■ある人の質問からです。
なぜ生きるか?を知ることが、いちばん大事と言われますが、生きるのは人間の本能だから、いちいち目的とか、意味とか、難しく考えず「生きたいから生きる」。それでいいんじゃないですか?
こういう疑問を時々聞きます。
以前見たTVドラマでも、主人公がそういうことを言っていました。ある女性が仕事で致命的なミスをして、会社からも白い目で見られ、「もう私なんか、生きている意味がない」と言って自殺しようとします。
そこへ主人公がやって来て、
「生きることに意味がないとだめなんですか?生きたいから生きる。それで十分じゃないですか。人から何と思われようと、あなたはあなたの人生を生きればいいんですよ!」
そのようなセリフを言って、女性が自殺を思いとどまる、そういうシーンでした。
自殺を止めたんですから、それはそれで結構なのですが、そのセリフに、本当に説得される内容があったのか、それは少し考えものです。
「生きたいから生きる。それで十分じゃないか」。ドラマの主人公はそう言っていましたが、本当にそれで十分でしょうか?
「生きたい」とは、言葉を換えれば「死にたくない」ということです。
★生きたい=死にたくない
誰だって死にたくありません。しかし、どんなに「死にたくない」と頑張ってみても、人は死ななければなりません。
★死にたくない⇒ これが私たちの思いです。
★死なねばならない⇒ そしてこれが現実です。
これが何を意味するか考えてみましょう。 例えば大学に進学したい人がいるとします。でも親の反対で進学できない。そうなると、大学へ行きたいと思うほど、行けない現実が苦しくなります。あるいは、どうしても結婚したい人がいるとします。でも、その人は他に好きな人がいて、結婚できる見込みはない。こうなると、結婚したいと思うほど、できない現実が苦しみになります。
同じことで、人は絶対死にたくありません。しかし絶対死なねばなりません。人間とはこういう矛盾した存在であって、ここに万人の抱える「人間存在そのものの苦しみ」があると仏教では教えられます。
大学や結婚なら、努力次第で現実が変わる望みはありますが、死ぬことばかりは100パーセント望みはありません。となると、「生きたいから生きる。それでいいじゃないか」というわけにもいかないのです。
どんなに生きたくても死ぬに決まっているのですから、「生きたいから生きる」では、「絶対負ける戦い」を挑むようなもので、それは絶望への道です。それでは苦しむために生きるようなものですから、生きるには、死を超える、何か希望なり明かりが必要です。
なぜ生きるか?を知ることが、いちばん大事と言われますが、生きるのは人間の本能だから、いちいち目的とか、意味とか、難しく考えず「生きたいから生きる」。それでいいんじゃないですか?
こういう疑問を時々聞きます。
以前見たTVドラマでも、主人公がそういうことを言っていました。ある女性が仕事で致命的なミスをして、会社からも白い目で見られ、「もう私なんか、生きている意味がない」と言って自殺しようとします。
そこへ主人公がやって来て、
「生きることに意味がないとだめなんですか?生きたいから生きる。それで十分じゃないですか。人から何と思われようと、あなたはあなたの人生を生きればいいんですよ!」
そのようなセリフを言って、女性が自殺を思いとどまる、そういうシーンでした。
自殺を止めたんですから、それはそれで結構なのですが、そのセリフに、本当に説得される内容があったのか、それは少し考えものです。
「生きたいから生きる。それで十分じゃないか」。ドラマの主人公はそう言っていましたが、本当にそれで十分でしょうか?
「生きたい」とは、言葉を換えれば「死にたくない」ということです。
★生きたい=死にたくない
誰だって死にたくありません。しかし、どんなに「死にたくない」と頑張ってみても、人は死ななければなりません。
★死にたくない⇒ これが私たちの思いです。
★死なねばならない⇒ そしてこれが現実です。
これが何を意味するか考えてみましょう。 例えば大学に進学したい人がいるとします。でも親の反対で進学できない。そうなると、大学へ行きたいと思うほど、行けない現実が苦しくなります。あるいは、どうしても結婚したい人がいるとします。でも、その人は他に好きな人がいて、結婚できる見込みはない。こうなると、結婚したいと思うほど、できない現実が苦しみになります。
同じことで、人は絶対死にたくありません。しかし絶対死なねばなりません。人間とはこういう矛盾した存在であって、ここに万人の抱える「人間存在そのものの苦しみ」があると仏教では教えられます。
大学や結婚なら、努力次第で現実が変わる望みはありますが、死ぬことばかりは100パーセント望みはありません。となると、「生きたいから生きる。それでいいじゃないか」というわけにもいかないのです。
どんなに生きたくても死ぬに決まっているのですから、「生きたいから生きる」では、「絶対負ける戦い」を挑むようなもので、それは絶望への道です。それでは苦しむために生きるようなものですから、生きるには、死を超える、何か希望なり明かりが必要です。
私たちは、心でどんなことを思っているでしょうか。お釈迦さまは、そこに貪欲、瞋恚、愚痴という3つの悪があることを教えておられます。
貪欲とは、あれが欲しいこれが欲しいという欲の心です。大別すると5つあり、五欲といわれます。すなわち食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲の5つです。
食欲とは食べたい飲みたい。財欲とはお金がほしい。色欲は男や女がほしい。名誉欲はほめられたい、他人に勝ちたい、睡眠欲は眠たい、楽したいという欲です。
考えてみますと、私たちの生活というのは、これらの欲を満たす、つまりお金を儲けたい、人にほめられたい、異性にモテたい。そのためだけに一生懸命になっています。しかもこの欲は、満たせば満たすほど、もっと欲しくなってきます。
私たちを朝から晩、晩から朝まで一日中、引きずり回しているのが、まさにこの底なしの欲なのですが、その欲が悪といわれるのはなぜでしょうか。それは、この欲を満たすために、私たちは恐ろしいことを思うからです。世の中にあふれる犯罪や争いは、元をただせば、この欲から起きています。
例えば強盗や泥棒、詐欺などの犯罪、闇取引などの汚職事件、あるいは遺産相続をめぐる親戚や兄弟の骨肉相食む争いは、お金が欲しいという財欲から起きたことです。
またスポーツ選手が、ライバルを蹴落としたり、禁止薬物を使ったりするのは、他人に勝ちたい名誉欲がさせたことです。
不倫やストーカーなどは色欲がさせたことですし、肉や魚を食べるため、生き物を殺すことは、法律でこそ罰せられませんが、仏教では殺生罪という罪に数えられます。こうした罪や悪は、いずれも私たちの欲が引き起こしたものなのです。
この欲が誰かに妨げられると出てくるのが瞋恚、怒りの心です。あいつのせいで損した、こいつのせいで恥をかかされたと、怒りの心が燃え上がると、何をやらかすか分かりません。離婚話にカッとなった夫が、包丁で妻を刺したという事件などは、恐ろしい瞋恚の心のなせるわざです。
次に愚痴とは、ねたみ、そねみ、うらみの心をいいます。自分の身におきた不幸を他人のせいにしてうらみ、自分よりも恵まれた相手の才能や美貌、金や財産、名誉や地位をねたみ、相手の不幸を喜ぶ醜い心です。
こういう貪欲、瞋恚、愚痴の炎が絶えず燃え盛っているのが私たちの心です。
自分に余裕のある時は、比較的心は穏やかで、そんな悪いことを考えているとは思えないかもしれません。しかし、ギリギリまで追い詰められた時、人はどんなことを思うでしょうか。
日本は今や高齢社会となり、介護地獄という言葉もあるとおり、認知症や徘徊が始まった親の介護で、仕事もできず、家も空けられず、経済的にも精神的にも追い詰められている人が少なくありません。中には虐待や殺人に至るケースさえあります。
介護も限度を超えると、今まで仲の良かった親子でも、それまで思いもしなかった、冷たい、恐ろしい心が出てこないでしょうか。ないものは出て来るはずはないので、出てくるとすれば、それが己の本性だからです。
真面目に自己を見つめるほど、私たちの心の奥底には、誰にも見せられないものがあることに気づかれると思います。
作家の吉行淳之介は、
「悪に汚れるのが厭ならば、生きることをやめなくてはならない。生きているのに汚れていないつもりならば、それはただの鈍感というものである」と言っています。
