静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

後生の一大事

2011-06-30 15:51:44 | Weblog
厚生労働省の人口動態統計(平成21年)によると、日本での年間死亡者数は、およそ114万4000人。単純に計算すると1日に3000人以上の人が、日本のどこかで、何らかの原因で命を落としていることになります。

1日3000人という数字は、10日にすれば3万人。あの〃未曾有〃といわれた東日本大震災の死者が、行方不明者も含め2万3571人といわれていますから、その10日後にはそれ以上の人が、日本のどこかで死んでいるという事実が浮かび上がってきます。

しかし、そのことで取り立てて大騒ぎする人はありません。

東日本大震災ばかりがあれほど騒がれるのは、多くの死が、一時期に、局所的に、集中して発生したことによるでしょう。また、大津波にもみくちゃにされて亡くなるのと、静かに布団の上で死ぬのとでは、受ける印象が大きく異なるからでしょうが、命あるものが命を失うという悲劇の本質においては、何ら変わるところはないと思います。

もちろん、東日本大震災は大悲劇に違いないのです。でもそれなら、10日ごとにあの大震災以上の死者をコンスタントに出し続けている、私たちの〃平穏な日常〃というものも、本来は大変な悲劇といえるのではなかろうか、ということです。


あの大震災で亡くなられた人数に匹敵する死者を、全国に、10日間に分散させると、〃いつもの出来事〃としてしか受け止められなくなってしまう私たちの感覚というのは、はたして正常なのでしょうか。

親鸞聖人が大変尊敬せられていた、中国の善導大師は仰せです。

「人間怱々(そうそう)として衆務を営み、年命の日夜に去ることを覚えず。灯の風中にありて滅すること期し難きが如し。忙々たる六道に定趣なし。未だ解脱して苦海を出ずることを得ず。云何が安然として驚懼せざらん」

総ての人は、日々忙しそうに朝から晩まで、どう生きるかに必死で、刻々と命が消滅していることには無頓着である。
一陣の風で消え去る灯のような存在を全く知らないように。
事故や災害などで亡くなる人が、明日のわが身と何人が想定したことか。
果てしない迷いの旅路に終焉がなく、苦しみの難度海から脱出できないでいる。
なのに安閑として、どうして驚かないのだろう。




僧侶はじめ宗教関係者の多くは、被災地のあまりの惨状に、読経や祈りを捧げに現地入りしたり、復興のボランティア活動に参加したりしているようですが、それはそれで必要なことと思います。
でも本当は、悲劇の本質(後生の一大事)はあの場にだけ起きたのではない。それを忘れず、各自が親鸞学徒の役割を全うするしかないと思います。

誰の人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらすべし

ポックリ寺

2011-06-25 21:10:23 | Weblog
 奈良県に有名なポックリ寺がある。

大阪のある婦人会の人たちが、観光で

そこを訪れた際、長患いで家族に迷惑

をかけたり、苦しんだりせず、ポック

リ死ねますようにと祈願した。


 ところが〃霊験あらたか〃というか、

3日後、その中の一人が本当にポックリ

死んでしまった。こうなるとあのポック

リ寺は、ただの言い伝えでない、本当な

んだという話になり、それからというも

の「今度はあんたの番だ」「いやあんた

こそ、あんなに真剣に頼んでおったじゃ

ないの」と、ゴリヤクのなすり合いまで

始まった。



 頭痛がしたり、原因不明の腹痛にでも

なろうものならさあ大変で「いよいよ自

分の番が来たか」と皆、戦々恐々とし始

めたという。そこでまた、婦人会で集ま

ってポックリ寺へ行き、この前の祈願は

どうか取り下げ願いますと、前より真剣

に頼み始めたのだそうな



 ポックリ死ねたらええなあ、と考えて

いる「死」は怖くはないが、実地に死と

向き合わされるとそうはいかない。肉体

の苦痛のあるなしにかかわらず、死それ

自体の持つ重圧が心にのしかかる。観念

と実地の間には、果てしないひらきがあ

るのだが、死ぬが死ぬまで気づかぬ所に

人の不幸があるのであろう。


【法楽寄席】 身投げ橋

2011-06-21 19:49:50 | Weblog
 昔は、両国橋のような大きな橋になりますと番人という者がおりまして、通行料(二文)を取るほか、監視の役目もしていたそうです。
 ある年、毎晩のように橋から〃身投げ〃があったものですから、町奉行より、夜中も見張れとのお達しで、橋番たちはしぶしぶ寝ずの番をしております。そこへ真夜中ふらっと来たのが一人の花魁(おいらん)。

「ここ通らせてもらうよ。はい、通行代」
「一文?いや姐さん、これじゃ半分だ」
「いいんだよ、私は橋の真ん中までしか用事がないんだ」
と言うや、トントントントンと駆けていきます。
「?ちょっと待った!まさか身投げするんじゃ?まあ花魁、ちょっと待ちねえ」

 後ろから抱きかかえるようにして引き留めると、

「放して!」
「そうはいかねえ」

 花魁はその場に泣き崩れる。うつむくうなじに鬢のほつれが三つ四つ。ほのかに漂う麝香が艶かしい。

「もうだめ、いっそ死んでしまいたい……」
「何があったか知らねえが、そう早まるもんじゃねえや。好きな旦那にでも捨てられたのかい?気の毒になあ。でも、あんたみてえな器量よしなら、幾らでもいい相手が見つかるだろうと思うよ。もう一ぺん頑張って生きてみなよ」
「いいえ私はね、生きるのがもう嫌んなったの。それでも頑張れ?頑張れって一体何を頑張れっていうのさ?」
「そりゃ……生きてりゃいいこともあるさ。朝の来ない夜も、春の来ない冬もねえだろ。そのうちきっと夜が明けるさ。やがて花咲く春が来るって」

 励ますものの、花魁はじっと橋番の目を見据え、

「橋番さん、その夜明けって何さ?花咲く春って何よ?あんた今まで、何かいいことあったの?」。
「いいこと?家には病気の親に、うるさいカカア、それに貧乏人の子沢山。どうせこの先も苦しいことばかり……」
「それごらんよ。生きたっていいことなんてありