れば一体である〉(東・曽我量深)

〈神道の一部として仏法を崇めてゆく〉(東・金子大栄)


日本を神国と捉え、国体の尊厳を主張する国家神道からは、仏教の穢土観は到底、是認できず、また国体、天皇こそがすべてであり、仏法はその内にこそ包摂されるべきという主張が主流となっていきます。

〈仏法は別に要らない。(中略)皇国の道というものが、即ち我々の遵守すべきものである。仏の教というものは、それの縁になるものである〉(東・金子大栄)

〈真宗の信者は宗教圏で一心一向の修養をしているので、国家圏に入るときには、一心一向に唯天皇陛下御一人に絶対随順したてまつる〉(西・佐々木憲徳〉


浄土真宗の肝腑骨目である「一向専念無量寿仏」のみ教えは、ここにきて完全に破壊されたといわざるをえません。


ところがこれらの本願寺学者たちは、戦後、別段、責任を追及されるわけでもなく、反省の弁もなく、そのまま教団、あるいは宗門大学(龍谷、大谷大学など)の中心に居続けることになりました。
以下は、戦後の彼らの動向です。

○曽我量深……昭和26年大谷大学名誉教授。36年・大谷派から教学特別功労者として表彰
○暁烏敏……26年・東本願寺宗務総長就任
○金子大栄……19年・大谷派最高学階の「講師」を授与される。26年・大谷大学名誉教授。38年宗務顧問に就任 
○普賢大円……19年司教。42年龍谷大学名誉教授。同年勧学に就任
○佐々木憲徳……21年勧学

 戦時中、西本願寺法主の座にあり、故人となった勝如(前門主)は、昭和52年、引退に当たりこう述べています。

〈宗門は戦中戦後を通じて相当の期間、多くの困難や障害を経験したわけであります。(中略)このように、私は大きな変動の時代を体験したのでありますが、その体験を通して深く感じましたのは、政治の方向がどのように変ろうとも、社会の制度がどのように動こうとも、浄土真宗の御法義の根本には、いささかのゆるぎもないことで、時と所とにかかわらずその真価を発揮する浄土真宗は、まことに尊くありがたく、聖人が真実の教えとお喜びになったお気持も、さこそと味わわせていただくのであります〉

真宗界の崩落の歴史(10) 大本教事件

2010-06-13 20:15:20 | Weblog
昭和3年、治安維持法の改悪を契機に、政府は大々的な宗教・思想弾圧に乗り出した。
大本教事件は、その一つである。

大本教は明治25年に、出口なおという女が創設した神道系の新興宗教である。
天皇を崇拝することで国家の統制を目指していた当時の日本にあって、大本の教義や活動内容は、皇室の尊崇と相容れなかった。

大正10年、第一次大本事件が起きる。
そのしばらく前から、世間では「大本教」にまつわる、根拠のない不穏な噂が流れていた。武器を購入し内乱を準備している。青年の白骨死体が見つかった。秘密の部屋で婦人を姦淫している、などなど。「取り締まってほしい」という世論の後押しを受けて、警察隊約200名が本部に突入する。不敬罪などの容疑で役員を一斉に取り調べ、また施設内の捜索も始まった。詳細は省略するが、この時の弾圧で、神殿は取り壊された。

しかし、大本教はその後も信者を増やし続け、勢いを取り戻していく。

戦争が色濃くなってきた昭和10年、再び弾圧が開始される。
政府は教祖はじめ幹部30名を一斉検挙。取り調べに際しては厳しい拷問が行われ、16名が獄死、または発狂した。そして今度は、彼らの施設という施設をすべて、破壊にとどまらず、存在した形跡さえ消滅させた。これが第2次大本事件といわれるものである。

当時の破壊の様子を信者は回想する。
「神殿の柱など、こまごまに切りさいなまれ、おまけに風呂屋の焚き物にされ、教祖の住居も、着物も、机も、その上ご苦労にも手洗い鉢まで、教祖が使用したという、ただそれだけのことで壊されました……」
いくつもあった神殿は、1500発のダイナマイトで破壊され、ワイヤーで引き倒され、ハンマーで粉々に砕かれた。開祖の墓は掘り起こされ、納骨堂も破壊された。歌碑の文字は削られ、礎石はひっくり返され、池は埋められグランドとなり、〃神域〃は根こそぎ潰され、地形すら抹消された。