また同じく作家の芥川龍之介は、「周囲は醜い。自己も醜い。そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい」と言って、絶望して自殺をしています。
仏教では私たちの本当の姿を、煩悩具足の凡夫と教えています。煩悩とは欲や怒りや愚痴をはじめとする私たちを苦しませるもののことで、全部で108つあります。具足とは100パーセントそれでできているということ、凡夫とは人間のことです。
100パーセント煩悩で出来ている私たちだから、「心常念悪 口常言悪 身常行悪」となるのです。こういう煩悩具足の自分と知らされるほど、こんな者が本当に幸せになれるのか、暗澹たる思いになります。しかし、仏さまの慈悲は、苦しんでいる者にこそ注がれます。
真実の仏教は、こういう罪や悪で苦しみ続ける煩悩具足の私たちを目当てに救う教えなのです。こういう私たちが、あるがままで絶対の幸福に救い摂られて、「人間に生まれてきてよかった」という生命の大歓喜を味わえるのです。
そんな絶対の幸福に、仏教を聞けば必ずなれます。それが本当の仏教なのです。ではその絶対の幸福とはどういう幸福か、詳しいことはまた次の機会にお話いたします。
貪欲とは、あれが欲しいこれが欲しいという欲の心です。大別すると5つあり、五欲といわれます。すなわち食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲の5つです。
食欲とは食べたい飲みたい。財欲とはお金がほしい。色欲は男や女がほしい。名誉欲はほめられたい、他人に勝ちたい、睡眠欲は眠たい、楽したいという欲です。
考えてみますと、私たちの生活というのは、これらの欲を満たす、つまりお金を儲けたい、人にほめられたい、異性にモテたい。そのためだけに一生懸命になっています。しかもこの欲は、満たせば満たすほど、もっと欲しくなってきます。
私たちを朝から晩、晩から朝まで一日中、引きずり回しているのが、まさにこの底なしの欲なのですが、その欲が悪といわれるのはなぜでしょうか。それは、この欲を満たすために、私たちは恐ろしいことを思うからです。世の中にあふれる犯罪や争いは、元をただせば、この欲から起きています。
例えば強盗や泥棒、詐欺などの犯罪、闇取引などの汚職事件、あるいは遺産相続をめぐる親戚や兄弟の骨肉相食む争いは、お金が欲しいという財欲から起きたことです。
またスポーツ選手が、ライバルを蹴落としたり、禁止薬物を使ったりするのは、他人に勝ちたい名誉欲がさせたことです。
不倫やストーカーなどは色欲がさせたことですし、肉や魚を食べるため、生き物を殺すことは、法律でこそ罰せられませんが、仏教では殺生罪という罪に数えられます。こうした罪や悪は、いずれも私たちの欲が引き起こしたものなのです。
この欲が誰かに妨げられると出てくるのが瞋恚、怒りの心です。あいつのせいで損した、こいつのせいで恥をかかされたと、怒りの心が燃え上がると、何をやらかすか分かりません。離婚話にカッとなった夫が、包丁で妻を刺したという事件などは、恐ろしい瞋恚の心のなせるわざです。
次に愚痴とは、ねたみ、そねみ、うらみの心をいいます。自分の身におきた不幸を他人のせいにしてうらみ、自分よりも恵まれた相手の才能や美貌、金や財産、名誉や地位をねたみ、相手の不幸を喜ぶ醜い心です。
こういう貪欲、瞋恚、愚痴の炎が絶えず燃え盛っているのが私たちの心です。
自分に余裕のある時は、比較的心は穏やかで、そんな悪いことを考えているとは思えないかもしれません。しかし、ギリギリまで追い詰められた時、人はどんなことを思うでしょうか。
日本は今や高齢社会となり、介護地獄という言葉もあるとおり、認知症や徘徊が始まった親の介護で、仕事もできず、家も空けられず、経済的にも精神的にも追い詰められている人が少なくありません。中には虐待や殺人に至るケースさえあります。
介護も限度を超えると、今まで仲の良かった親子でも、それまで思いもしなかった、冷たい、恐ろしい心が出てこないでしょうか。ないものは出て来るはずはないので、出てくるとすれば、それが己の本性だからです。
真面目に自己を見つめるほど、私たちの心の奥底には、誰にも見せられないものがあることに気づかれると思います。
作家の吉行淳之介は、
「悪に汚れるのが厭ならば、生きることをやめなくてはならない。生きているのに汚れていないつもりならば、それはただの鈍感というものである」と言っています。
また同じく作家の芥川龍之介は、「周囲は醜い。自己も醜い。そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい」と言って、絶望して自殺をしています。
仏教では私たちの本当の姿を、煩悩具足の凡夫と教えています。煩悩とは欲や怒りや愚痴をはじめとする私たちを苦しませるもののことで、全部で108つあります。具足とは100パーセントそれでできているということ、凡夫とは人間のことです。
100パーセント煩悩で出来ている私たちだから、「心常念悪 口常言悪 身常行悪」となるのです。こういう煩悩具足の自分と知らされるほど、こんな者が本当に幸せになれるのか、暗澹たる思いになります。しかし、仏さまの慈悲は、苦しんでいる者にこそ注がれます。
真実の仏教は、こういう罪や悪で苦しみ続ける煩悩具足の私たちを目当てに救う教えなのです。こういう私たちが、あるがままで絶対の幸福に救い摂られて、「人間に生まれてきてよかった」という生命の大歓喜を味わえるのです。
そんな絶対の幸福に、仏教を聞けば必ずなれます。それが本当の仏教なのです。ではその絶対の幸福とはどういう幸福か、詳しいことはまた次の機会にお話いたします。
私とはどんな人間か、その本当の姿を知るには、仏という鏡を見ることが大切であると、前回お話しました。
仏という鏡を法鏡ともいいます。法とは真実のことで、真実の自己を映す鏡、それが法鏡です。この法鏡を見るとは、仏教を聞くことをいうのです。
お釈迦さまは『大無量寿経』というお経に、私たちの姿を、
心常念悪
口常言悪
身常行悪
曽無一善
と説かれています。
これは「心は常に悪を思い、口は常に悪を言い、身は常に悪を行って、曽て一つの善もなし」と読みます。
こう聞くと「そんな悪い奴がいるんですか。そりゃあ早く捕まえて、刑務所に入れないといけませんな」と思う人はあっても、これが自分のことだと思う人はいないと思います。
なぜなら、この「常」という字が問題です。これが「時々」とか「たまたま」という字なら分かります。「心は時々悪いことを思う」「口は時々悪いことを言う」「身はたまたま悪いことを行う」。これなら「私のことかな」と自覚できますが、「常に」と言われると、「そこまでひどくはなかろう」と思ってしまいます。
しかしお釈迦さまは、今、世界に70億の人がいるとして、その中にはこんな悪い奴もいるということではなく、70億いれば70億、皆、こんな姿をしていると仰るのです。
信じ難いことかもしれませんが、世界の三大聖人、二大聖人といっても、トップにあげられるお釈迦さまが、いい加減なことを仰るはずはありません。ではなぜ、こう言われるのか、それをよく聞かせていただきましょう。
まず仏さまは、私がどんな人間かを見られるのに、心と口と身の3つを見ておられることに着目してください。
ここが世間一般の見方と違うところです。例えば裁判で人を裁く場合、その人が実際にやった「言動」を問題にします。心で思っただけなら、他人に迷惑をかけたわけではないので、問題にしません。たとえ心で、「殺してやりたい」と思ったとしても、それを口に出したり、実行しない限り罪に問われることはありません。
ところが仏教では、「殺るよりも 劣らぬものは 思う罪」といわれて、たとえ身体で殺さなくても、口で「殺してやる」と言わなくても、心で思えば罪になると教えます。しかもそれは、身や口で犯す罪より、ずっと重いといわれるのです。
なぜかといいますと、私たちの言動、つまり口や身の行為といいましても、それをさせている大元はすべて心にあるからです。
例えば、今、あなたはパソコンの前におられると思いますが、あなた身体が勝手にそこまで動いてきたのではないはずです。あなたの心が「パソコンの前に座れ」という指令を出し、身体はそれに従っただけです。
また、私が今ぺらぺら話をしております。これは口の行為ですが、私の口が勝手に話しているわけではありません。「次はこう言えよ」「その次はこう言うんだぞ」と心がそういう指令を出しているのです。
このように、私たちの言動というのは、全て心の指示です。ですから身体や口がやったことより、そういう指示を出した「心」を重く見るのは当然のことなのです。
