静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

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ご挨拶

2009-12-31 11:42:13 | Weblog
皆様、この1年間、当ブログによく来られました。
これでしばらく幕を引きたいと思いますが、来年、また再開した際には、どうぞよろしくお願いします。

言いたいことはあっても、伝わるかどうか、それは果てしなき悩みというものです。「伝わる文章」を目指して、より精進させていただきたく思います。

それでは皆様、よいお年をお過ごし下さい。



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★仏教の教え だれでもわかる人生哲学★
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心を重視

2009-12-28 19:03:09 | Weblog
仏教では、心で悪い事を思うことは、悪いことを行ったよりも
もっと悪いと教えられます。

なぜなら、悪い考えは、すべての悪事を生み出していくから
です。
悪い行為は他の悪い行為への道を滑りよくするだけですが、
悪い考えは、この道へどしどし人を引っぱり込んでゆく。
そういう強い力を持つのです。
「思い」も一つの業なのですから。

例えば、スピード違反、脱税や贈収賄、覚醒剤所持、酒乱
などといった悪い行い自体は、二度とやるまいと決心して、
悪縁から遠ざかれば、止めることも可能でしょう。

でも、悪い思いは、二度と起こすまいと誓っても、なかなか
思い切れないものです。やらないだけで、心の中でブスブス
種火のように燃え続ける。そこへ一枚の紙でも落ちれば、たち
どころにボオッと燃え上がる。

さるべき業縁の催せば、如何なる振舞いもすべし、といわれる
とおりです。

心は火の元であり、口や身に現れるものは
大空に舞い狂う火の粉のようなものです。
大空の火の粉は地上の火の元から舞い上るのですから
火の元の心こそ最も怖ろしい。


にもかかわらず世間ではその心については殆ど自由放任で、
心の中、如何なる悪辣非道を思い、羞恥すべき妄想をいだいた
としても、そのことが直に社会問題になったり処罰の対象とは
なりません。

しかし、よく考えてみると今日、新聞や、ラジオが報道する事件は、心を火の元とする火の粉のホンの一部にすぎないわけです。
所詮は身や口にあらわれる火の粉しか取り締ることの出来ない
悲しき人間の限界でもありましょう。

「石川や浜の真砂は絶ゆるとも、世に盗人の種はつきまじ」
稀代の怪盗の辞世です。


原担山といえば明治時代の禅門の偉傑といわれた僧。

ある時、一人の僧と諸国行脚中、小川にさしかかると、
連日の雨で、川の水が氾濫していた。
たまたま二人より先に来ていた一人の妙齢の娘が、とても
飛び超えられないのでモジモジしていた。

それを眺めた担山、
「どれどれ私が渡してあげよう」
と娘を抱いて渡してやった。
途方に暮れていた娘は顔を赤らめ漸く川を渡った。

ところが連れの僧は禅僧の身が仮にも女を抱くとは怪しからん
とでも思ったのか、ものも言わずに、さっさと歩いていった。
夕暮れになったので担山が、
「どこかで泊ることにしよう」
と言うと、その僧は、
「女人を抱いたような生臭坊主との同宿はごめん蒙る」
と苦い顔をした。
担山カラカラと大笑して
「なんだお前はまだあの女を抱いていたのか、わしは川を渡した時に、
もう放してしまったよ」

朗らかな反撃に相手は返す言葉がなかったという。

心を重視する仏意を喝破して興味深い話ではありませんか。
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セミの智慧

2009-12-27 21:00:06 | Weblog
こういう話があります。


 同じ木の梅の実でありながら、大きいのやら小さいの、
丸いものやら凹んだもの、みんな形がちがっている。
"納得できぬ"と、セミが不審がる。
"六月頃、地中から這い出して、夏のことしか知らないが、
お前が地中にいた春という季節には、この木に白い花が
一杯だった。
 蜂や蝶が飛んできて、荒された花は小さな実となり、
荒されなかった花は大きな実となったのだ"
"そんな馬鹿な!"
 いくら説いても、セミの知恵には無駄だった。



「私」といっても、肉体のこととしか思えない私たちには、
時に人生は不平等で、不可解なものに思えますが、それは、
私というものを誤認し、因果応報の道理に一分一厘の狂い
もないことを知らないために生じた謬見です。

智慧の眼の開けない我々凡夫には、ただ眼前の目に見える
こと以外は分からず、それによって来る深い因縁を知ること
はできませんが、仮に宿命通という神通力が与えられ、
天眼自在であったなら、一切の行為の因果が歴然として
分かることでしょう。


本当の私とは、肉体が生ずる前から存在し、肉体の滅した
あとも存在し続けます。
それはあたかも、大河の水面に泡がポッと生じ、しばらく
流れたのち、忽然と消えていくが、泡の消滅とは関係なく、
大河の流れは一貫して続いているように、我々の生命も、
肉体の消滅とかかわりなく、存続するものなのです。

因果の道理は、この三世(過去世・現在世・未来世)を貫く
永遠の生命の上に説かれていますから、三世因果の道理と
いわれます。

これを納得できないと言い張る人が、上記のセミのような
人だということです。
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瞋恚の炎

2009-12-26 22:43:54 | Weblog
 昔、ある所に正直一徹な女中があって、よく主人に仕えていた。その主人は炒り豆が好物で、炒り豆作りは彼女の日課の一つであった。ある日、彼女が炒り豆を作っている最中、ふとした用事でその場を離れると、飼っていた羊が、これ幸いと盗み食いをしてしまった。