 弾圧後、拠点を訪れた作家の坂口安吾は『日本文化私観』にこう記している。
〈上から下まで、空濠の中も、一面に、爆破した瓦が累々と崩れ重っている。茫々たる廃虚で一木一草をとどめず、さまよう犬の影すらもない。四周に板囲いをして、おまけに鉄条網のようなものを張りめぐらし、離れた所に見張所もあった……(中略)とにかく、こくめいの上にもこくめいに叩き潰されている〉

大本教は、いうなれば、スケープゴート(生け贄)にされたのである。
この事件が、当時の宗教界を震撼させたのは想像に難くない。

ほとんどの宗教は、自ら進んで政府や軍部の方針に賛同し、〃提灯持ち〃をつとめるようになる。真宗界もその例外ではなかった。こういう国家権力の横暴に対し、地方には気骨のある僧俗もあったのだろうが、法主はじめ、本山の〃偉い〃学者たちが皆、縮み上がってしまい、親鸞聖人が命に懸けて開顕してくだされた「一向専念無量寿仏」の教えを、国体に反するからという理由で、自分たちでねじ曲げていったのである。「学者」だから、そこにもっともらしい理由をくっつけて……。





真宗界の崩落の歴史(9) 神道国教化政策

2010-06-12 16:01:04 | Weblog
 神祇不拝(神に仕えない)――これが親鸞聖人以降、江戸時代まで受け継がれてきた真宗の伝統であり、宗風だった。天台、真言の僧侶らが、「神仏一体」などという説をでっち上げ、日本古来の神道と、仏教を融合して外道化させたのに対し、真宗はそれら因果の道理に反する迷信邪信を近づけず、釈尊の真精神を発揚し続けていた。

神仏一体化した仏教を嘆かれる親鸞聖人のお言葉はたくさんある。

かなしきかなやこのごろの 和国の道俗みなともに
仏教の威儀をもととして 天地の鬼神を尊敬す

五濁増のしるしには この世の道俗ことごとく
外儀は仏教のすがたにて 内心外道を帰敬せり
(悲嘆述懐和讃)


親鸞聖人のみ教えに従い、真宗が神信心と決別していた傍証として、江戸時代の儒者・太宰春台の『聖学問答』や、幕末に書かれた福田義導の『和合海中垂訓』などが上げられる。
「一向宗の門徒は、弥陀一仏を信ずること専にして、他の仏神を信ぜず、如何なる事ありても、祈祷などすること無く、病苦ありても呪術・符水を用いず、愚なる小民・婦女・の類まで、皆然なり、是親鸞氏の教の力なり」(『聖学問答』)

明治以前の浄土真宗では、「弥陀一仏以外、諸仏や諸神を信ぜず、祈祷せず、神棚も設けず」が普通だったことが分かる。なぜここまで「弥陀一仏」ということが徹底されるのか、その理由は昨日書いた通りである。

それが今日、真宗のどの家にも神棚が置かれ、初詣には神社参詣、結婚式や棟上げに神主を呼び、門徒総代と氏子総代を兼ねる者さえいる。浄土真宗とは名ばかりで、実態はガラリと変わっている。

なぜそんなに変わってしまったのか。
この〃変質〃の歴史的な経緯を、明らかにしていきたいと思う。


 今から約150年前、300年間、日本を支配してきた徳川幕府が崩壊し、薩摩、長州藩を中心とした新政権が樹立された。明治維新である。
 新政府は、自らの立場を権威づけ、正当化するために、将軍に代わる新たな権威を必要とした。そこで着眼したのが天皇だったのである。

 だが天皇は、鎌倉時代からの武家政治の陰に追いやられ、当時、政治的にはほとんど無力な存在だった。まして一般庶民にとっては、その存在さえよく知られていないのが実情だったという。
 このような天皇を、全国民帰順の対象にまで高めるには、天皇の神格化を作為的に行う必要があり、そこで明治政府の執った政策が、王政復古をスローガンとした「神道国教化政策」だったのである。

では具体的に、何が行われたのだろう。

まず、『古事記』『日本書紀』の神話を根拠に、明治天皇に神権的な権威づけを施した。
さらに天照大神を祭る伊勢神宮を頂点とし、全国各地の神社を末社として再編した国家宗教を誕生させた。これを国家神道という。