では私たちは、心でどんなことを思っているでしょうか。お釈迦さまは、そこに貪欲、瞋恚、愚痴という3つの悪があることを教えておられます。
仏という鏡を法鏡ともいいます。法とは真実のことで、真実の自己を映す鏡、それが法鏡です。この法鏡を見るとは、仏教を聞くことをいうのです。
お釈迦さまは『大無量寿経』というお経に、私たちの姿を、
心常念悪
口常言悪
身常行悪
曽無一善
と説かれています。
これは「心は常に悪を思い、口は常に悪を言い、身は常に悪を行って、曽て一つの善もなし」と読みます。
こう聞くと「そんな悪い奴がいるんですか。そりゃあ早く捕まえて、刑務所に入れないといけませんな」と思う人はあっても、これが自分のことだと思う人はいないと思います。
なぜなら、この「常」という字が問題です。これが「時々」とか「たまたま」という字なら分かります。「心は時々悪いことを思う」「口は時々悪いことを言う」「身はたまたま悪いことを行う」。これなら「私のことかな」と自覚できますが、「常に」と言われると、「そこまでひどくはなかろう」と思ってしまいます。
しかしお釈迦さまは、今、世界に70億の人がいるとして、その中にはこんな悪い奴もいるということではなく、70億いれば70億、皆、こんな姿をしていると仰るのです。
信じ難いことかもしれませんが、世界の三大聖人、二大聖人といっても、トップにあげられるお釈迦さまが、いい加減なことを仰るはずはありません。ではなぜ、こう言われるのか、それをよく聞かせていただきましょう。
まず仏さまは、私がどんな人間かを見られるのに、心と口と身の3つを見ておられることに着目してください。
ここが世間一般の見方と違うところです。例えば裁判で人を裁く場合、その人が実際にやった「言動」を問題にします。心で思っただけなら、他人に迷惑をかけたわけではないので、問題にしません。たとえ心で、「殺してやりたい」と思ったとしても、それを口に出したり、実行しない限り罪に問われることはありません。
ところが仏教では、「殺るよりも 劣らぬものは 思う罪」といわれて、たとえ身体で殺さなくても、口で「殺してやる」と言わなくても、心で思えば罪になると教えます。しかもそれは、身や口で犯す罪より、ずっと重いといわれるのです。
なぜかといいますと、私たちの言動、つまり口や身の行為といいましても、それをさせている大元はすべて心にあるからです。
例えば、今、あなたはパソコンの前におられると思いますが、あなた身体が勝手にそこまで動いてきたのではないはずです。あなたの心が「パソコンの前に座れ」という指令を出し、身体はそれに従っただけです。
また、私が今ぺらぺら話をしております。これは口の行為ですが、私の口が勝手に話しているわけではありません。「次はこう言えよ」「その次はこう言うんだぞ」と心がそういう指令を出しているのです。
このように、私たちの言動というのは、全て心の指示です。ですから身体や口がやったことより、そういう指示を出した「心」を重く見るのは当然のことなのです。
では私たちは、心でどんなことを思っているでしょうか。お釈迦さまは、そこに貪欲、瞋恚、愚痴という3つの悪があることを教えておられます。
では次に、自分鏡はどうでしょうか。この自分鏡とは、あちらが他人からの評価でしたから、こちらは自己評価になります。
自分で自分を評価する。これならどうでしょう。実はこれにも欠陥があって、この鏡も当てになりません。
面接試験で、自己評価を聞かれた時、皆さんならどう答えるでしょうか。5段階で答えるとして、5と言うと自惚れているようなので言わないと思います。かといって1とか2は、自尊心が言わせないと思います。大概、人は自分は中の上と思っていますから、4ぐらいと答えるのではないでしょうか。しかし、それが本当なら、世の中は、中の上の人ばかりになります。しかし現実は、半分以上が3より下なのです。
犯罪を犯して刑務所に入っている人なら、さすがに自己評価は低いだろうと思われるかもしれませんが、全然そんなことはないそうです。銀行強盗した人は、自分の大胆さを誇り、スリは自分の機敏さを自慢し、詐欺師は俺は頭がキレると自惚れています。
このように人は、悪いことをやっていても、自分という人間は本当はすごい奴なんだと思いたいのです。
こういうのを欲目といいます。この欲目があって、私たちは自分自身のことを正しく見れません。この鏡にはいつでも、まんざらでもない自分の姿が映るのです。
たとえ口では、「私は何もできないお粗末な者です。どうか皆さま、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします」と、へりくだってみても、心の中では「こういう謙虚さが大事なんだぞ」「これだけ頭の低い者がほかにおるか」と思っていて、頭は低く下げてはおりますが、「どうだ」と、相手を上から見ています。自慢話は見苦しいと思って言わないようにしても、そういう自慢しないことを、ひそかに自慢してしまうのですから、私たちの自惚れ心は、相当根深いものなのです。
もちろん謙虚さは大切なのですが、「ダメな私」と自分で言っておきながら、人から「確かにあんたはダメだね」と言われると、腹が立ってきます。「そういうおまえはどうなんだ!」と言い返したくなるのは、本心、自分をダメとは思っていない証拠です。
ですからこの自分鏡も、欲目が入るという致命的な欠陥があって、自分の本当の姿を映してはいないのです。
しかし皆さん、考えてみてください。自分で自覚している「自分」「自己」というのは、何を見てのことでしょう。
よく自己主張とか、自己啓発とか、自己肯定感が大事であるといわれます。そこで言われる「自己」とは、この他人鏡か、自分鏡に映った自己ではないでしょうか。
しかし、この他人鏡も自分鏡も、今言った通り欠陥品ですから、ここに本当の自分は映っていません。だとすると、私たちが自覚している自己とは、本当の自分とは違うものだということです。
となると私たちは、「自分とは何か」という出発点からそもそも大きな勘違い、錯覚をしていることになります。最初のボタンを掛け違えれば、あとのボタンは全部狂うように、自分を誤解していたら、それを主張したり、啓発したり、肯定することに、どれほど意味があるのでしょうか。
いつの世も、どこの国でも、人は人生の最後に、「こんなはずではなかった」と後悔を繰り返してきたのもそのためなのです。
では本当の自分とはいかなるものでしょうか。それを知るには3番目の「仏」という鏡を見ることが大切です。これは仏さまの目に映った私たちの姿です。お釈迦さまの本心が説かれている『大無量寿経』には、
心常念悪
口常言悪
身常行悪
曽無一善
と私たちのことが説かれています。これはどういう意味か、次回お話したいと思います。
自分で自分を評価する。これならどうでしょう。実はこれにも欠陥があって、この鏡も当てになりません。
面接試験で、自己評価を聞かれた時、皆さんならどう答えるでしょうか。5段階で答えるとして、5と言うと自惚れているようなので言わないと思います。かといって1とか2は、自尊心が言わせないと思います。大概、人は自分は中の上と思っていますから、4ぐらいと答えるのではないでしょうか。しかし、それが本当なら、世の中は、中の上の人ばかりになります。しかし現実は、半分以上が3より下なのです。
犯罪を犯して刑務所に入っている人なら、さすがに自己評価は低いだろうと思われるかもしれませんが、全然そんなことはないそうです。銀行強盗した人は、自分の大胆さを誇り、スリは自分の機敏さを自慢し、詐欺師は俺は頭がキレると自惚れています。
このように人は、悪いことをやっていても、自分という人間は本当はすごい奴なんだと思いたいのです。
こういうのを欲目といいます。この欲目があって、私たちは自分自身のことを正しく見れません。この鏡にはいつでも、まんざらでもない自分の姿が映るのです。
たとえ口では、「私は何もできないお粗末な者です。どうか皆さま、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします」と、へりくだってみても、心の中では「こういう謙虚さが大事なんだぞ」「これだけ頭の低い者がほかにおるか」と思っていて、頭は低く下げてはおりますが、「どうだ」と、相手を上から見ています。自慢話は見苦しいと思って言わないようにしても、そういう自慢しないことを、ひそかに自慢してしまうのですから、私たちの自惚れ心は、相当根深いものなのです。
もちろん謙虚さは大切なのですが、「ダメな私」と自分で言っておきながら、人から「確かにあんたはダメだね」と言われると、腹が立ってきます。「そういうおまえはどうなんだ!」と言い返したくなるのは、本心、自分をダメとは思っていない証拠です。
