静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

釈迦一代記(2)

2018-12-22 11:52:38 | Weblog
この世に「生まれた」ということを、飛行機が飛び立った、離陸したことに例えるとします。
すると、この飛行機は飛んでいるうちに、いつか燃料が切れて墜落することになりますが、それが「死ぬ」ということです。
離陸⇒墜落
生⇒死

皆さんの中には、飛行機に乗った人もがあると思いますが、その時は、空の旅を十分楽しんでこられたと思います。けれども、それはその飛行機が間違いなく目的地に着陸できるという安心感があったからだと思います。

この飛行機のように、飛び立ったはいいけれど、どこにも降りるところがない。燃料が切れたら、あとは墜落するのみ。そんな飛行機だったら、どうでしょう?それでも空の旅を楽しめるでしょうか?
たとえファーストクラスにいても、機内食を食べいても、好きな本を読んでいても、楽しくないと思います。
なぜなら刻一刻と墜落が迫る「空の旅」ですから、飛んでいること自体が苦しみになるからです。

しかし、この世に生まれて、やがて死んでいく私たちの「人生」というものは、ちょうど離陸してやがて墜落する「空の旅」みたいなものではないでしょうか。
この飛行機には「墜落」するという一大事があるように、どんな人にも「死」という一大事があります。
これを仏教では、生死の一大事といいます。
シッタルタ太子は、この生死の一大事に驚きたったのです。

例えて言えば、太子は墜落することを知った乗客のようなものでした。いつも浮かぬ顔をしていた原因もそこにあったのです。
この生死の一大事を抱えたまま、人生に心からの安心も満足もないことを、太子は痛切に感じていたのです。

ある時、太子が北の門から外へ出ますと、今度は出家して修行している人の姿を見掛けました。
出家するとは、俗世間から離れるということです。
世間のことというのは、いわば飛行機の中のことです。儲けたとか損したとか、勝ったとか負けたとか目の色を変えていますが、それは飛行機の中の出来事です。問題はその飛行機自体がまさに落ちようとしているそのことにあるのです。

100パーセント墜落するという一大事を見つめながら、太子は本当は何をすべきなのか悩まれました。
それが「なぜ生きるか」という悩みです。
何も知らない人たちと一緒に、このままここで浮かれ騒いでいるわけにはいかない。
そう感じられたシッタルタ太子は、ある重大な決断をするのですが、その決断とは何であったか、それについては次回、お話したいと思います。

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