国家神道の教義の核心は、天皇を「生ける神」として神格化し、全国民に絶対的帰順を要求するものである。その目的に沿って、教育勅語(明治23年)を制定し、全国の学校に徹底した。また全国民を強制的に氏子とし、各家庭に神棚を設置したのである。

このように、神道国教化が進められていく背景には、当時、アジア諸国が西欧列強にどんどん植民地化されていた、という事情がある。列強に対抗し、独立を守れる強い国家を築くには、天皇の命令一つで、全国民が身を捨てて戦えるようになる必要があったのである。

さて、このような政府の方針に対し、滋賀県など浄土真宗の盛んな地方では、当初、強い反対運動が起きた。だが、それを擁護すべき肝心の真宗本山が傍観、もしくは政府や軍部の言いなりと化したので、地方の反乱は、自然消滅していかざるをえなかったのである。

やがて時代は昭和に入り、全国民を戦争一本に駆り立てるため、狂信的な神信心がいよいよ強要されていく。

昭和3年、治安維持法の改悪を契機に、政府は大々的な宗教・思想弾圧に乗り出した。
手始めにスケープゴート(生け贄)とされたのが「大本教」であった。(つづく)

真宗界の崩落の歴史(8) 後生の一大事と一向専念

2010-06-11 16:26:22 | Weblog
「一向専念無量寿仏」(大無量寿経)

釈迦一代の教えの結論である。
すなわち、釈迦は仏教の結論として、阿弥陀仏(無量寿仏)一仏に向かいなさい、阿弥陀仏一仏を専らに信じなさい、と教えられた。

だから親鸞聖人は、
「一向専念の義は往生の肝腑、自宗の骨目なり」(御伝鈔)
とおっしゃって、「一向専念無量寿仏」の釈迦の教導は、後生の一大事、解決できるかどうかの肝腑骨目(最も重要)であると明言なされている。
釈迦がそう説かれたのだから、「釈迦の教法を我も信じ、人にも教え聞かしむるばかりなり」で90年貫かれた親鸞聖人がそう仰るのは当然なのである。

その親鸞聖人のみ教えを、正確に日本中に伝えられた蓮如上人もまた、『御文章』に、
「善知識というは『阿弥陀仏に帰命せよ』と言える使いなり」
と、「一向専念無量寿仏」を説かない善知識(真実の仏法を伝えられる先生)はありえないことをおっしゃっている。

さて、

「一向専念」ということは裏から言えば、阿弥陀仏以外に向いてはなりませんよ。阿弥陀仏以外を信じてはなりませんよ、ということになる。

こういうと、これまた皮相に解釈して、やれカルト的だ、マインドコントロールだとか言う人が出てくるので、念のために言っておくと、これはあくまで「後生の一大事の解決には」ということである。

後生の一大事については、以前、ここに書きましたので参照ください。
http://blog.goo.ne.jp/345shigure/e/ae561adf8362e2b3c5d19989277a4e50

例えば、肉体の病にかかった時でもそうである。
ガンになれば、「ガンの専門医の所へ行け」と普通、勧められるのではないか?そんな時に、「何で耳鼻咽喉科じゃだめなんですか?皮膚科じゃいけないんですか?ガンの専門医だけ、というのは偏っていませんか?」などと食って掛かる者があればおかしいだろう。それはガンについての自分の〃無知〃をさらけ出したにほかならない。

後生の一大事を引き起こすのは、「無明業障の恐ろしき病」であり、その病を治すことができるのは、阿弥陀如来しかおられない。それは『御文章』にも明らかである。

「あら、殊勝の超世の本願や、ありがたの弥陀如来の光明や。この光明の縁に値(あ)いたてまつらずは、無始よりこのかたの、無明業障の恐ろしき病の癒るということ、更に以てあるべからざるものなり」(2帖目13通)

また、

「夫れ、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり。(中略)弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なれば(中略)弥陀にかぎりて、『われひとり助けん』という超世の大願を発して」(2帖目8通)

とある。

私たちの後生の一大事の解決は、釈迦の力でもできず、十方諸仏の力でもできず、阿弥陀如来のお力以外には絶対にできないので、阿弥陀仏一仏に一向専念せよ、と説かれるのである。