ですからこの自分鏡も、欲目が入るという致命的な欠陥があって、自分の本当の姿を映してはいないのです。
しかし皆さん、考えてみてください。自分で自覚している「自分」「自己」というのは、何を見てのことでしょう。
よく自己主張とか、自己啓発とか、自己肯定感が大事であるといわれます。そこで言われる「自己」とは、この他人鏡か、自分鏡に映った自己ではないでしょうか。
しかし、この他人鏡も自分鏡も、今言った通り欠陥品ですから、ここに本当の自分は映っていません。だとすると、私たちが自覚している自己とは、本当の自分とは違うものだということです。
となると私たちは、「自分とは何か」という出発点からそもそも大きな勘違い、錯覚をしていることになります。最初のボタンを掛け違えれば、あとのボタンは全部狂うように、自分を誤解していたら、それを主張したり、啓発したり、肯定することに、どれほど意味があるのでしょうか。
いつの世も、どこの国でも、人は人生の最後に、「こんなはずではなかった」と後悔を繰り返してきたのもそのためなのです。
では本当の自分とはいかなるものでしょうか。それを知るには3番目の「仏」という鏡を見ることが大切です。これは仏さまの目に映った私たちの姿です。お釈迦さまの本心が説かれている『大無量寿経』には、
心常念悪
口常言悪
身常行悪
曽無一善
と私たちのことが説かれています。これはどういう意味か、次回お話したいと思います。
前回、私というものを映す3枚の鏡があることを話しました。自分のこの姿形なら、洗面所の鏡に映りますが、ここで言う鏡とは、私はどんな人間か、その善悪を映す鏡のことです。
これに3枚あって、一つは他人という鏡。次に自分という鏡。そして仏という鏡です。
まず他人鏡とはどんな鏡かといいますと、他人からの評価のことです。つまり自分は、他人からどう評価されているか、それを他人鏡を見ると言っています。
自分が高く評価されたり、ほめ言葉を聴くといい気持ちになりますが、耳の痛い批判は誰しも聞きたくないものです。でも、そこに耳を傾けるのは大事なことです。
例えば、顔にご飯粒をつけたまま、知らずに町を歩いていたとします。その時、誰かが注意してくれなければ、そのままずっと恥をかき続けることになります。だからお釈迦さまは、自分の悪いところを注意してくれる人があれば、宝のありかを示してくれる人だと思って、有難く感謝しなさいと教えておられます。
ですから、「おまえのこういうところはよくないよ」と言われた時、「それは違う」と否定したり、腹を立てていては、誰も注意してくれなくなります。結局それで損をするのは自分なのです。
このように他人鏡は必要なものです。しかしここに私の本当の姿が映るかというと、実は大きな欠陥があります。
どういう欠陥かといいますと、映す人の都合で、評価がころころ変わってしまうということです。つまりこの鏡は、都合のよい人は「善人」と映しますし、反対に都合の悪い人は「悪人」と映します。
例えば、皆さんの家にピストルを持った強盗が入ってきたとします。ちょうどそこへ巡回中のおまわりさんがやって来ました。そのおまわりさんを見た時、あなたは地獄で仏と思うでしょう。しかし強盗は、自分を捕まえに来た鬼と出くわしたように思うはずです。
同じ警察官を、あなたは仏と見て、強盗はそれを鬼と見る。同じ人なのに、こんなに評価が分かれるのは、見た人の都合によるからです。
また、好感度ナンバーワンと言われる有名人が、スキャンダルを週刊誌にスクープされたりすると、「こんな人だとは思わなかった」と、一ぺんにイメージダウンします。善人で通っていた人ほど、だまされた気がして悪く言われてしまいます。
そうかと思うと、極道といわれる人が人助けなどすると、「本当は善い人なんだ」と、いっぺんに評価が上がります。
このように他人鏡とは、その人の都合で評価が正反対に分かれたり、あるいは過ち一つで一斉にこき下ろすかと思えば、一つ善いことをしただけで善人と持ち上げたり、善・悪の評価がコロコロ変わりますから当てになりません。
これを頓智で有名な一休和尚は、「今日褒めて、明日悪く言う人の口 泣くも笑うも ウソの世の中」と歌っています。褒められても謗られても、その人その人の都合で言っているだけですから、そんな言葉に一々泣いたり笑ったりしているのはバカげたことだよと歌ったものです。
諺にも、「惚れて眺めりゃあばたも笑窪」とありますように、好きな相手なら、その人の欠点まで長所に思えます。反対に「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」で、憎い奴だとその人のやることなすこと気に入らない。善いところまで貶そうとします。
他人の評価とはそういうものと分かれば、「豚は褒められても豚、ライオンは謗られてもライオン」。私は私なのですから、他人の評価に一喜一憂してきたことが、「泣くも笑うもウソの世の中」と知らされてきます。
こうした欠点が他人鏡にはあるので、無視してもいけませんが、ここに本当の私の姿は映らないのです。
これに3枚あって、一つは他人という鏡。次に自分という鏡。そして仏という鏡です。
まず他人鏡とはどんな鏡かといいますと、他人からの評価のことです。つまり自分は、他人からどう評価されているか、それを他人鏡を見ると言っています。
自分が高く評価されたり、ほめ言葉を聴くといい気持ちになりますが、耳の痛い批判は誰しも聞きたくないものです。でも、そこに耳を傾けるのは大事なことです。
例えば、顔にご飯粒をつけたまま、知らずに町を歩いていたとします。その時、誰かが注意してくれなければ、そのままずっと恥をかき続けることになります。だからお釈迦さまは、自分の悪いところを注意してくれる人があれば、宝のありかを示してくれる人だと思って、有難く感謝しなさいと教えておられます。
ですから、「おまえのこういうところはよくないよ」と言われた時、「それは違う」と否定したり、腹を立てていては、誰も注意してくれなくなります。結局それで損をするのは自分なのです。
このように他人鏡は必要なものです。しかしここに私の本当の姿が映るかというと、実は大きな欠陥があります。
どういう欠陥かといいますと、映す人の都合で、評価がころころ変わってしまうということです。つまりこの鏡は、都合のよい人は「善人」と映しますし、反対に都合の悪い人は「悪人」と映します。
例えば、皆さんの家にピストルを持った強盗が入ってきたとします。ちょうどそこへ巡回中のおまわりさんがやって来ました。そのおまわりさんを見た時、あなたは地獄で仏と思うでしょう。しかし強盗は、自分を捕まえに来た鬼と出くわしたように思うはずです。
同じ警察官を、あなたは仏と見て、強盗はそれを鬼と見る。同じ人なのに、こんなに評価が分かれるのは、見た人の都合によるからです。
また、好感度ナンバーワンと言われる有名人が、スキャンダルを週刊誌にスクープされたりすると、「こんな人だとは思わなかった」と、一ぺんにイメージダウンします。善人で通っていた人ほど、だまされた気がして悪く言われてしまいます。
そうかと思うと、極道といわれる人が人助けなどすると、「本当は善い人なんだ」と、いっぺんに評価が上がります。
このように他人鏡とは、その人の都合で評価が正反対に分かれたり、あるいは過ち一つで一斉にこき下ろすかと思えば、一つ善いことをしただけで善人と持ち上げたり、善・悪の評価がコロコロ変わりますから当てになりません。
これを頓智で有名な一休和尚は、「今日褒めて、明日悪く言う人の口 泣くも笑うも ウソの世の中」と歌っています。褒められても謗られても、その人その人の都合で言っているだけですから、そんな言葉に一々泣いたり笑ったりしているのはバカげたことだよと歌ったものです。
諺にも、「惚れて眺めりゃあばたも笑窪」とありますように、好きな相手なら、その人の欠点まで長所に思えます。反対に「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」で、憎い奴だとその人のやることなすこと気に入らない。善いところまで貶そうとします。
他人の評価とはそういうものと分かれば、「豚は褒められても豚、ライオンは謗られてもライオン」。私は私なのですから、他人の評価に一喜一憂してきたことが、「泣くも笑うもウソの世の中」と知らされてきます。
こうした欠点が他人鏡にはあるので、無視してもいけませんが、ここに本当の私の姿は映らないのです。
ではなぜ、仏教はこの真実の自己を、そこまで問題にするのでしょうか?