 そうとは知らずに、女中がそのまま主人に持っていくと、いつもより炒り豆の少ないことに気がついた主人は、女中が盗み食いしたに違いないと決め込み、その場で女中を叱りつけた。

 女中は一向身に覚えのないことだから、いろいろと弁解したが、かえって主人は怒るばかりで、ちっとも言い分を聞こうとしない。女中も仕方がないので、その場はとにかく頭を下げて許してもらったが、腹の虫はなかなか治まらない。正直一徹の女であるから、余計にむしゃくしゃしたのであろう。彼女は羊の姿を見るたびに、「ああ、この畜生さえいなかったら、こんな濡れ衣を着なくても済んだのに」と、腹が立って仕方がない。このような思いが段々募ってくると、彼女はとうとう羊を目の仇のようにしはじめた。そして主人の目を盗んでは、手当たり次第に羊を叩きつけた。

 羊もはじめは身に覚えがあったので、そのたびにコソコソと逃げていたが、しかしあまりに苛められるので、しまいには女中を恨むようになり、いつか機会があったらこの恨みを晴らさねばと思うようになった。

 ある日のことである。女中が火を運んでいたところ、今こそ絶好の機会と思い、「今までの仇を思い知れ」とばかりに女中に突きかかった。女中は驚いて火をひっくり返したからたまらない。皮肉にもその火は羊の背中に燃え移り、消そうとしてあちらに突き当たり、こちらに突き当たりして村中を狂い回った。そのため、火はあの家この家に燃え広がり、はては山にまで移って大火災となり、おびただしい死傷者が出て村のほとんどが壊滅した。おまけにこの山火事で、500匹に近い猿が逃げ場を失って死んでしまったという。


 これは経典に出てくる話ですが、何となく読めば、一篇のお伽噺にしか聞こえないかもしれません。しかし、この話の中には、瞋恚(【しんに】……怒り)の心がどんなに恐るべきものか具体的に示されています。怒りの心そのものは見ることはできませんが、もしそれを象徴的に一幅の絵巻物として書いたならば、この物語の通りでしょう。どんなに長い間かかって造り上げた建物も、火の前にはたちまち灰燼に帰してしまうように、どんなにして積み重ねた善根も瞋恚の炎の前には一瞬に焼き尽くされてしまいます。

 昔、大乗法師が40年続けた法華経読誦の功を、一念の瞋恚によって失ってしまったということは有名な話です。女中と羊の間に生じた瞋恚の炎が一村を全滅させ、500の猿を殺したということは決して誇張した話ではありません。

 怒りの心は自分より目上の者に対しては恨みの相となってあらわれ、目下の者に向かっては憤りの行為となってあらわれます。しかもその波及するところは際限がありません。夫が妻を叱れば、妻は下女にあたる。下女はやむなく罪もない子供にあたる、という風に、それはただ空間的に横に広がっていくだけでなく、竪に時間的に永続し、現在の怒りは未来永遠に纏綿(てんめん)として我が身の上に続いてゆきます。

 そんな火種がだれの心にもくすぶってはいないでしょうか。火種自体は小さくても、それが何かに燃え移ればたちまち山をも焼き払ってしまうのです。

げに恐ろしきは怒りなり。
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恐ろしいものを見たような気がする

2009-12-25 23:08:50 | Weblog
「恐ろしいものを見たような気がする」

帰るなり、うちの家内がそう言った。

「見たような」とはどういう意味か?と聞けば、

見ようによっては、という返事だった。

それは飛騨牛の広告チラシだったらしい。

そこには、大きな牛がこちらを向いている写真と、

カットされた牛肉の切り身の写真が、一緒にレイアウト

されていたという。

一見、何の変哲もない、肉屋のチラシではあるのだが、

立場を変えて考えてみたらどうだろうか。

つまり、自分の息子や娘の写真と一緒に、その切り刻まれた

肉片が同じチラシに載っていたら、どうか?ということだ。


唐突に思うかもしれないが、かつて東京高裁で判決が出た

江東区マンションでのバラバラ殺人事件の公判を思い出して

ほしい。

細かく切断され、捨てられた、女性の肉片を大型ディスプ

レーに映し出し、殺害の過程を克明に再現したものを見て、

遺族が公判中、大声で泣き出したという。


それはそうである。到底、正視できるものではなかろうから。

全く悪魔の所業、被告の死刑は当然と思ったに違いない。


裁判は、そういう遺族感情より司法を優先して無期懲役と

なったが、相当難しい判断だったと思う。


だが……、

その場に牛たちがいたとして、被告や裁判官、遺族や傍聴人

らの態度を見て何と思うであろう。

私たちは日常、どれだけの牛を殺し、その肉をバラバラに

解体し、口の中に入れてきたかしれない。しかもそのことに

心を痛めるわけでもなく、それどころか食べて狂喜している

者ばかりである。


牛にも親があり、子供もあろう。殺されるのを恐れる心も

ある。牛や豚から見た人間は、血も涙もない悪魔と映って

当然と思う。

その悪魔が、同類の悪魔を殺した悪魔に対して、

「まるで悪魔だ!」と罵っている。

そんな人間界の裁判など、我々に殺されていく生き物たちから

見れば、一つの茶番劇であり、実に鼻白む思いがするのでは

なかろうか。


これも家内の言っていたことだが、昔、味噌汁を作るため、

沸騰したお湯に生きたアサリを入れたらしい。その時、熱さ

のためか、閉じた貝が一斉にパクパク開き、中のものが出て

きた。

その瞬間、背中にゾゾーッときたという。

とても恐ろしいことをしているような気がして、思わず

鍋のふたを閉じてしまった。

その味噌汁はついに口にすることはできなかったという。

そういえば、貝の味噌汁を家族のために作ってくれること

はあったが、自分で食べているのは見たことがない。

その時のトラウマがあるのだろう。


食物連鎖だとか、自然の摂理だとか、いかにも人間の言い

そうな、人間中心的なものの見方を一旦やめて、冷静に考える

と、生き物を殺すとは、とても恐ろしいことではなかろうか?