前回、書いたように、江戸中期の真宗の碩学・法霖の自決は、当時の法主の家族が「一向専念」の教えを曲げ、神に仕えて祈祷したことに対する引責自決であった。と同時にそれは、全人類の後生の浮沈がかかった「一向専念無量寿仏」の教えを曲げることの罪の重さを、身をもって示した、文字通り、身を捨てた破邪顕正だったのである。

ところが今日、阿弥陀仏以外、向いてはならない、信じてはならない、と説けば、世間からは言うまでもないが、〃浄土真宗のはず〃の人たちからさえも猛然と反発、あるいは冷笑、嘲笑、軽蔑、非難、罵倒が巻き起こるのである。

それは偏に後生の一大事の「無知」からきている。
仏教を聞いたこともない世間一般の人なら無理もない話だが、仏教をよく勉強しているはずの真宗学者でさえそうなのである。

確かに、この後生の一大事ということは、ガンのような、生体現象として目に見える形で見せることができないので、伝えることは大変難しい。だからこそ、釈迦の雄弁をもってしても7千余巻の膨大な一切経が必要だったのだし、何十年も仏法を聞いてきたはずの人が、「死んだら地獄へ堕ちると騙された」と言って、後生の一大事を〃力いっぱい〃否定している事実からも明らかである。

後生の一大事の自覚のないところに、「一向専念無量寿仏」の結論だけ突きつけても、それは受け入れられるものではない。それでも受け入れようとすれば、いつか暴発するのも又、必然であろう。
すべては起こるべくして起こるのであって、どんな人間が現れても、それ自体は別段、驚くこともない。ただそれは、受け入れる人間の側の問題であって、教えの正邪とは関係がない。

問題は、釈迦から七高僧、親鸞、覚如、蓮如上人を貫く教えはどうなのか、という点である。

現代の、真宗大谷派のトップの学者に言わせると、「後生の一大事」とはこういうことだそうである。

「後生とは、言うまでもなく死後のことではない。(略)それは今を仏道の歴史として生きる、と言っていいだろうか。言い換えれば、過去と未来に責任を持ち続けながら、現在を生きるということである」

こんなことが後生の一大事なら、承元の法難に遭われてまで親鸞聖人が「一向専念」の教えを徹底される必要もなかっただろうし、法霖のごとく命を捨てる理由もなかろう。

すべてがおかしくなってしまっているのである。 
なぜ、今日の浄土真宗において、教えの根本である「後生に一大事」の理解が、こんなにグダグダになってしまったのだろうか?

江戸300年間に、浄土真宗は幕府の保護を得て生活の安定を得た代わりに、身を賭して布教する者がいなくなり、それにともない、教えに無関心か、頭でっかちな者が増え、「往生浄土」の本懐を果たすため、地道で堅実に聞法求道をする〃体力〃がどんどん低下していき、さらにそこへ、外来思想というウィルスが蔓延し、真宗界も感染して瀕死の状態、さらに戦争が激化すると、国家神道が強制され、「一向専念」の教えは踏みにじられ、真宗界は建物や組織など、形式だけが残って、教えは絶命したのである。

今日、だれかが正統な親鸞聖人の教えを説こうとすると、絶命後のゾンビのような者が群がってきて、冷笑、嘲笑、愚笑、愚弄、罵倒、恫喝してくるのが、悲しいかな真宗の実状である。

次回は、戦時中のことに触れることにする。



真宗界の崩落の歴史(7) 江戸期の一向専念

2010-06-09 19:50:16 | Weblog
明治以降、真宗界の大勢は、科学や哲学など外来の思想に迎合し、出世の本懐たる「往生浄土」を〃この世のこと〃だとか、〃心の内のこと〃だとか、理性で理解しうる矮小化されたものに変わっていった。

往生浄土という仏教究極の目的が抜け、この世のことしか言わなくなれば、教え自体が、もはや「生きる目的」から、ただの「生き方」に過ぎないものになり、戦時中の軍部の圧力の前には、あっさりと親鸞聖人のみ教えの肝腑骨目を踏みにじるのである。そして捻じ曲げられたまま今日に至っている。