それは、古今東西全ての人の100パーセント確実な未来が「死」だからです。
頓智で知られる一休和尚は、「世の中の娘が嫁と花咲いて、嬶としぼんで婆と散り行く」と歌っています。これは女の人の一生を詠んだものです。女性は誰しも最初は娘で始まり、年頃になると、嫁となってパアッと花咲き、やがてしぼんで嬶といわれ、さらに先へ進むとおばあさんとなります。皆、大体こんなコースを通るのですが、問題はその先です。おばあさんとなったその次はどうか?散っていかねばなりません。では散ったその先はどこへ行くのでしょうか。
これは女の人のことですが、男も似たり寄ったりのコースで、結局、この世を去るのです。それは誰も変えられないことですが、問題は、この世を去ったその先です。
よく死ぬことを、「旅立つ」という言い方をしますが、一体どこへ旅立つのでしょうか。つまり、「死んだらどうなるか?」ということです。
肉体が死ねば、何もかも無になるのなら、死んだ後のことなど考えても仕方ありません。しかし、先ほどから言っているように、本当の「私」というものは、肉体が死んでも終わらないのです。だとすれば、「死んだらどうなるか?」。これは万人が必ず直面させられる人生最大の問題なのです。
ところが人は「今さえよければいい」「死んだら死んだ時だ」といった調子で、「死んだらどうなるか?」そんな大問題があるなど夢にも思わず生きています。それが人生最大の盲点であり、落とし穴ともいえるのです。
東大で宗教学を教えていた岸本秀夫教授は、ガンと闘った10年余りの闘病生活の記録を、『死を見つめる心』という有名な本に残しました。その本の中でこう言っています。
「生命を断ち切られる、それが何を意味するのか。何が問題となるのか。生きている現在においては、自分というものの意識がある。『この私』というものを常に意識して生きている。だが死んだ後、その私はどうなるのか?問題はそこに集中してくる。これが人間にとっての大問題となる」
死ぬことは100パーセント間違いないのですから、その先はどうなるのか?岸本教授の言う通り、これは万人共通の大問題です。ところがそれがさっぱり分からない。まっ暗がりなんです。
旅立つと言っても、そんな真っ暗がりの未知の世界へ、たった一人で旅立つのですから、どの人の心の底にも、得体のしれない不安があります。これを作家の芥川龍之介は、「ぼんやりした不安」と言いました。この不安のために、私は幸せにはなれそうにないと言い、人生に絶望してしまったのです。
芥川も私たちと同じように、満足のいく仕事をして、好きな人と結婚して、気に入った家を買って、いろんな趣味にも挑戦して、幸せな人生を思い描いて生きていたと思います。しかし何をやっていても不安がある。時折、「一体こんなことやって何になるんだろう?」と虚しくもなる。どうしてそういうことになるのかというと、私たちの本心が真っ暗で、安心・満足していないからなんです。
いくら幸せと思える条件をそろえても、行く先がハッキリしないのですから、本心から安心・満足できないのです。
人が死ぬと、葬式で僧侶は「極楽浄土へ旅立たれました」と言いますし、友人代表は「天国で見ていてください」と挨拶します。親は小さな子に、「死んだらお星さまになるんだよ」などと言います。生きている人は想像で何とでも言いますが、今から死んでいく本人は、それで納得はしないと思います。一体、私たちは死ねばどこへ行くのでしょう?
それを知るには、まず自分とはいかなるものなのか?その善悪を明らかに見ることが大切です。私たちの本性が善ならば、極楽とか天国とか、いい所へ行けるかもしれませんが、悪性だったらどうなるのでしょう。答えはこの本心にあります。しかしそれは簡単には分かりませんので、分かるところから自分を見ていきなさいと仏教では教えられます。
そこで自分の姿を見るのに、昔から3枚の鏡があるといわれています。その3枚の鏡というのは、一つは他人という鏡、もう一つは自分という鏡、そして仏という鏡です。それぞれどんな鏡で、そこに自分の姿がどう映るのか、それについては次回お話いたします。
それは、古今東西全ての人の100パーセント確実な未来が「死」だからです。
頓智で知られる一休和尚は、「世の中の娘が嫁と花咲いて、嬶としぼんで婆と散り行く」と歌っています。これは女の人の一生を詠んだものです。女性は誰しも最初は娘で始まり、年頃になると、嫁となってパアッと花咲き、やがてしぼんで嬶といわれ、さらに先へ進むとおばあさんとなります。皆、大体こんなコースを通るのですが、問題はその先です。おばあさんとなったその次はどうか?散っていかねばなりません。では散ったその先はどこへ行くのでしょうか。
これは女の人のことですが、男も似たり寄ったりのコースで、結局、この世を去るのです。それは誰も変えられないことですが、問題は、この世を去ったその先です。
よく死ぬことを、「旅立つ」という言い方をしますが、一体どこへ旅立つのでしょうか。つまり、「死んだらどうなるか?」ということです。
肉体が死ねば、何もかも無になるのなら、死んだ後のことなど考えても仕方ありません。しかし、先ほどから言っているように、本当の「私」というものは、肉体が死んでも終わらないのです。だとすれば、「死んだらどうなるか?」。これは万人が必ず直面させられる人生最大の問題なのです。
ところが人は「今さえよければいい」「死んだら死んだ時だ」といった調子で、「死んだらどうなるか?」そんな大問題があるなど夢にも思わず生きています。それが人生最大の盲点であり、落とし穴ともいえるのです。
東大で宗教学を教えていた岸本秀夫教授は、ガンと闘った10年余りの闘病生活の記録を、『死を見つめる心』という有名な本に残しました。その本の中でこう言っています。
「生命を断ち切られる、それが何を意味するのか。何が問題となるのか。生きている現在においては、自分というものの意識がある。『この私』というものを常に意識して生きている。だが死んだ後、その私はどうなるのか?問題はそこに集中してくる。これが人間にとっての大問題となる」
死ぬことは100パーセント間違いないのですから、その先はどうなるのか?岸本教授の言う通り、これは万人共通の大問題です。ところがそれがさっぱり分からない。まっ暗がりなんです。
旅立つと言っても、そんな真っ暗がりの未知の世界へ、たった一人で旅立つのですから、どの人の心の底にも、得体のしれない不安があります。これを作家の芥川龍之介は、「ぼんやりした不安」と言いました。この不安のために、私は幸せにはなれそうにないと言い、人生に絶望してしまったのです。
芥川も私たちと同じように、満足のいく仕事をして、好きな人と結婚して、気に入った家を買って、いろんな趣味にも挑戦して、幸せな人生を思い描いて生きていたと思います。しかし何をやっていても不安がある。時折、「一体こんなことやって何になるんだろう?」と虚しくもなる。どうしてそういうことになるのかというと、私たちの本心が真っ暗で、安心・満足していないからなんです。
いくら幸せと思える条件をそろえても、行く先がハッキリしないのですから、本心から安心・満足できないのです。
人が死ぬと、葬式で僧侶は「極楽浄土へ旅立たれました」と言いますし、友人代表は「天国で見ていてください」と挨拶します。親は小さな子に、「死んだらお星さまになるんだよ」などと言います。生きている人は想像で何とでも言いますが、今から死んでいく本人は、それで納得はしないと思います。一体、私たちは死ねばどこへ行くのでしょう?