つまり自分のやったことと、同じ目に自分が遭うと考えてみた

ら分かると思うのである。

自然の摂理だからとか言って、大人しく熱湯の中に投げ込まれ

ていけるものだろうか?食物連鎖の一貫だからといって、家族

が他の生き物にバラバラにされ、食べられるのを、泰然と見て

おれるのだろうか?


生き物を殺すことは、仏教で殺生罪と戒められている。


だからといって私は別に、肉食をやめ、菜食を勧めているわけ

ではない。肉食を止めよ、といったところで、止められるはず

もないからだ。

そうではなくて、生き物を殺さずにおれない。その肉を食べず

におれない、止めろと言われて止められない自己の本性を、

もっと恐ろしいと自覚してもいいのではないか、ということだ。


鬼や悪魔など、どこか魔界から連れてこなくても、今、ここに

いるのである。そういう現実の自己の姿に、もう少し目を向けて

もいいのではないかと思うのである。


さらに言えば、こうして罪悪を語りながら、罪悪に感じている

自己を「真面目な私だ」と、ひそかに自惚れていく、どうしよう

もない存在なのである。人間というものは。



お釈迦さまの説かれた地獄の話をすると、大抵、小バカにして

聞かない。いやそれどころか、カルトとか言われて非難攻撃の

対象にされてしまう。そして生き物は殺し放題、食べ放題。

それで少しも心は痛まない。どうなっているのだろうか。

それでいて「地獄なんて迷信だ!」「地獄?極楽?仏教は

そんな低レベルな教えなんかではない」とか言ってくる人もある。

もう少し、頭を冷やして真面目に見つめてみたらどうだろ

うか。己と、その行為を。

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自ら墓穴を掘った話

2009-12-24 22:00:10 | Weblog
迷信邪教を信じている夫婦と老母があった。
妻は容貌が美しく、淫靡な感じのする女であった。容姿に自信があったせいか情欲が盛んで、律義な姑と暮らすのが窮屈でならない。何とかして姑を亡き者できないかと思いながら、奸智に長けた女は、少しもそんな風情を見せなかったので、夫はいつも感謝していた。

「ふつつかな私に、そんなに言われると穴にでも入りたいわ。それにつけても天国に生まれると、とても楽しいそうよ。お母さんもそんな所へゆかれると、もっとノンキな暮らしができるでしょうに、一体どうしたら天国へゆけるのでしょうね」
「オレが聞いているのでは、身体を火の中に投げ込めばいいそうだ」
「まあ、それで天国へゆけるの。一日も早くそうしてあげたらお母さんも、どんなにお喜びになるでしょう」
 愚かな夫は、妻の本心を知るよしもない。
 母を天国へ生まれさせようと決心し、野原の真ん中に大きな穴を掘り、薪を積んで火をつけた。
 簡単な昇天式の後、アッという間に老母を火坑に突き落とし、後も見ずに逃げ帰った。

 運命は皮肉だ。

 火坑の一部に安全地帯があったので、無事、老母は外に這い出れた。もうあたりは暗かった。虎狼の難を避けて大樹に登って仮眠した。
 話し声で目をさますと、木の下に人相の悪い泥棒たちが集まっている。その時、不覚にもした〝ゴホンゴホン〟の老母の咳に驚いて、
「それ幽霊だ」
と一人が叫ぶとみんな後ろも見ず、盗んだ金銀財宝を置いたまま逃げ去った。
 夜明け近く財宝を背負って帰宅した老母を、夫婦は、てっきり幽霊と思って平謝り。
 老母はニコニコ笑って、こう言った。
「天国へゆかせてくれたおかげで、こんなに土産をもらってきた。まだまだあったが、今度は若い者が取りに来るようにとのことだった」
「今度、私がいってウンと持ってくるわ。昨日と同じに火の中に落としてください」
 欲深く愚かな夫は大賛成。大好きな妻を火の中に投げ込んだ。むろん、それっきり妻は、帰ってはこなかった。 


これは経典にあるお話です。因果応報とはこのことをいうのでしょう。恩田を荒らして善い苗の育つ道理はなく、姦婦が目障りな姑をなきものにしようとして、自分の身を殺すことになった、という話は、あながち虚構ともいえないでしょう。
現実には、火坑を作って、その中に母親を突き落とすような者はないかもしれませんが、心の中に憎悪の炎を燃やし、父母の死ぬのを願っている者はいないでしょうか?釈尊が説かれたのは、人の心に巣食うこの恐ろしい悪魔の姿を知らしめんがためでしょう。

また、この話は一面、女性の誘惑の恐ろしさを教えてもいます。
独身のうちは至って親孝行だった息子も、嫁を娶ると急に不孝者になる例は珍しくありません。
女の人の言葉は、優しいようで、針のような恐ろしさを含んでいるものです。磐石に見えた男の心も、ついに崩されるのは柔らかい女の言葉であるともいわれます。親が大事か、妻が大事か、親と嫁の間に立たされて悩む者は、いつの時代でも多いのです。