そのことを述べる前に、明治以前の浄土真宗はどうだったのか、見ておく必要があるだろう。


江戸時代の中期、浄土真宗の碩学として名高い法霖という大学者がいた。
彼の名を、一躍、世に知らしめたことの一つに、華厳宗の大学者・鳳潭との法論がある。
鳳潭は、比叡山の学僧時代から異才を発揮し、華厳寺を開いてからは、盛んに他宗を非難していた。
享保15年(1730)、74歳の鳳潭が浄土真宗を批判した書物を発刊したのを受け、法霖は『笑螂臂』5巻を1カ月で書き上げ、完膚なきまでに破邪顕正した。この時、法霖40歳。
『本願寺通紀』には「実に開宗已来の盛事と為す」と絶賛している。
その4年後、法霖は、第4代目の能化(本願寺の教学の最高責任者)に就任する。

さて、その法霖が辞世として詠んだ「往生の一路」は有名である。

往生の一路は平生に決す
今日何ぞ論ぜん死と生とを
蓮華界裡の楽を快しむに非ず
娑婆界に還来して群生を化せん

【意訳】
 人界受生の本懐、後生の一大事の解決は、平生にできている。
 娑婆に別れを告げる今日、いまさら何のために生まれてきたかとか、死んだらどうなるか、後生の詮索などまったく要らない。生きてよし死んでまたよし、往生極楽間違いなき身にしていただいたのだから。
 だが、死んで浄土へ往って百味の飲食たらふく食べ、八功徳水の温泉につかって休もう、などとは少しも思っていない。悩み苦しむ人がいる限り、娑婆世界にすぐ還り、苦悩の人々を化導せずにはおれないのである。


法霖は、こんな辞世を残して自決している。ではなぜ法霖は自決したのか。


法霖が能化になって3年目、湛如が16世法主に就任した。
湛如は生来病弱で、就任間もない寛保元年(1741)正月ころより、肺結核で床に伏した。
元気なころ、宮中にも布教に出入りしていたため、宮中の者とも面識があった。そのため、法主の病気を案じた女官たちが、各地の神社、仏閣で病気平癒の祈祷を始めた。

湛如が法主になってから迎えた妻は、東山天皇の孫だった。夫の病気を心配するあまり、やはり因習に引かれて、病気は鬼神のたたりや、方角が悪いせいだとして、実家のほうで盛んに病気平癒の祈祷をした。
因果の道理からすれば、病気治しの祈祷などは、無意味な行為である。まして鬼神というのは、死んだ人間や畜生の霊のこと。それらが私たちに禍福を与えるというのは迷信と仏教は断言する。


神の不拝の厳しさは、親鸞聖人晩年の善鸞義絶事件でも明らかだ。
神に仕えて祈祷し、他人の吉凶を占ったりして人々を迷わせた長子・善鸞を、決して許すことはできぬと、聖人は悲憤の涙とともに義絶なされたのである。
この「一向専念無量寿仏」の教化は、500年後の江戸中期の親鸞学徒にも徹底されていたと見られる。

 ちょうどこの時期の有名な儒者・太宰春台は、著書でこう驚嘆している。
「一向宗の門徒は、弥陀一仏を信ずること専にして、他の仏神を信ぜず、如何なる事ありても、祈祷などすること無く、病苦ありても呪術・符水を用いず、愚なる小民・婦女・の類まで、皆然なり、是親鸞氏の教の力なり」(『聖学問答』)

当時の親鸞学徒は、一切の迷信行為をせず、弥陀一仏以外は絶対に礼拝したり信じたりしなかったのである。


病床の湛如は、身内が教えに背いて祈祷している事実を知らされていなかったのかもしれない。
しかし、一般の門徒までが知るところとなり、法霖に匿名の投書をする者までが現れた。
本願寺の信心と教学の指導監督、一切の責任と権限を持っていた彼は深く憂え、心を痛めた。『古数奇屋法語』でも、この問題に触れている。

 「本山で任務する人々の言動を私が見聞したところでは、祖師聖人が教えられた正しい浄土真宗の教えはなく、ふとした話の中にも祈祷や占いのことが聞かれ、諸国から参詣したご門徒の耳にも入り、驚かせている。近年、病気で伏せっておられる湛如法主のご病気について本山内から、方角が悪いからだとか、あるいは鬼神のたたりだとかいう。これは親鸞聖人の教えを乱す誤りである。(中略)
 近ごろは、ご門徒も末寺の僧侶も、本山へ参詣すると信仰のマイナスになり、教えに疑いを起こし、あざける人が多い。その悪いうわさを嘆いて私に匿名の投書をする者もある。教化する者が地方のご門徒に教化されている現状は、実に嘆かわしい次第である」