それを知るには、まず自分とはいかなるものなのか?その善悪を明らかに見ることが大切です。私たちの本性が善ならば、極楽とか天国とか、いい所へ行けるかもしれませんが、悪性だったらどうなるのでしょう。答えはこの本心にあります。しかしそれは簡単には分かりませんので、分かるところから自分を見ていきなさいと仏教では教えられます。
そこで自分の姿を見るのに、昔から3枚の鏡があるといわれています。その3枚の鏡というのは、一つは他人という鏡、もう一つは自分という鏡、そして仏という鏡です。それぞれどんな鏡で、そこに自分の姿がどう映るのか、それについては次回お話いたします。
前回は、私自身を知ることがいかに大事であるかをお話しました。
今回は、「知るとのみ 思いながらに何よりも 知られぬものは己なりけり」とあるように、分かっているようで、実は全く分かっていないのが己、自分というものであることをお話いたします。
ある人がメガネをなくして家中探し回っておりました。どれだけ探しても見つからないので、家の人に「私のメガネ、どっかで見かけなかったか?」と尋ねると、「あなたの目にかかっていますよ」と言われたそうです。それはメガネをかけて、そのメガネを探しても見つからない道理です。
それと同じように、自分で自分自身を探すということは、メガネをかけてそのメガネを探しているような、ややこしい話なんです。
普通、私とは何かと聞かれたら、この体を指して、「これが私だ」と答えると思います。しかし、よく考えてみてください。これは私ではなくて「私の体」です。
つまり、これは私のペン、これは私の時計と言うように、ペンも時計も「私」の持ち物であって、私ではありません。これを「私の」と言っている持ち主が「私」なのです。
ペンや時計なら誰でも分かりますが、肉体も同じです。
これは私の腕、私の足です。これは私の胴体、私の頭であって、私ではありません。この体を「私の」といっている持ち主こそが本当の「私」なのです。
私たちは生まれてからずっとこの体で生きてきたと思っています。しかし、人の体というのは、大体37兆もの細胞からできていて、それが刻々と新陳代謝しておりますから、およそ7年で全部入れ替わるそうです。
ということは、子供の頃の体と、大人になった今の体は、物質的には全く別物です。
もしこの肉体=私なら、子供の頃の私と今の私は別人になります。
しかし、実際はどうでしょう。子供の頃も私。今も私。肉体は入れ替わっても私は私のままです。
それは、肉体とはあくまで「私の持ち物」だからで、「持ち物」が入れ替わっても、持ち主である「私」までは変わらないのです。
繰り返しますが、私とはこの肉体ではありません。肉体は変わっても、一貫して変わらない「私」というものがあるのです。
さて、肉体の心臓が止まると、死んだといわれます。確かに肉体はそこで終わって、焼かれて跡形もなくなります。しかし、肉体はあくまで「私の持ち物」なので、肉体は消えても、持ち主である「私」まで消えてしまうわけではありません。
生 死
ーーーーー〇-------✖ーーーーーーー
↓ ↓
ここが肉体の生まれた時、ここが死んで滅する時とします。
仏教では、この肉体の「生」「滅」に関わりなく、一貫して続く「永遠の生命」のあることを教えています。
この永遠の生命というのが、私たちの本心です。真実の自己ともいわれます。しかし、それは意識のずっと底にあって、簡単に分かるものではありません。
禅宗の道元は、「仏道を習うというは自己を習うなり」と言っています。仏道を習うとは自己、つまり真実の自己、永遠に続く生命を学ぶことだという意味です。
また親鸞聖人も大変尊敬しておられた源信僧都という方は、「よもすがら仏の道に入りぬれば わが心にぞ尋ね入りぬる」と仰っています。仏道を求めるとは、「わが心」この本心を尋ねることなのです。
今回は、「知るとのみ 思いながらに何よりも 知られぬものは己なりけり」とあるように、分かっているようで、実は全く分かっていないのが己、自分というものであることをお話いたします。
ある人がメガネをなくして家中探し回っておりました。どれだけ探しても見つからないので、家の人に「私のメガネ、どっかで見かけなかったか?」と尋ねると、「あなたの目にかかっていますよ」と言われたそうです。それはメガネをかけて、そのメガネを探しても見つからない道理です。
それと同じように、自分で自分自身を探すということは、メガネをかけてそのメガネを探しているような、ややこしい話なんです。
普通、私とは何かと聞かれたら、この体を指して、「これが私だ」と答えると思います。しかし、よく考えてみてください。これは私ではなくて「私の体」です。
つまり、これは私のペン、これは私の時計と言うように、ペンも時計も「私」の持ち物であって、私ではありません。これを「私の」と言っている持ち主が「私」なのです。
ペンや時計なら誰でも分かりますが、肉体も同じです。
これは私の腕、私の足です。これは私の胴体、私の頭であって、私ではありません。この体を「私の」といっている持ち主こそが本当の「私」なのです。
私たちは生まれてからずっとこの体で生きてきたと思っています。しかし、人の体というのは、大体37兆もの細胞からできていて、それが刻々と新陳代謝しておりますから、およそ7年で全部入れ替わるそうです。
ということは、子供の頃の体と、大人になった今の体は、物質的には全く別物です。
もしこの肉体=私なら、子供の頃の私と今の私は別人になります。
しかし、実際はどうでしょう。子供の頃も私。今も私。肉体は入れ替わっても私は私のままです。
それは、肉体とはあくまで「私の持ち物」だからで、「持ち物」が入れ替わっても、持ち主である「私」までは変わらないのです。
繰り返しますが、私とはこの肉体ではありません。肉体は変わっても、一貫して変わらない「私」というものがあるのです。
さて、肉体の心臓が止まると、死んだといわれます。確かに肉体はそこで終わって、焼かれて跡形もなくなります。しかし、肉体はあくまで「私の持ち物」なので、肉体は消えても、持ち主である「私」まで消えてしまうわけではありません。
生 死
ーーーーー〇-------✖ーーーーーーー
↓ ↓
ここが肉体の生まれた時、ここが死んで滅する時とします。
仏教では、この肉体の「生」「滅」に関わりなく、一貫して続く「永遠の生命」のあることを教えています。
この永遠の生命というのが、私たちの本心です。真実の自己ともいわれます。しかし、それは意識のずっと底にあって、簡単に分かるものではありません。
禅宗の道元は、「仏道を習うというは自己を習うなり」と言っています。仏道を習うとは自己、つまり真実の自己、永遠に続く生命を学ぶことだという意味です。
また親鸞聖人も大変尊敬しておられた源信僧都という方は、「よもすがら仏の道に入りぬれば わが心にぞ尋ね入りぬる」と仰っています。仏道を求めるとは、「わが心」この本心を尋ねることなのです。
前回の続きです。
皆さんの中には「そう難しく考えなくともいいんじゃないか」と思う方もあると思います。
確かに世間には『後悔しない生き方』といった類の本がたくさんあって、コンビニでも買えます。それらを見ると、いいことがたくさん書いてあります。例えば、
〈思いついたらすぐ行動しよう〉とか
〈自分の気持ちに素直に生きよう〉とか
〈「嫌われる勇気」を持とう〉とか
〈言い訳するのをやめよう〉など、
身近で、ためになることばかりです。
確かにこういう生き方をすれば、明るく元気なれると思います。でも、言えるのはそこまでです。「そこまで」というのは、やらないより、やったほうが元気になったり自信がつくということです。
それはそれで結構なのですが、それ以上のこと、つまりそれで本当に「人生に後悔しない」と言えるか、となると、そこには飛躍があります。人生はそれほど単純なものではないからです。
なぜなら世間には、この通りの生き方をした人というのは、数は少ないですが、いないわけではありません。では、それらの人たちは皆、本当に人生に後悔しなかったのでしょうか?
たとえば豊臣秀吉という人がいます。皆さんも『太閤記』を読んだり、テレビの大河ドラマでお馴染みだと思います。
あの秀吉は、いつもぐずぐずしていたでしょうか?嫌われる勇気もなかった人でしょうか?言い訳ばかりしていたでしょうか?
全く逆です。秀吉ほど行動的で、何があってもくよくよせず、やりたいようにやって、しかも大成功した人はいないと思います。世間でいわれる「後悔しない生き方」のお手本のような人ですが、では、その秀吉は死んでいく時、「ああ、いい人生だった」と言っていたかというと、そうではありません。
秀吉は臨終に、「驕らざる者もまた久しからず、露と落ち 露と消えにし 我が身かな 難波のことも 夢のまた夢」と言い残しています。難波のことというのは、今まで自分がやってきたことの全てですが、それは「夢の又夢」、ただの夢だった、バカだったと後悔して死んでいます。
秀吉は昔の人ですが、最近の人でも同じです。アップルという会社を立ち上げ、コンピューターを世界に普及し、IT革命を起こしたスティーブ・ジョブズという人がいますが、彼こそ一時代を築いた現代のヒーローでしょう。
彼は生前、スタンフォード大学での講演の中で、次のようなことを言っていました。
「一日、一日を、最期の日と思って生きなさい。そうすれば、本当に自分がやりたいと思っていることに忠実に生きられる。その結果、必ず成功できる」
この時のスピーチは有名になり、多くの人を感動させ、勇気を与えたと言われます。
しかし、そのジョブズ氏も、亡くなる前にはこんなことを言っていたといわれます。
「私は、ビジネスの世界で、成功の頂点に君臨した。他の人の目には、私の人生は、成功の典型的な縮図に見えるだろう。しかし、いま思えば、喜びが少ない人生だった。人生の終わりには、お金や財産など、私が積み上げてきた単なる事実でしかない。病気でベッドに寝ていると、人生が走馬灯のように思い出される。私がずっとプライドを持ってきた名声や財産も、迫る死を目の前にすれば色あせていき、何も意味をなさなくなっている。この暗闇の中で、生命維持装置のグリーンのライトが点滅するのを見つめ、機械的な音が耳に聞こえてくる。
死がだんだんと近づいている……。
今やっと理解したことがある。
人生において十分やっていけるだけのお金を積み上げた後は、金とは関係ない他のことを追い求めた方が良い。もっと大切な何か他のこと。終わりを知らないお金や財産の追求は、人を歪ませてしまう。私のようにね。
物質的な物はなくなっても、また見つけられる。しかし、一つだけ、なくなってしまったら、二度と見つけられない物がある。それは人生。命だよ」
秀吉にしろスティーブ・ジョブズにしろ、この二人ほどやりたいことをやりきって大成功した人はいないと思います。しかし、それでも何か重大なものが私の人生には欠けていた。しかも決定的に欠けていたと告白しているのです。
それは何だったのでしょうか。
もし二人が本当の自分を知ったならば、何が欠けていたのか、分かったと思います。人生の選択を、どう間違ったかも分かったと思います。
しかし、本当の自分を知ることがなかったので、苦労して積み上げてきたものが、最後、全部夢のように消えてしまい、残ったのはただ後悔のため息になってしまいました。
仏教ではそんな後悔の人生にならぬよう、こういうメッセージではなく、「本当の自分を知りなさい」と教えられているのです。
皆さんの中には「そう難しく考えなくともいいんじゃないか」と思う方もあると思います。
確かに世間には『後悔しない生き方』といった類の本がたくさんあって、コンビニでも買えます。それらを見ると、いいことがたくさん書いてあります。例えば、
〈思いついたらすぐ行動しよう〉とか
〈自分の気持ちに素直に生きよう〉とか
〈「嫌われる勇気」を持とう〉とか
〈言い訳するのをやめよう〉など、
身近で、ためになることばかりです。
確かにこういう生き方をすれば、明るく元気なれると思います。でも、言えるのはそこまでです。「そこまで」というのは、やらないより、やったほうが元気になったり自信がつくということです。
それはそれで結構なのですが、それ以上のこと、つまりそれで本当に「人生に後悔しない」と言えるか、となると、そこには飛躍があります。人生はそれほど単純なものではないからです。
なぜなら世間には、この通りの生き方をした人というのは、数は少ないですが、いないわけではありません。では、それらの人たちは皆、本当に人生に後悔しなかったのでしょうか?
