静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

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生について考えることは死を考えること

2019-12-05 13:47:02 | Weblog
死について話しをすると、人生をそんなに暗く考えるのではなく、もっと明るく、ポジティブに考えてみてはどうか?と言われることがあります。

 どうかと言われても、それが仏教なので、致し方ありません。
ただ、仏教で死のことをやかましく言うのは、決して人を暗い気持ちにさせるためではなく、実際はその逆なのです。

「暗い」といわれますが、話をしたから暗くなったのではなく、もともと私たちの人生に暗いものがあるんです。そこに気がつかないと、明るい心にすることはできません。

 このことを仏教では、「生死一如」と教えられます。今回は、このお言葉について説明しましょう。

 まず、この一如というのは、一つの如しと書きますが、同じではないけれど、別ものでもないということです。
例えて言えば、紙の裏表みたいなもので、一枚の紙には必ず表と裏があります。表と裏は同じではありませんが、かといって切り離すこともできません。
 こういう関係を一如といいます。
 同じように人生といいましても、そこには必ず生と死があります。
生だけあって死がないとか、死だけあって生がないということはありません。
この生と死は「二つで一つ」「一つで二つ」で切り離すことはできません。ですから生死一如といわれるのです。

 表と裏を合わせて一枚の紙であるように、人生というのも、明るい「生」と暗い「死」を合わせて「人生」なのです。
 ですから、真面目に人生を考えるならば、この死を「暗い」と言って遠ざけたり、考えても仕方ないと言って無視していては、片手落ちになります。それでは「人生」を考えたことにはなりません。

 そのことを一軒の家に例えてみたいと思います。どんな家にも普通、台所と便所があります。台所というのは、食事をする場所ですから、誰もが好む明るい場所です。一方、便所は汚いし、臭いし、嫌われる暗い場所です。
 しかし、だからといって家を建てる時、好きな台所だけ造って、嫌いな便所は造らなくてもいいでしょうか。
 例えば、台所だけが特別に広く、アンティークなテーブルに、山海の珍味が山盛りになっています。ビンテージもののワインも揃い、専属のコックが次々とご馳走を運んでくれる。そんなステキな台所でパーティーを開けば、さぞや楽しいだろうと思いますが、しかしもし、そこにトイレがなかったらどうなるでしょう。

 食べたからには汚い話ですが、あとで出さねばなりません。
どうしてもトイレへ行かねばならなくなります。でもその肝心のトイレがない。
こうなったら大変です。
あっちでもこっちでもお腹を押さえて身悶えする人が出てきます。そんな中で、どんなご馳走が出されても、食べたその先が心配で、楽しく頂くことはできないでしょう。

 私たちの生と死もこれとよく似ています。便所という備えがなければ、あとで困るように、人生も、やがて必ずやって来る死に備えておかなければ必ず後悔することになります。


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死をごまかさないで

2019-12-03 12:00:13 | Weblog
戦争やテロ、地球温暖化などの環境破壊、貧困問題や食糧危機などの世界中の人々の頭を悩ませるような問題が、政治や科学の力で解決すれば、大事業といわれると思います。

しかし考えていただきたいのは、これらの問題が残らず解決したとしても、問題の本質である「死」にはかすりもしていないということです。科学がどれだけ発達しても、死ぬのは止められません。世界中の時計を止めたとしていも、全人類が死に向かって進んでいることだけは止めようがありません。

そこでほとんどの人は、死を見ないよう考えないようにするか、あるいは思い切り「死」を美化したり、茶化したりして、死なんて「大したことない」と信じ込もうとしています。

しかし、それは一つのごまかしなので、いよいよとなると通用しません。ですからそんな虚勢を張ったり、気休めを言うのではなく、死という問題に真正面から向き合って、解決してはどうでしょうか。できないことは言っても仕方がないですが、仏教を聞けば、必ず解決いたします。

上記の諸問題の解決を、世間で大事業というのなら、その根本が解決するのですから、人生の大事業です。
そしてそれが、絶対の幸福になったということであり、仏教が明らかにしている「なぜ生きる」の答えなのです。
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「死ぬことなんか怖くない」は本心か?