本末軽重をわきまえず、利己主義に走って他人の迷惑を顧みないところに、転落の始まりがあります。
自分の望む目的を達するためには、母を火坑に投げ込むのも辞さなかった姦婦の態度は、他人事ではないはずです。世の中はそんな自分にだけ都合よく出来ているわけではありません。他人を欺き、陥れれば、やがては自分が欺かれ、自分が落し穴に落ち込むことにほかなりません。
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科学思想の覆う時代

2009-12-23 21:06:07 | Weblog
難しい話は、昨日で一旦、終わりとして、これからはもっと分かりやすい話を心がけたいと思います。

おそらく、これは想像ですが、西洋文明、科学万能主義的な思想が日本に流れ込むまでは、多くの日本人は、「善因善果 悪因悪果 自因自果」という仏説を素直に受け止めていたのではないかと思います。

香樹院(江戸から明治にかけての真宗の僧侶)の法語などを読むと、当然のこととして因果の道理や、死後の地獄、極楽といった話が出てきます。
香樹院といえば、当時、多くの人から尊敬を集めていたのですから、前述の香樹院のような説法は、決して異端ではなく、当時はまだ主流だったことをうかがわせます。

ところが今日、因果の道理を整然と説き、死後の地獄、極楽をまともに説こうものなら、時代錯誤ととられるか、カルトだとか言われ、異端視されるのは間違いなさそうです。

宗教教育を排除した学校の影響もあるのでしょう。この大宇宙は単一の絶対の世界であり、そこには物理法則が厳然として成立しているとカンカンに信じている頭からは、この宇宙空間のどこに地獄、極楽なんてものが存在するのか?因果の道理なんて科学で立証できるのか?バカバカしい、そんなものはただの迷信、と唾棄する人が多く現れてくるのも無理ないように思います。

その大勢に押し流され、迎合して、浄土真宗はどんどん変質していったのでしょう。

でも、

それでいいのか?

科学自体は誤りではないにせよ、その大前提となっているところに大きな誤解はないのでしょうか?それが誤解と明らかになれば、一切が総崩れになってしまうような大元の誤解のことです。

そこのところをずっと書き続けてきました。


書き方も不十分で、分かりにくかったかもしれませんが、因果の道理をはねつけ、三世を貫く永遠の生命の存在を拒む、現代人の思想の実態をえぐり出すことは、
必要だと思います。


ではまた、明日から、因果の道理について粛々と書いていきたいと思います。












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戦車ゲームの比喩

2009-12-22 16:33:05 | Weblog
理解困難といわれる唯心論的世界観を、一つの喩えで説明いたしましょう。昨日からの続きで、『唯心論物理学の誕生』(中込照明)より──。

それは複数のコンピュータを使った戦車ゲームです。(上の写真を参照)

<各コンピュータにはそれぞれの戦車が割り当てられ、画面にはその戦車から見た戦場の風景が映し出される。この【戦場】(画面上の)はニュートン力学的世界であって、一つのコンピュータの前にいるプレイヤーが弾丸を発射すれば弾道を描いて飛んでいくのである。この弾道はゲームに参加しているすべてのコンピュータ画面に、それぞれの戦車が見た形で現れる。なぜそのようなことが可能であるかというと、すべてのコンピュータに同一のプログラムがあらかじめ与えられており、ネットワークを介した通信により、一つのコンピュータ内で、ある方向に、ある速度で弾丸が発射されたという情報がすべてのコンピュータに届き、各コンピュータ内で弾道が計算されて表示されるからである。
 通信とあらかじめ与えられたプログラムにより、各コンピュータ画面に現れる戦場風景に完全な対応関係が作られている。この場合、唯一絶対的な【戦場】というものはどこにも存在しない。このような対応関係だけですべてうまくいくのである。まさしく予定調和の世界である>

各プレイヤーの意志決定が、(自分の画面上の)戦車を通じて【戦場】に作用する。【戦場】には、ニュートン力学的(決定論的)法則が、あらかじめプログラムされている。さらにその【戦場】にもたらされた作用が、全体(他のコンピュータ)にも影響を与える通信のシステムがある。というようなイメージを思い浮かべてみましょうということです。(上図参照)

<コンピュータとプレイヤーを一緒にしてモナド(心)と考えてみる。自由意志を認めたうえで予定調和を実現するには通信による相互作用のようなものが必要になることが分かる。この相互作用は、画面上の【戦場】での力学的相互作用とはまったく別種のもの、非物理的なものとみなされるべきである>

筆者も断っているように、これはあくまで比喩です。比喩というのは一分を表わすのみで、全分をあらわしているわけではありません。
ただ、ここでいう【戦場】とは、私たちが普通自覚している「世界」のことと考えられます。絶対的な【戦場】は存在せず、各自が各様の【戦場】に生きながら、共通認識が成り立っている。画面上の「戦車」は、プレイヤーの意志が直接作用する部分であるから身体に当たるでしょう。その「戦車」(身体)の動きが【戦場】(世界)に影響を与え、かつ他のコンピュータ(他人)の画面上の【戦場】(世界)にも影響を与えている。相互に影響を受け合っているということ。
ここから、実際はバラバラでありながら、同一の世界にいて、各々が同じものを眺めているという誤解が定着していくということです。