たとえば豊臣秀吉という人がいます。皆さんも『太閤記』を読んだり、テレビの大河ドラマでお馴染みだと思います。
あの秀吉は、いつもぐずぐずしていたでしょうか?嫌われる勇気もなかった人でしょうか?言い訳ばかりしていたでしょうか?
全く逆です。秀吉ほど行動的で、何があってもくよくよせず、やりたいようにやって、しかも大成功した人はいないと思います。世間でいわれる「後悔しない生き方」のお手本のような人ですが、では、その秀吉は死んでいく時、「ああ、いい人生だった」と言っていたかというと、そうではありません。
秀吉は臨終に、「驕らざる者もまた久しからず、露と落ち 露と消えにし 我が身かな 難波のことも 夢のまた夢」と言い残しています。難波のことというのは、今まで自分がやってきたことの全てですが、それは「夢の又夢」、ただの夢だった、バカだったと後悔して死んでいます。
秀吉は昔の人ですが、最近の人でも同じです。アップルという会社を立ち上げ、コンピューターを世界に普及し、IT革命を起こしたスティーブ・ジョブズという人がいますが、彼こそ一時代を築いた現代のヒーローでしょう。
彼は生前、スタンフォード大学での講演の中で、次のようなことを言っていました。
「一日、一日を、最期の日と思って生きなさい。そうすれば、本当に自分がやりたいと思っていることに忠実に生きられる。その結果、必ず成功できる」
この時のスピーチは有名になり、多くの人を感動させ、勇気を与えたと言われます。
しかし、そのジョブズ氏も、亡くなる前にはこんなことを言っていたといわれます。
「私は、ビジネスの世界で、成功の頂点に君臨した。他の人の目には、私の人生は、成功の典型的な縮図に見えるだろう。しかし、いま思えば、喜びが少ない人生だった。人生の終わりには、お金や財産など、私が積み上げてきた単なる事実でしかない。病気でベッドに寝ていると、人生が走馬灯のように思い出される。私がずっとプライドを持ってきた名声や財産も、迫る死を目の前にすれば色あせていき、何も意味をなさなくなっている。この暗闇の中で、生命維持装置のグリーンのライトが点滅するのを見つめ、機械的な音が耳に聞こえてくる。
死がだんだんと近づいている……。
今やっと理解したことがある。
人生において十分やっていけるだけのお金を積み上げた後は、金とは関係ない他のことを追い求めた方が良い。もっと大切な何か他のこと。終わりを知らないお金や財産の追求は、人を歪ませてしまう。私のようにね。
物質的な物はなくなっても、また見つけられる。しかし、一つだけ、なくなってしまったら、二度と見つけられない物がある。それは人生。命だよ」
秀吉にしろスティーブ・ジョブズにしろ、この二人ほどやりたいことをやりきって大成功した人はいないと思います。しかし、それでも何か重大なものが私の人生には欠けていた。しかも決定的に欠けていたと告白しているのです。
それは何だったのでしょうか。
もし二人が本当の自分を知ったならば、何が欠けていたのか、分かったと思います。人生の選択を、どう間違ったかも分かったと思います。
しかし、本当の自分を知ることがなかったので、苦労して積み上げてきたものが、最後、全部夢のように消えてしまい、残ったのはただ後悔のため息になってしまいました。
仏教ではそんな後悔の人生にならぬよう、こういうメッセージではなく、「本当の自分を知りなさい」と教えられているのです。
真実の自己とは(1)
今回から、「私とは何か?」というテーマでお話しをします。
これまでは、なぜ生きるか?という話をしてきましたので、話が変わったように思われるかもしれません。しかし、なぜ生きる?というのも、私とは何か?というのも、問われていることは変わりません。
今から皆さんにお話ししたいことが3つあります。
1つは、私自身を知ることがいかに大切かということ。
2つ目は、私のことは私がいちばんよく分かっていると思いがちですが、実は全く分かっていないこと。
そして3つ目は、仏教に説かれる本当の「私」とはいかなるものかということです。
まず最初の、私自身を知ることがいかに大切かということについて、お話ししたいと思います。
ギリシャの神殿の扉に「汝自身を知れ」という言葉が刻まれているそうです。昔から多くの賢者が、自分自身を知りなさいということを教えております。
ではなぜ、自分を知ることがそんなに大切といわれるのでしょうか?
それは、本当の私が分からずして、私はなぜ生きるのか、それは分かりようもないからです。
それでは、人生の最後に、後悔することになるでしょう。
誰もが後悔したくないと思って生きていますが、現実は、いつの時代、どこの国でも、臨終に「こんなはずではなかった」という後悔が繰り返されています。
では、なぜ、人生の終わりに、そんな後悔することになってしまうのでしょうか?
それは、どこかで「人生の選択」を間違ったからです。
私たちが「生きる」ということは、いろんな選択肢の中から、どれか一つを選ぶということでもあります。例えば、朝起きたら、食事をするかどうか、するならパンにするか、ごはんにするかという選択をしています。また、今日はどのように過ごすか、誰かと会うか、それとも映画を見るか、それも選択です。一日ボーッと何もしないでいるのも、ボーッとすることを選んだのですから、それもまた選択です。つまり人生は、「あれかこれか」の選択の連続で、後悔というのは、その選択を間違えた結果であります。
人生には、大学進学や、就職や、結婚など人生を左右する大事な選択する場面がありますが、それを決めるのはすべて私です。その私が「自分のこと」をよく分かっていなければどうなるでしょう。
それは大学受験で考えても分かると思います。自分の学力とか適性も分からずに、ちゃんと大学を選べるでしょうか。
偏差値40くらいでは、普通、その人に東大受験という選択はありえません。しかし自分のことが分からず、賢いと自惚れていたら、そういう選択をするかもしれません。その結果は、試験に惨敗、1年棒に振って泣くことになります。
大学受験くらいの選択なら、己を知るといっても、自分の学力が分かれば十分ですし、間違っても小さな後悔ですみます。
しかし、これから先のあなたの人生、このまま行って絶対に後悔はありませんか?と念を押されると、どうでしょう?このままでいいのか、それとも別の道があるのか、真面目な人ほど迷うと思います。そういう迷いは結局、自分というものがよく分からないところから来ているのです。
ですから後悔しない人生を選択したいなら、昔から多くの人が「汝自身を知れ」といわれるように、自分とはいかなるものかを、よくよく知らなければなりません。
今回から、「私とは何か?」というテーマでお話しをします。
これまでは、なぜ生きるか?という話をしてきましたので、話が変わったように思われるかもしれません。しかし、なぜ生きる?というのも、私とは何か?というのも、問われていることは変わりません。
今から皆さんにお話ししたいことが3つあります。
1つは、私自身を知ることがいかに大切かということ。
2つ目は、私のことは私がいちばんよく分かっていると思いがちですが、実は全く分かっていないこと。
そして3つ目は、仏教に説かれる本当の「私」とはいかなるものかということです。
まず最初の、私自身を知ることがいかに大切かということについて、お話ししたいと思います。
ギリシャの神殿の扉に「汝自身を知れ」という言葉が刻まれているそうです。昔から多くの賢者が、自分自身を知りなさいということを教えております。
ではなぜ、自分を知ることがそんなに大切といわれるのでしょうか?
それは、本当の私が分からずして、私はなぜ生きるのか、それは分かりようもないからです。
それでは、人生の最後に、後悔することになるでしょう。
誰もが後悔したくないと思って生きていますが、現実は、いつの時代、どこの国でも、臨終に「こんなはずではなかった」という後悔が繰り返されています。
では、なぜ、人生の終わりに、そんな後悔することになってしまうのでしょうか?