2019-12-02 11:48:15 | Weblog
「私は死ぬことなんか何とも思っていないよ。死んだら死んだ時だ」と言われる方があります。
 しかし、よく考えてみて下さい。例えば今、十万円入った財布を取られたとします。皆さん血相変えないでしょうか。「大変だ、大変だ」と大騒ぎしたり、ショックで何も手につかないかもしれません。
 しかし、いくら大事な財布とはいえ、それは私というものの一部です。その一部を失ってさえ大変なショックです。ましていわんや、死というのは「命を取られる」のですから、財布を取られるどころの騒ぎではありません。財産も仕事も地位も、家族もマイホームも、死ぬときは全部失います。

 財布一つなくしてさえ、大騒ぎをする人が、もっと大事な命を失う時、平然としておれるものでしょうか。
 死なんて怖くないとか、何ともないと言っている人は、本当にそうなのではなく、これまで死についてあまり真面目に考えてこなかったということだと思います。
 今は「死は恐くない」と思っていても、想像した死と、現実にやって来る死との間には、大きな隔たりがあることをよく知らないといけません。

 どういうことかと言いますと、例えば、トラという動物を知っていますかと聞けば、皆さん、知っていると答えると思います。しかし、皆さんの知っているトラは、TVや動物園で見たトラのことで、それは襲ってくることはないので怖くなかったはずです。
 しかし、皆さんがジャングルを歩いていた時、突然トラが現れたとします。その時は、恐怖で腰を抜かすと思います。TVや動物園で見たのもトラ、ジャングルで出くわしたのもトラなのですが、受ける印象はまるで違います。

 死も同じです。他人が死ぬのなら、毎日起きている出来事の一つで、自分は傍観者でいられます。それはTVや動物園のトラを見ているようなもので怖くありません。
 しかし、実際に自分の身に起きる死は全く違います。それはジャングルで襲ってくるトラです。今度は傍観者ではなく、当時者になります。死はすさまじい破壊力で、私の何もかも奪っていきます。そしてそれを体験した時には、全てが終わっています。

 今世間を騒がせている問題、例えば、
★戦争やテロ事件
★核実験やミサイル
★原子力発電の再稼動問題
★新型ウイルス
★南海トラフなどの大震災
★温暖化などの環境破壊
 こうした問題を世界中の人が恐れ、「何とかしなければ」と大騒ぎしております。
 ではなぜ、大騒ぎするのでしょうか。皆さん、もうお気づきだと思います。それはこれらの問題の根底に、「死」があるからです。

 つまり、戦争や、爆弾テロの何が問題かというと、人が死ぬということです。もし誰も死なないなら、戦争が始まっても、テロリストがやって来ても怖くないと思います。ということは、本当に怖いのは、」戦争やテロというよりも、その先にある「死」なのです。

 また毎度お騒がせのお隣の国が、やたらと核実験やミサイルを発射しております。世界中がそれを止めさせようとしていますが、それはなぜかといえば、あの国が核兵器が使うようになったら、たくさんの人が死ぬことになるからです。

 原発もそうです。再び稼働させると反対運動が起きますが、それは何かあった時、福島原発のように放射能が漏れるからです。なぜ放射能を恐れるかと言えば、それを浴びると私たちは死ぬからです。つまり、放射能が怖いというより、「死」が怖いのです。

 新型ウイルスも、大震災も、あるいは大気汚染や地球温暖化なども、そのこと自体が恐ろしいというより、それによって死ぬことが恐ろしいのです。根本に恐れているのは、この「死」なのです。

「死」が大した問題でないのなら、これらの問題が起きても、大騒ぎすることはないはずです。しかし実際には大騒ぎが始まるのは、全ての人が「死」を恐れているからです
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