人間の「観察」の対象は、あくまで画面上に限られるので、自然科学が対象とするのは【戦場】の法則性です。それではとらえきれないのが、(自分の世界)と(他人の世界)との対応関係【コンピューター間の通信のシステム】ということになります。それは画面の外のことだから、人間には不可知のものになりますが、そういうものを仮定すれば、相対性理論や量子力学の解釈問題がスッキリするというのなら、いたずらに拒絶すべきものではないと思います。唯心論的世界観というものは、常識的ではありませんが、決してトンデモ本レベルの荒唐無稽な話ではないのです。

最近は、書店にも唯識の入門書的なものが多く出回り、関心が高まっているようですが、多くの読者は、「サッパリ分かりませんでした。確かに唯識がどういう思想かを知識的に理解することはできましたが、実感として、自分の深層意識(阿頼耶識)がこの全宇宙を作り出しているなどという途方もないことを本当に理解、あるいは納得できますか?」と感じているのです。


上記のコンピュータの話はあくまで例えで、仏教に説かれる世界観そのものではありませんが、心が世界を生み出しているということに、少しでもリアリティを深めてもらうきっかけになるなら、それで結構だと思うのです。
自分の生み出す世界であれば、自分の善悪の行為が、自分の運命を作っていくということに、別段、不審を立てねばならない理由は見つからないはずです。

仏教では、自分の運命は、自分が100パーセント作ると教えられています。


火の車 造る大工はなけれども 己が造りて 己が乗りゆく

であります。ここから当然、他人の言動をあれこれ言うより、まず己を見つめよ、ということになるではありませんか。
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コペルニクス的転回

2009-12-22 00:00:04 | Weblog
              コペルニクス

地球を中心に天が動いているというプトレマイオスの天動説は、16世紀に至るまで人々の支持を得ていました。しかしコペルニクスが登場し、地球ではなく太陽を中心に、水星,金星,地球,火星,木星がまわっているという地動説を唱えました。
コペルニクスがこう考えたのは,「こちらのほうが簡単に説明できる」という理由からです。

地動説は、「大地は揺るがざるもの」という私たちの実感とはかけ離れていますが、プトレマイオスの言うような地球の周りの円の上を、さらに円がまわっているという説よりも、はるかに天体の運行をスッキリ説明できたのです。

ちょうど同じように、私たちの心が世界を生み出すという教説は、私たちの実感とかけ離れていますが、相対性理論や量子力学の解釈をめぐる難問が、この考え方に立ったほうがスッキリ説明できることが分かってきました。

昨日に引き続いて『唯心論物理学の誕生』から引用してみましょう。
著者は、ライプニッツのモナド論を応用していますが、モナドという概念は馴染みが薄いため、ここは広い意味で「心」と理解してもらってよいと思います。

「モナド(心)は互いに相互作用はしないが、(心の)内なる世界は予定調和により相互に照合し合う」

<モナドは空間に浮かぶ物理的実体ではないので、モナド同士で、いわゆる物理的な相互作用はしない。しかし互いに何の関係もないというわけではない。関係がないのなら複数のモナドを出す意味がないのである。
人間の意識内容は外界の反映ではなく、心が作り出した〃イメージ〃であるというのが、唯心論の立場である。問題は自分の中のイメージと他人の心の中のイメージの関係である。
常識的には外界があって、それをそれぞれの視点で見ることによって、各自の心に外界のイメージが出来上がると考える。視点が異なるから、イメージは異なるけれども、同じ外界を観察するから、対応関係を付けることができる。と思われている。
だが、ここで見方を変えてみよう。
「同じ外界を見ているからイメージに対応関係が付く」と見てもいいけれど、「対応関係があるから、イメージの原因としての外界があるかのように感ずる」と見てもよい。ライプニッツの見方は後者である>

ではどうしてこのような、つまり自分の中のイメージと、他人の中のイメージとの間に対応関係が生ずるのか?という疑問が出てくる。
しかしそれはこの対応関係を初めに自然法則として設定してしまえばよいのである、と筆者は言っています。

なぜかは分からないが、最初からそういうことになっているのだ、つまり「予定調和」ということです。
いい加減な、と思われる方もあるかもしれませんが、物理法則というのはその基本においてはそういうものなのです。例えば、なぜ宇宙なんてものがあるのですか?と言われても、あるからある、としか言いようがないではありませんか。

各自の心が世界を生み出し、それが相互に対応関係を持つという一見奇異な筆者の主張も、それを受け入れたほうが、相対性理論や量子力学の解釈上の難問がスッキリ解消するのであれば、「そんな馬鹿な」で片付けていいはずはありません。

天体の運行を見事に説明できたコペルニクスの地動説も、当時の人たちにとっては「そんな馬鹿なあ」という俗説だったのですから。

次回は、各自の心が世界を生み出し、それが相互に対応関係を持つという考えを、一つの喩えで説明したいと思います。(つづく)
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世界観のシフト

2009-12-20 20:07:25 | Weblog
五つの不思議の中に、業力不可思議というものがあります。自分のやった善悪の行為は、善因善果、悪因悪果、自因自果の因果の道理に従って、厳粛に相応した結果をもたらすということです。

このことが、今日の浄土真宗ではさっぱり説かれない。それどころか、因果の道理を説いて、その上で善を勧めると、非難される有様です。
もちろん非難する人たちも「因果の道理」くらい知ってはいるのでしょうが、まるで他人事か、あるいは一つの考え方、くらいのとらえ方で、信じてはいないのだと思います。それでは仏法を、根本的かつ重要な点で、大きく勘違いするのではなかろうか、と危ぶまれます。
その人たちの〃勘違い〃については触れませんが、なぜ因果の道理が信じられないのでしょう?信じられない「理由」は何なのか?

