静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

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知識人の宗教観

2009-12-06 19:54:47 | Weblog
 知識人といわれる人たちの宗教観とは、大体このようなものです。


◆人生には、生・老・病・死に代表される、どうにもならない苦しみがある。そこから派生して、愛する人を失う苦しみ、嫌な者と一緒にいなければならない苦しみ、また求めたものが得られない苦しみがあり、こういう苦しみは科学が進歩しても、政治や社会制度が変わっても、人が人である限り、決してなくなるものではない。

 人々はそのどうにもならない苦しみに、ある時は打ちひしがれ、ある時はため息をもらし、それでもなお生きていくために、宗教という偉大な「物語」を考え出した。

 その偉大な物語は、信ずることさえできれば、どんな人生にも希望と喜びがもたらされる。だから、その物語が科学的、あるいは歴史的にみて事実か否か、合理的か否かなど問題ではないのだ。
 その物語を信ずることで、苦しみの人生が喜びに転ずる、または感謝の人生に転ずる、その「事実」こそが重要であり、合理的ともいえるのだ。◆

……結局、イワシの頭も信心から、ってことを言いたいんだと思いますが、それならそうと最初から言えばいいのに、という気もします。

こういう「信じさえすれば、いい気持ちで生きられる」というのが宗教なら、正邪をとやかく言う必要もないのでありましょう。でも、親鸞聖人ほど宗教の正邪、信仰の正邪をやかましく言われた方はないのであって、上記のような考え方は、個人の思いとしては自由かもしれないけれど、その「宗教」に仏教を含めての言ならば、断じて承服できるものではありません。

哲学者の三木清の言葉を引用するならば、
「宗教は真実でなければならない。それは単なる空想であったり迷信であってはならぬ。宗教においても、科学や哲学においてと同じく、真理が問題である。ただ宗教的真理は科学的真理や哲学的真理とその性質、その次元を異にするのである。もとより宗教の真理も真理として客観的でなければならぬ。客観性はあらゆる真理の基本的な微表である」(『親鸞』)

このように言う三木清自身が、後半生、仰ぎつづけた親鸞聖人の教えとは如何なる教えか。それを知るにはまず、三世十方を貫く因果の道理をよく理解してかかることだと思います。


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