静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

釈迦一代記(5)無明の闇

2019-01-31 16:18:01 | Weblog
前回は、「有無同然」ということについてお話しました。

これは、(金、財産、名誉、地位)など、幸せと思って手に入れたこれらのものは、たくさん有っても、あるいは無くても、生きることが不安で不満であるということは、
同じであるという意味でした。ということは、「人生は苦なり」となる原因は、これらの有る無しではないということです。では、どこに原因があるかというと、それは私たちの「心」自体にあるのです。

ちょうど体が病に冒されていると、ご馳走を出されてもおいしいと感じないようなものです。熱が39度も40度もある時に、松坂牛のステーキを出されても、大間のクロマグロを出されても少しも美味しくないと思います。それは出されたものがまずいわけではなく、自分の舌が病でおかしくなっていて、味が感じられなくなっているということです。同じように、私たちの心に深い闇があって、そのために、いい大学に入っても、いい会社に就職しても、出世してお金が儲かっても、結婚しても、マイホームが建っても、何をやっても、喜びは一時的で、やがて不安で、むなしさを感じて、人間に生まれたことを心から喜べないでいるのです。

原因は私たちの「心の闇」にあります。闇といわれてピンと来ないかもしれませんが、例えば皆さん、今日、病院で精密検査を受けられたとします。そこでお医者さんがレントゲン写真を見せて、「ここにガンがあります」と言ったら、どんな気持ちになるでしょう。それまでどんなに楽しくても、「ガンがあります」の一言で、楽しみは一瞬にして消し飛んで、お先まっ暗になるのではないでしょうか。

この死に向かうと、胸一面に出てくる真っ暗な心。これを仏教で「後生暗い心」といい、「無明の闇」ともいわれます。これがいわば心の病で、この病で、私たちはこれらの〃ご馳走〃を幸福と味わえないでいるのです。


さて、シッタルタ太子はお城を出たあと、どうしたかと言うと、最初は苦行林というところへ行きました。そこで肉体を徹底的に苦しめる、厳しい修行を6年しました。しかし、それではさとりが得られず、今度は菩提樹の木の下に座り、自分の心をとことん突き詰めていかれたのです。その時、さまざまな邪念や妄念が出てきて太子を惑わそうとしましたが、まことの幸せを突き止めたいという太子の求道心は、ことごとくそれらを斥け、35歳の12月8日、ついに仏のさとりをひらかれたのです。

釈迦一代記(4)人生は苦なり

2019-01-30 13:29:29 | Weblog
シッタルタ太子は、のちにさとりをひらかれて、こう仰っています。
「人生は苦なり」。そして「有無同然」と。

どういうことかと言いますと、人生は苦しみである。それは、有る人も無い人も同じである。ということです。
ここで「有る」といわれているのは、私たちが求めているお金や財産、名誉や地位、結婚、マイホームなどに恵まれている人のことです。
反対に「無い」といわれるのは、これらがない人です。

私たちは「人生は苦なり」といわれても、それは無い人のことで、ある人のことではないと思いがちです。
ところが釈迦は、有る者も無い者も皆同じ、「人生は苦なり」なのだよと教えられているのです。

どういうことかと言いますと、
例えばお金でいうと、お金がない苦しみというとは分かりやすいです。
お金がないと、欲しいものがあっても買えませんから我慢しなければなりません。だから、いつも不満です。
また明日からの生活どうしようか、老後の生活どうなるんだろうかと、つねに不安です。

ではお金が有れば、こうした「不満」や「不安」がなくなるかというとそうではありません。

たとえば、お金のない人が車をもらったら、軽四の車でも大喜びだと思います。
でも、億万長者は同じ軽四の車をもらっても喜ばないと思います。そもそも車だと思ってないかもしれません。
ポルシェやベンツのような高級車をもらっても、すでに持っていますからそんなに喜ばないと思います。
そんな人を満足させるのは大変です。欲しいものが私たちとケタが違いますから、よほどのものでないと満足しません。

つまり人というのは、お金や物を手に入れるほど、欲望も大きくなるのです。象は象のフンをノミはノミのフンをするといわれるように、億万長者は億万長者の欲を持ちます。だから1億円の豪邸を建ててもまだ足りず、別荘を買ったり、クルーザーを買ったりするわけです。しかし、それでもこの欲は収まらないので、心はいつも渇いています。満ち足りるということがないのです。