自分の行為が、業力という一つの力となって潜在し、それが縁に触れて善悪の運命をもたらす、というような教説は、科学的思考が定着している現代の多くの人にとっては、何かオドロオドロシイ、眉唾物の話を聞かされているような感じなのかもしれません。

どう感じようと、それはその人の自由です。ただ、因果の道理は、科学の成果に鑑みて、ただのオドロオドロシイ話で片付けてしまってよいのか?ということです。

これから書こうとするのは、そういう人たちに向けてのことです。科学的思考自体がおかしいというつもりはありませんが、科学的思考の大前提になっている部分に、一つの大きな「迷妄」があることを言っておきたいのです。

でもそれは、必要ない人には、パスしていただいて結構な内容だと思います。
複雑に考えるのがいいこととも言えません。お互い、いつまで生きておれるものやら分からないのですから。


さて、以前、紹介しました『唯心論物理学の誕生』(中込照明)から引用してみます。


(前略)
「相対性理論も含めて量子力学が「すべて」に対する理論であるとの観点に立つならば、自由意志および意識、流れる時間としての「今」、の問題に必然的にかかわってくる。古典的決定性の世界モデルでは、これらの入る余地がまったくない。自由意志、意識、「今」はその存在が否定されてしまう。

この事態に対する物理学者の態度は三つに別れる。
第一は、存在しなくてもよいとするものである。第二は、世界モデルはそのままでも、考え方を工夫すればその存在が説明できるようになるとするもの。第三は、その存在を肯定できるように世界モデルを変更すべしとするもの。筆者の態度はこの三番目の態度である。

これまでの量子力学や相対性理論の解釈では、世界モデルというものをあまり意識していない。意識していないということは、常識的世界モデル、すなわち、決定性の古典的世界モデルを暗黙のうちに使っているということである。量子力学や相対性理論が、(数式は使えるが)解釈できない理由はここにあると筆者は考えている。

上記三番目の態度を取るなら、決定論的な古典的世界モデルは、意志、意識、「今」を入れる余地がないという点で、捨て去られるべきものである。(中略)
意志、意識、「今」を可能ならしめる世界モデルとしては、どのようなものを考えるべきであろうか」

とした上で、新たな世界モデルを筆者は、ライプニッツの「モナド論」をヒントに考察しています。
その要点をまとめると、

「①世界はモナドより構成される。それ以外のものは存在しない」

このモナドとは、意志、意識の主体ということでライプニッツの造語です。

「②空間は世界の構成要素ではない。したがってモナドを入れる空間も存在しない。空間はモナドの内部にあるだけである。モナドはその内に世界を反映する」

「モナドはどのような形で存在するかというと、空間に浮かぶ粒子のようなものとしてとらえたくなるであろうが、そうではない。モナドは非空間的な存在でなければならない。これは別に難しいことではない。初めから空間を出さなければよいのである。ではモナドはどこに存在するのか、という疑問が出るかもしれないが、これは空間を前提とすることから生ずる疑問であって、空間を初めから考えなければこの疑問は生じ得ない。モナドは非空間的存在であるから、位置や大きさでは特徴付けられない。モナドに付与されているものは意志と内部世界だけである。その内部世界がモナドが経験する世界あるいは意識する世界である。この経験世界を表現する場が空間である。すなわち空間はモナドの内部に存在する。
 ここで二種類の〃世界〃概念が現れた。一つはモナドの集合体としての世界。もう一つはモナドの内部世界である。しかも後者はモナドの数だけ存在する。これらの個々の世界をどう関係付けるかが、モナド論の中心課題である」

ここから先が大事なのですが、長くなるので次の機会に(つづく)
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主語のない話

2009-12-18 20:54:05 | Weblog
時間がなかったので、以前、書いたことを再掲します。
川端康成の『雪国』の描写に主語がない、ということを通して、「私」の位置を考えてみたものです。

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よく知られるように、川端康成の「雪国」は、

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」

という文章で始まっている。
この文には主語がない。いったい何が、あるいは誰が、長いトンネルを抜けたのか、肝心なそのことが描かれていない。

国境の長いトンネルを抜けるのは、筆者ではない。島村(主人公)という人物が、そういう経験をした、と述べているのでもない。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」とは、ある人物がたまたま持った経験を述べている文ではないのだ。もし強いて「私」という語を使うなら、国境の長いトンネルを抜けると雪国であったという、そのことそれ自体が「私」なのである。だから、その経験をする主体は、その世界内の一部として存在しているわけではない。西田幾多郎の用語を使うなら、これは主体と客体が分かれる以前の「純粋経験」の描写である。
(典拠:西田幾多郎 絶対無とは何か 永井均著 NHK出版)


後半部は何を言いたいのかよく分からないかもしれない。
だから『雪国』の原文をもう少し引用してみよう。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、
『駅長さあん、駅長さあん。』
明りをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。
もうそんな寒さかと島村は外を眺めると、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた」


この「島村」(主人公の名前)の部分を、「私」と置き換えれば、首尾一貫した一人称の小説としてすんなり読める。ところがこの小説は、一人称のような表現が使われながら、あくまで島村を主人公とした三人称の小説なのだ。だから私はここを読むと、あたかも私自身がカメラとなって、このシーンと私が一体化しているような感覚に陥るのである。

英語だとこういう表現にはならないそうだ。
川端作品の翻訳を多くを手掛けたE.サイデンステッカー氏は、この文を
「The train came out of the long tunnel into the snow country.」
と訳している。ここには原文にはなかった「train(汽車)」という主語が入っている。