 法霖の深い心痛が伝わってくる。
 法主の妻であれ、だれであれ、本山の要職にある者たちの祈祷問題は、決して看過できるものではない。
法霖は重大な決意をして一人、法主の寝所を訪問したと伝えられる。
病床の法主に事の次第を詳細に伝え、これを黙認すれば、末代、幾億兆の人々を無間の火城へ突き落とすことになると、法主に責任を執って自決を勧めた。


湛如は法霖を法友として、学問の師として心から尊敬していた。また、かねてから、自分の病は治る見込みがないと覚悟していたのかもしれない。潔くその場で毒をのんで自害したのである。
本願寺の正史には湛如は、6月6日に大谷に参詣し、
「帰後病劇7日夜寅時示寂」
(帰還後、7日の夜、急病で亡くなった)とだけ記されている。
 
湛如の百カ日の法要を済ませ、後継者問題も一段落ついたので、そろそろしおどきと、49歳の法霖は決断する。10月18日、師の若霖を継いで住職を兼任していた正崇寺(現・滋賀県蒲生郡日野町)へ帰る途中、かごの中で割腹自殺をした。
 自坊に担ぎ込まれた法霖は、すでに虫の息であったが、弟子が紙と筆を渡すと、震える手で四句の漢詩を残して往生した。それが上述の漢詩である。

真宗界の崩落の歴史(6)王様抜きの将棋

2010-06-04 20:46:14 | Weblog
近代以降、西洋から流入した思想に、当時の真宗界はすっかり足元をすくわれた。恐らくそういう表現がピッタリなのだと思う。
江戸三百年間に、錚々たる学者たちによって整理されてきた真宗学は、他宗や異端者との法論においては絶対に負けない、完璧な理論体系にはなったけれど、昨日書いたように、外圧には案外もろかったのである。

それは相手が想定外だったためだろう。

仏典の権威を認めない、因果の道理を信じない、宇宙空間を真の実在と信じ、弥陀や浄土の存在も信じなければ、死後の浄土往生も信じない、そして科学や哲学を武器に、理性に揺さぶりを仕掛けてくるような相手は明治以前にはなかったはずです。

そういう者たちの、理性を軸とした論調が、新しい時代をもたらすものとして歓迎される一方、伝統にどっかり腰掛け、生活の安定をつかんだ代わりに布教意欲を失くした僧侶たちは、古き社会の形骸、時代の落伍者、という印象に変わっていった。

そして今日に至っては、僧侶をだれも社会の先導者とは認めず、その言うことも、生き方、考え方の一つとして参考にする程度で、生死の一大事をかけ、真剣に耳を傾けるような人はいない。

つまり教えが、この頃から「人生の目的」から「生き方」へスライドしたのである。
「なぜ生きる」の抜けた、「どう生きる」という教えになってしまったのだ。

「どう生きる」。「生き方」なら人それぞれであり、信じるも自由、信じないも自由、求めるも自由、求めないも自由、科学で実証されようがされまいが、その教えをその人がいいと思うならそれでいいのであり、だれもとやかく言う必要はない。
だから仏説を、「人生の目的」から、「生き方の教え」へシフトさせることで、科学や哲学など新しい思想との正面衝突を回避したのだろう。

だが「浄土往生」という仏教究極の目的が抜けてしまった浄土真宗は、まさに王様抜きの将棋を始めたようなもので、このあと、言う事なす事がことごとくトンチンカンになっていくのである。

その悲劇的な事例を、戦時中の真宗界に見てみることにする。(つづく)




真宗界の崩落の歴史(5) 黒船来航 

2010-06-03 20:30:37 | Weblog
浄土真宗が近代以降、教義が変質していった歴史的な経緯を、いろんな側面から書こうとしています。
今回は、真宗界に突きつけられた外部思想の圧力です。
外国からやってきた【実証主義】【唯物論】【相対主義】【ヒューマニズム】の4隻の黒船に、太平の眠りからゆり起こされた東西本願寺が、卑屈な〃通商条約を締結〃させられた悲しい歴史でもあります。


【実証主義】
学問上の学派、学者らの態度の一つであり、19世紀以降の自然科学・工学の急激な進歩と社会的成功を目の当りにしたことで、知識の形態として科学だけを有効と見なすようになり、科学で知識を統一しようと試みた考え方・態度である。