また、お金がないと先々の生活が心配ですが、お金持ちには生活の不安はありません。しかし、今度はそのお金を盗られはしまいか、騙されはしまいか、襲われはしまいかという不安が出てきます。お金持ちの高級マンションほどセキュリティーが厳重なのも、襲われることが心配だからでしょう。
その点、貧乏長屋にセキュリティーは入りません。襲っても、取れるものがないですから、誰も襲ってこないのです。

振り込め詐欺というのも、許しがたい話ですが、あれは持っているから騙されるのです。お金がなければ騙されようがありません。
例え「おばあちゃん、あ、オレオレ。頼むからさ、明日までに500万振り込んでくれない」という電話がかかってきても、「そうかい、でもそんなお金ないよ」と言うしかありませんから、「ああ、そう」で終わります。
でもお金があると、まんまと引っかかるかもしれません。だから、有る人は他人の言うことをいちいち疑ってかからなければいけません。

このようにお金が無ければもちろん、不安で不満ですが、有れば有ったで、また別の不安、不満が起きてくるのです。

名誉とか地位もそうです。これがないと、人から軽んじられたり無視されますから、寂しい気持ちになります。
かといって名誉や地位を得ると、無視されることはありませんが、反対に、みんなが私の一挙手一投足に注目するようになります。そうなると何かおかしなことがあると、すぐ見つかって大騒ぎになり、記者会見で謝罪しなければならなくなります。だから失敗しないよう、不祥事がバレないよう、戦々恐々としています。昔から「楽は下にあり」といわれる通りです。

これを無い人の苦しみは鉄の鎖で縛られているようなもの。有る人の苦しみは、金の鎖で縛られているようなもの。といわれます。
金と鉄。縛っているものはまるで違いますが、縛られて苦しんでいる姿は変わりません。

では、話をシッタルタ太子に戻しますが、太子はいわゆる「有る」人でした。それもトップクラスの有る人です。だから金の鎖の縛られていました。人はそれが金であるのを見て、うらやましいと言いますが、当の本人はそれにしばられて苦しんでいたのです。

この人生の苦しみの根本を解決し、まことの幸せになりたいと、城を抜け出したシッタルタ太子は、そのあとどうなったのか。次回、お話したいと思います。

釈迦一代記(3) 有無同然

2019-01-08 11:45:28 | Weblog
釈迦一代記(3) 有無同然

シッタルタ太子は、お金、財産、地位、名誉、妻子、家など、私たちが「あったらなあ……」と思うもの全てに恵まれていました。しかし、いつか肉体が衰え、病で寝たきりとなると、いずれも虚しいものになっていきます。ましてや死が来たら何の心の明かりともならず、絶望しかありません。
太子は「四門出遊」といわれる出来事を通して、人生には老・病・死という避けられない苦しみがあり、それによってどんな幸せも崩されてしまうことに悩んでいたのです。

どこかに、年をとっても、病で動けなくなっても、そして死がきても崩れない幸せはないだろうか。太子は、お城を出て、まことの幸福を求めたいという思いが日に日に強くなっていきました。

王様はそんな太子を心配し、少しでも太子を喜ばせようと、四季の御殿を建てたといわれます。四季の御殿とは、春、夏、秋、冬の4つの御殿で、そこにはあらゆる美味しいもの、珍しいものが集められ、500の美女がいつももてなしてくれる、まるでこの世の楽園でした。

ところが、それらを与えられても、太子の心は少しも晴れませんでした。

そしてある日、こんなことがありました。
太子が真夜中、ふと寝室から外へ出てみると、昼間ははきれいに着飾り、立ち居振る舞いも上品な女性たちが、大広間で皆、だらしない姿で寝ていたのです。鼾をかいたり、寝言を言う人もいたのかもしれません。それを見て太子は、普段とのあまりのギャップに愕然としたといわれます。
そこで太子はこれを機に、城を飛び出す決意をしました。そのまま、白い馬に乗ってどこか遠くへ旅立ったのです、まことの幸せを見つけるまでは、二度とこの城には戻らないという固い決心をされてのことです。太子29歳の時のことでした。

常識的に考えれば、このままお城に残ることが、いちばんの楽で幸福な道なのですが、シッタルタ太子が選んだのは最も険しい、茨の道でした。その覚悟がいかなるものであったか、私たちに推し量れるものではありません。
(つづく)