こうなると視点が変わってしまう。
この文から思い浮かぶ情景を英語圏の人に描かせたところ、汽車の中からの情景を描いたものは皆無で、全員が上方から見下ろしたアングルでトンネルを描いていたらしい。明らかに話者の視点は汽車の外にある。トンネルからは列車の頭が顔を出しており、列車内に主人公らしい人物を配した者もいたそうだ。

この文では、私はあくまでカメラマンで、カメラを手に持って、高いところからトンネルを抜けていく汽車を撮影している感じとなり、原文のような奇妙な感覚は受けない。


この違いが、「私」という常識的な概念を破る、一つのきっかけになるかもしれないと思っている。
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休憩

2009-12-17 21:59:32 | Weblog
昨日の続きを書きたかったのですが、年末は皆様そうであるように忙しく、まとまったことを書くには時間が足りないので、続きはまたの機会とさせていただきます。

物理学がどうのこうのという話も、詰まるところ、因果の道理を明らかにせんがためのことです。
経典の中には、因縁の尊さ、あるいは恐ろしさを教えた滋味深いお話がたくさんあり、昔は寺などでも教えられていたはずです。それが今日、そのような話は「非科学的」との理由で、片隅に追いやられてしまった感があります。恐らくは、教説よりも理性を主とし、科学という刀で聖典を切り刻んできた結果なのでしょう。シンプルで分かりやすい、因縁を説く訓話など、子供だましと馬鹿にして耳を貸さない。大衆の救いなどそっちのけで、相手の知らないような、難解な聖教の御文をひっぱってきては「どうだ」と言わんばかりの知識のお披露目。学者らがそういうことを好んでやってきた結果が、今日の真宗の惨状です。まさに因果の必然。真宗がどんどん大衆から遊離し、目も当てられない衰退を招いてしまいました。

決して科学的態度というものを軽視するわけではありませんが、科学も突き詰めれば、これまで見てきたように、私たちの常識的世界観を揺るがすものです。中途半端な科学的思考で、仏説をゆがめてはならないと思います。

因果の道理を説かない。善を勧めない。そんなことを言ってきたその結果は、言った本人に返ってきます。誰の目にも明らかな形ですでに現れているではありませんか。それは誰のせいでもありません。
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唯心論物理学の誕生

2009-12-16 19:51:12 | Weblog
『唯心論物理学の誕生』(中込照明著)という本があります。

大まかな内容を言うと。

古典物理学的な世界観というものがあります。物質で構成され、厳粛な物理法則に支配された単一の「世界」があり、私たちはその世界の中にいる、というもの。つまり常識的な世界観のことです。普通に生きている分には、これで十分で、この「常識」が覆ることはまずないと思います。

ところが、量子力学の扱うミクロの世界になると、事情が変わってくるのです。
ミクロの世界にも、やはり法則性は見出せるのですが、それがどういうことを意味しているのか、いわゆる「常識」からはサッパリ解釈できなくなるのです。
そのことについては、これまで何度か触れてきました。

これは「観測問題」ともいわれ、物理学者の間でも、いまだ保留にされたままの問題です。

ここに著者は、あくまで「常識」に立つ限り、この「観測問題」は、どう解釈しようと絶対に解決はつかない。だとしたら、「常識」の方を、一端リセットして、まったく異なる「世界観」から問題を眺めてみてはどうだろうかと思い立ちました。

そこで出されたモデルが、唯心論。
これは一概に定義が難しいのですが、分かりやすく言えば、存在するものは心だけ。この世界は、心が生み出した「夢」みたいなものという見解です。一般的に言えば「そんなバカなぁ……」という話なので、特に科学者は毛嫌いする傾向があります。

しかし中込氏は、量子力学が陥った難問を解くには、科学者が毛嫌いするような見解こそ期待できると考え、あえて唯心論のモデルを持ち出したようです。

唯心論的な思想で、きちんと体系化されたものには、ライプニッツのモナド論と、仏教の唯識思想があります。しかし著者は、唯識思想はあまりに高遠で、難解との理由から参考とするのをあきらめ、もっと単純なモナド論をベースにしたようです。

そこでどう論じられているかは、本を読んでいただけばいいのですが、結論は、やはり「世界」は私を離れて独立に存在しているものではなく、心(モナド)の生み出したものとするほうが、物理学の基礎理論である相対性理論も、量子力学も、自然に組み込めることを立証しました。例の観測問題が解消するということです。

その本の中で著者は、人はそれぞれ、各自の生み出した世界に生きているとするなら、なぜ私たちは他者と関わりあえるのか、そんな疑問にも答えてくれています。

次回はその紹介をいたしましょう。(つづく)

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色心不二

2009-12-15 21:20:34 | Weblog
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仏教に色心不二(しきしんふに)という言葉があります。
『仏教語大辞典』によれば、「物(仏教では色という)と、心とは別々のものではなく、一体不二であるということ」と説明されいています。

昨日、見ましたとおり、「物質」から成り立っているはずのこの世界を、細かく細かく観察していって、原子、さらに極微の素粒子の世界にまで入り込むと、そこにはもう常識的な「物質」像、というものが成り立たなくなっているのです。

常識的な「物質」像とは、何かパチンコ玉のような、中身のギッシリ詰まった目に見えない小さな粒(原子)の寄せ集まり、といったイメージではないかと思いますが、原子よりさらに小さい、素粒子というものになると、私たちが普通考える「粒」というものではなくなっているのです。