つまり、

「誰にでも経験できる事実として確認できるまで何も信じません」という態度で、「直感や超越的な感覚」などは初めから排除されている。

この実証主義が浸透することで、
「何の根拠もなく、世の中に広く信じられてきた前提」が次々と覆っていった。
例えば、ひのえうまの年に生まれた女性は夫を短命にするという迷信や、天狗や河童などの存在、あるいは雨乞いの儀式で雨を降らせるなどという風習は、今日、だれも信じなくなった。

それはいいことではあるのだが、この実証主義者たちが、当時の真宗人の感情を逆なでしたことは疑いない。
先祖代々、当たり前だと信じてきた弥陀や浄土に対し、
「じゃあ、実証してみ?」と問い詰めるからだ。

ここで感情的になり、「おまえはなんてことを言うんだ!先祖代々信じられてきたことを正しくないとは、とんでもないことだ!けしからん!」と言ったところで実証主義者は、
「分かった分かった。それはいいから。はやく実証してみろよ」とくる。


【唯物論】
世界の理解について、原子論と呼ばれる立場がよく知られている。これは原子などの基本的な物質的構成要素と、その要素間の相互作用によって、森羅万象が説明できるとする立場である。

人間の、意識・心理現象・自由意志などの精神活動については、大脳の物理化学現象とみなすか、あるいはより極端に、自由意志自体を否定する見方もされる場合がある。

この唯物論に立てば、地獄極楽は〃おとぎ話〃。人間は機械的存在で魂のようなものは否定され、人は死後、無になることになる。


【相対主義】
・絶対的な価値観や真理はなく、すべては相対的なものでしかない。
・人間が、絶対的な真理を知ることなんて到底できない(不可知主義)。

水が「冷たい」とか「暖かい」とかは、それぞれの人間が、自分の尺度(基準)で勝手に決めたものである。
だから結局、絶対的な真実として、「水が冷たい」とも、「水が暖かい」とも、決して言うことはできない、
そういう結論になる。

これにしたがって考えれば、「善」や「悪」についても同様のことがいえる。

ある国(人)では、「善」である行為が、別の国(人)では、「悪」だったりする。
極端な話、旅客機をハイジャックして、アメリカの高層ビルに激突することを大多数の人は「悪」と感じるが、一部の人たちにとっては英雄的な行為「善」だったのである。

したがって、誰かが「善だ」「悪だ」と言っても、それは自分を基準にして勝手に大騒ぎしているだけであり、つまるところ、「あの水が冷たい」という言葉が絶対的な真実ではないのと同様に、「あれは善いことだ」も「あれは悪いことだ」も、絶対的な真実として言えないのだ。

だから、
「人を殺すことは、絶対的に悪だ」なんてことも言えないのである。

要するに、
「絶対的なものなどない」という主張である。その考え自体、絶対的なものかどうかという自己矛盾をはらんではいるが、大筋において、今日、多くの人に支持されている考えである。

ここからは因果の道理が大宇宙の真理であるなど、「信じられませ~ん!」ということになるのだろう。


【ヒューマニズム】

一般に、ヒューマニズムといわれているものを概括してみます。

ヒューマニズムは、超自然的な存在を否定し、理性・倫理・正義を信奉し、神など、この世を超越した存在への信仰を要さずに、人は虚無的に陥らず、道徳的たりえるとする立場の総称。
盲目的な信仰・教条主義・啓示・宗教的道徳の代わりに科学的手法による真実の探求が奨励され、「科学的ヒューマニズム」という言い方もされる。

「僕が僕であるために~♪」という主張も、こういうヒューマニズムに根ざしていると考えられる。



以上、見てきたように、浄土真宗の学者たちは、近代以降、これら【実証主義】【唯物論】【相対主義】【ヒューマニズム】などの新しい思想の挑戦を受けて惨敗し、教義を曲げて仲良く同調していったのでしょう。
それは今日、親鸞会が親鸞聖人の教えを明らかにしようとすればするほど、浄土真宗のはずの人たちから上記のような非難攻撃を受ける事実からも明らかです。



真宗界の崩落の歴史(4) 『浄土教批判』

2010-06-02 21:15:28 | Weblog
野村直太郎という龍谷大教授の書いた『浄土教批判』という論文が、明治から大正期にかけ、大きな話題になったことがある。書籍化もされ、大正12年5月に初版、翌年1月までに11版を重ねるベストセラーとなったという。
そしてこの内容が、当時の仏教界、特に浄土教団内に相当なショックを与えた、とある。