それは、どこかで「人生の選択」を間違ったからです。
私たちが「生きる」ということは、いろんな選択肢の中から、どれか一つを選ぶということでもあります。例えば、朝起きたら、食事をするかどうか、するならパンにするか、ごはんにするかという選択をしています。また、今日はどのように過ごすか、誰かと会うか、それとも映画を見るか、それも選択です。一日ボーッと何もしないでいるのも、ボーッとすることを選んだのですから、それもまた選択です。つまり人生は、「あれかこれか」の選択の連続で、後悔というのは、その選択を間違えた結果であります。
人生には、大学進学や、就職や、結婚など人生を左右する大事な選択する場面がありますが、それを決めるのはすべて私です。その私が「自分のこと」をよく分かっていなければどうなるでしょう。
それは大学受験で考えても分かると思います。自分の学力とか適性も分からずに、ちゃんと大学を選べるでしょうか。
偏差値40くらいでは、普通、その人に東大受験という選択はありえません。しかし自分のことが分からず、賢いと自惚れていたら、そういう選択をするかもしれません。その結果は、試験に惨敗、1年棒に振って泣くことになります。
大学受験くらいの選択なら、己を知るといっても、自分の学力が分かれば十分ですし、間違っても小さな後悔ですみます。
しかし、これから先のあなたの人生、このまま行って絶対に後悔はありませんか?と念を押されると、どうでしょう?このままでいいのか、それとも別の道があるのか、真面目な人ほど迷うと思います。そういう迷いは結局、自分というものがよく分からないところから来ているのです。
ですから後悔しない人生を選択したいなら、昔から多くの人が「汝自身を知れ」といわれるように、自分とはいかなるものかを、よくよく知らなければなりません。
仏のさとりというのは、52段階ある悟りの中の、最高位(52段)のさとりをいいます。これ以上のさとりはありませんから、無上覚ともいわれます。
この仏覚まで到達した方を、仏とか、仏様といわれるのです。
地球上で、この仏覚までさとられた方は、お釈迦さま以外にはありませんので、「釈迦の前に仏なし、釈迦のあとに仏なし」といわれます。
お釈迦さまの次となると龍樹菩薩と無著菩薩という方で、それでも52段と比べればずっと下の41段目のさとりです。
「面壁9年」の修行で知られる達磨大師は、壁に向かって9年間座禅をし、それで手足が腐って切り落とさなければならなくなりましたが、それほど厳しい修行をしても、30段前後の悟りしかひらけなかったといわれます。この事実からしても、仏のさとりがいかに大変な悟りか、お分かりかと思います。
さて、先ほどから、さとった、さとったと言っていますが、何をさとるのか?と言いますと、すべての人が本当の幸福になれる真理をさとるのです。
これを山登りに例えますと、1合目までより2合目、2合目から3合目へと登るにつれて、だんだん見晴らしがよくなってきます。ふもとに居るときは、見える範囲はごくごく限られますが、中腹あたりまで登ると、自分のいる町ぐらいは見えるかもしれません。もっと上まで登ると、海が見えたり、隣の県まで見えてきます。のぼればのぼるほど、見える世界が開けてくるのです。
それと同じように、高いさとりをひらくにつれて、それまで分からなかった真理が明らかとなります。
そして山の頂に立つと、四方八方、全て見渡すことができるように、52段目の仏のさとりに到達すれば、大宇宙の真理をすべて体得できるです。
仏となられたお釈迦様が、そのさとられた真理を説かれたものが仏教です。
その真理は、そのままでは私たちには深すぎてわからないので、お釈迦様は私たちに分かるよう、かんでふくめるように教えてくださいました。それを書き残したものがお経なのです。さとられた真理が大変深いものでしたので、それを伝えようとするお経の数は7千巻以上にのぼります。これらを指して「一切経」といいます。
この一切経を読めば分かることですが、仏教には四つの真理が説かれているといわれます。
その4つというのは、
1つは、人生は苦なりであるということ
2つには、その原因は何であるかということ
3つには、その原因を解決したらどうなるかということ
4つには、どうしたら解決できるのかということ
一切経、七千余巻のお経に説かれている真理とは、この4つのいずれかなのです。そしてそのいずれも、すべての人にとって大切なことばかりです。
簡単にいいますと、
1つ目、人生は苦なりであることは、これまでお話してきました。
2つ目、その原因は何かというと、死を意識した途端、真っ暗になる無明の闇といわれる心にあります。
3つ目、無明の闇が晴れたらどうなるか、それは「絶対の幸福」になります。絶対の幸福とは、絶対に崩れたり、壊れたり、色あせたりしない幸福です。老いがきても、病になって寝たきりとなっても、たとえ死が来ても大安心、大満足の身になります。人間に生まれてきてよかったと心から喜ぶことができます。それが第一回目でお話した、お釈迦様が「唯我独尊」といわれた「独尊」であり、すべての人にひらかれている究極の幸せであり、それが「なぜ生きる」の答えなのです。
4つ目、ではどうしたらそんな幸せになれるのか、それを釈迦は「聞其名号(その名号を聞く)」と説かれ、そこから親鸞聖人は「聴聞に極まる」と教えられています。要するに「聞く一つ」でなれるのです。
これらのことについて、これからお話していきたいと思います。
この仏覚まで到達した方を、仏とか、仏様といわれるのです。
地球上で、この仏覚までさとられた方は、お釈迦さま以外にはありませんので、「釈迦の前に仏なし、釈迦のあとに仏なし」といわれます。
お釈迦さまの次となると龍樹菩薩と無著菩薩という方で、それでも52段と比べればずっと下の41段目のさとりです。
「面壁9年」の修行で知られる達磨大師は、壁に向かって9年間座禅をし、それで手足が腐って切り落とさなければならなくなりましたが、それほど厳しい修行をしても、30段前後の悟りしかひらけなかったといわれます。この事実からしても、仏のさとりがいかに大変な悟りか、お分かりかと思います。
さて、先ほどから、さとった、さとったと言っていますが、何をさとるのか?と言いますと、すべての人が本当の幸福になれる真理をさとるのです。
これを山登りに例えますと、1合目までより2合目、2合目から3合目へと登るにつれて、だんだん見晴らしがよくなってきます。ふもとに居るときは、見える範囲はごくごく限られますが、中腹あたりまで登ると、自分のいる町ぐらいは見えるかもしれません。もっと上まで登ると、海が見えたり、隣の県まで見えてきます。のぼればのぼるほど、見える世界が開けてくるのです。
それと同じように、高いさとりをひらくにつれて、それまで分からなかった真理が明らかとなります。
そして山の頂に立つと、四方八方、全て見渡すことができるように、52段目の仏のさとりに到達すれば、大宇宙の真理をすべて体得できるです。
仏となられたお釈迦様が、そのさとられた真理を説かれたものが仏教です。
その真理は、そのままでは私たちには深すぎてわからないので、お釈迦様は私たちに分かるよう、かんでふくめるように教えてくださいました。それを書き残したものがお経なのです。さとられた真理が大変深いものでしたので、それを伝えようとするお経の数は7千巻以上にのぼります。これらを指して「一切経」といいます。
この一切経を読めば分かることですが、仏教には四つの真理が説かれているといわれます。
その4つというのは、
1つは、人生は苦なりであるということ
2つには、その原因は何であるかということ
3つには、その原因を解決したらどうなるかということ
4つには、どうしたら解決できるのかということ
一切経、七千余巻のお経に説かれている真理とは、この4つのいずれかなのです。そしてそのいずれも、すべての人にとって大切なことばかりです。
簡単にいいますと、
1つ目、人生は苦なりであることは、これまでお話してきました。
2つ目、その原因は何かというと、死を意識した途端、真っ暗になる無明の闇といわれる心にあります。
3つ目、無明の闇が晴れたらどうなるか、それは「絶対の幸福」になります。絶対の幸福とは、絶対に崩れたり、壊れたり、色あせたりしない幸福です。老いがきても、病になって寝たきりとなっても、たとえ死が来ても大安心、大満足の身になります。人間に生まれてきてよかったと心から喜ぶことができます。それが第一回目でお話した、お釈迦様が「唯我独尊」といわれた「独尊」であり、すべての人にひらかれている究極の幸せであり、それが「なぜ生きる」の答えなのです。
4つ目、ではどうしたらそんな幸せになれるのか、それを釈迦は「聞其名号(その名号を聞く)」と説かれ、そこから親鸞聖人は「聴聞に極まる」と教えられています。要するに「聞く一つ」でなれるのです。
これらのことについて、これからお話していきたいと思います。