それは、私たちが「観察」すれば、粒のような姿としてあらわれますが、「観察」していない時は、粒ではなく「波」のような、「ある状態」としか言いようのないものに変わってしまう。
どうしてそうなるのか?それはだれにも分かっていません。

ただ、言えるのは、この「現実世界」を成り立たせている究極の物質は、私たちが「観察する」、あるいは「観察しない」という心のはたらきによって、その状態が決まるということです。

ここから、「心」と「物質」は、同じものではないけれど、かといって別物でもないという関係にある、という結論を導き出してもよいのではないでしょうか。それこそ、仏教で教える「色心不二」に近い世界観ともいえそうです。

イメージできない、よく分からない、と言われる方もあるでしょうから、夢を見ている時のことを考えてみましょう。

そこでもやはり私は、「物質」で出来た世界の中に居ます。
でも、それが夢の中であるならば、物質に見えたものも実は、自分の意識が生み出したものに過ぎません。心と物質の区別をつけても、そっくりそのまま「夢」なのですから、本来は区別のない「不二」のものです。

これは一つの思考実験ですが、
夢の中でサイコロを壷に入れ、伏せたとします。壷を開けば、サイの目は決まっているでしょう。しかし、壷を開くまで、サイの目はどうなっているのでしょうか?あくまで夢の中での話です。

壷を開けるまで、つまり「観察」される前は、壷の中は何ものでもなく、壷を開け「観察」した瞬間、サイが現れ、サイの目も決まるのではないでしょうか?

何か、素粒子の性質と通じるものを感じないでしょうか?

さて、

以前から、私たちが生きている「現実」も夢みたいなものだということは述べてきました。そんな馬鹿な、と思った人もあるでしょうし、それも一つの考え方と、聞き流した人もあったかと思います。

しかし、ミクロの世界を扱った量子力学の世界では、今見てきたように、心と物質を別個のものとみなす、常識的な物質観、世界観が通用しなくなっているのです。

「物と心とは別々のものではなく、一体不二であるということ」
つまり色心不二ということは、現実は、現実という名の夢ということを意味しているのかもしれない。だとすると(つづく)

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現代物理学から人生の謎 二重スリット問題

2009-12-14 22:32:38 | Weblog
19世紀までは、宗教というものが真理としての信憑性を持っていました。だから霊魂やら、天地創造の話、天国・地獄など死後の世界が普通に「常識」として信じられていたと思われます。

ところが急速な科学の進歩により、現実に起きるさまざまな現象は、ニュートン力学の法則であまりにも鮮やかに説明されてしまったので、昔ながらの迷信、俗信の付け入る隙がなくなり、ほとんどの宗教で説かれる、霊魂だとか、死後の世界などは、空想物語として片付けられるか、あるいは人間の心の有り様、生き甲斐を教えたものという理解に変わり、「真理」としての座から転落しました。

この時代から、人々の「常識」が、宗教的世界観から科学的世界観へと大きくシフトしたということです。
ここから、神などいない、天国も地獄もない、人体を徹底的に観察し、そこにある法則性さえ解明すれば、そのうち人間のすべてが分かる、そういう確信が生まれてきました。今もそういう信念を持っている人は多いと思います。

確かにニュートン力学は、この目で観察できる対象を扱うには完璧に見える理論でした。だからそれは、物理学を極めれば、人間をはじめ、天地万物の一切を解明できるという、宗教的な信仰とはまた違った、新たな信仰を生み出したともいえるのです。

ところが20世紀になると、物理学の扱う対象がミクロの領域まで広がりました。すると、対象を正確に観察してデータを集め、法則性を導き出す、そこまではよかったのですが、出てきた法則が、私たちの「常識」では到底理解できない摩訶不思議なものになってしまったのです。

どういうことかといえば、私たちが対象を「観察」することによって、「対象」そのものが変わってしまうということなのです。それは「二重スリット問題」に顕著です。

興味のある方は、このサイトが分かりやすいので参照されてもいいでしょう。(ただし長いです)

■哲学的な何か、あと科学とか(飲茶)
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/gakuFrame.html


例えばこういうことです。私たちの目に見える世界で、こんなことがありうるでしょうか?

私の部屋に入るには、二つのドアがある。ところがAさんは、私が見ている時はどちらかのドアから入ってくるのですが、私が見ていない時は、両方のドアから同時に入って来る。「そんなバカなあ……」という話です。そんなことはありえないから、Aさんがドアを開けた瞬間を見たらいい、と言われるかもしれません。でも見た瞬間、Aさんはどちらかのドアにしかいないのです。でも私が見ていない時には、両方のドアから入ってくる。その証拠に、両方のドアのノブにはAさんの指紋が50パーセントづつ付いている。

Aさんは一人であり、かつ一人ではない。Aさんの状態は、私が「観察」するか、しないかで決まる。

こんな話をしたら、「あなたは気がおかしくなったのでしょう」と言われてしまいますが、ミクロの世界ではこうなのです。Aさんに例えたのは素粒子です。

これが何を物語るかといえば、物質とは何か?私たちが素朴に思っている「物質」というものが、実は得体のしれないものであるということ。見ている「私」と、見られた「物質」との間に相関関係があるといわざるを得ないということです。私と物質は、独立した別個のものではなく、密接に関わっている、あるいは根源を等しくしている、ということ。これが多くの人が常識としている「ニュートン力学的世界観」に訂正をせまる科学史上の大事件でした。(つづく)

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