この論文が出てきた背景には、19世紀以降の急速な科学の発展に伴う、科学思想の普及があったと思われる。
つまり、何事も科学的に実証しなければ、真実とは認めないというあの態度のことである。

日本仏教に限らず、宗教の聖典上に見られる、いわゆる超常的な記述はことごとく、科学で実証されえない「迷信」「神話」と見なされるようになった。宗教はもはや「真理の座」から滑り落ち、「一つの考え方」「生き方の一つ」と認知されることによって、かろうじてその地位を保ち、今日に至っている。

それまで浄土系の宗派は、西方極楽浄土の存在も、阿弥陀仏の存在も、そして浄土往生こそ人間に生まれてきた目的ということも普通に説かれ、聞く者も普通にそれを受け入れていた。お聖教に書かれたことが「真理」であったのだ。

だが、科学が「真理」に取って代わる時代となると、事態は一変する。

科学で証明されないものは信じてはならない風潮に抵抗しきれず、教義から神話的要素を排除しなければ、もはや時代に相応しないという危機感に、宗教界全体が浮き足立ったのである。

真宗界もその例外ではなかった。

野々村は、「往生思想を歓迎するような時代はもはやおそらく永久に去った」と述べ、近代科学の到来によって〃前近代的〃な浄土観・阿弥陀仏観は、もはや封建主義の残物に過ぎないと主張した。

批判は主に、「三世因果」「六道輪廻」「極楽往生の救済思想」、そして「〃宗教神話〃(彼が言うには)として築かれた弥陀成仏」に向けられ、野々村によれば、原始仏教には往生思想などなく「印度人の大嘘」に過ぎないとまで言っている。

では浄土教はただの嘘かというと、氏はそうではないと言い、そういった神話をそぎ落とした先にある浄土教の本質が「二種の深心」であり、浄土教は来世云々をいうのではなく、現世の苦悩を解決する教えであると位置づけた。つまり、浄土往生の思想を取り除いても、親鸞聖人の宗教の本質的、現実的な意義は失われないというもので、まさに今日、真宗大谷派の学者から聞かされる教えそのものである。

だがここで、野々村の主張の正邪を論じるつもりはない。知っていただきたいのは、この当時の、真宗界の反応である。

今日、野々村のような主張をしても、真宗界で異端視されることはなかろう。それほど今の浄土真宗は〃野々村化〃しているのである。だが、昔はそうではなかった。

真宗教団は野々村に強い拒否反応を起こし、たくさんの反論書が出され、彼を龍谷大学の教授の座から追放した。つまり彼の主張を当時の〃正統派〃は、親鸞聖人の教えの破壊とみなしたということだ。

ここから分かることは、野々村の本が出てくる以前、すなわち大正12年以前には、東西本願寺とも、三世因果も六道輪廻も浄土往生も、きちんと説いていたということである。でなければ、野々村の主張を異端として排除することはなかったはずである。

だが当時の真宗界を見るに、科学思想に幻惑、圧倒され、「死後の地獄極楽が真実と言うなら、科学的に証明せよ」という、外部からの軋轢(あつれき)に抗しきれなかったのだろう。

科学的、理性的に容認できるような形に教義を歪め、当時の風潮と折り合いをつけようとしたのが野々村で、その主張に同調する者が、やがて多数派を占めるようになったのは、当然の成り行きだったと思われる。

当時の真宗の〃正統派〃には、この教義面での自信喪失を立て直せるほどの信仰も教学もなかった。次第に、科学万能、実証主義の世間の声に押され、なし崩し的に浄土往生も三世因果も、もちろん後生の一大事も、お聖教にどれだけハッキリ書かれてあっても、「神話的記述」「物語」として扱われるようになっていくのである。

野々村の言ったといわれる言葉。
「汽車は出て行く、煙は残る」

つまり科学はどんどん進化し、神話を事実のように語る宗教は取り残される。
教団人は駅のホームで伝統の重荷を背にしたまま、呆然とつっ立っていてはならない……。


この野々村氏の事件は、当時の真宗界の動乱ぶりを物語る事例の一つにほかならない。
同種の主張がこのあと、様々な学者によってなされ、真宗界は完全に舵取りがきかなくなって迷走していった。

こうして浄土真宗は、近代に入って急速に変質していくのである。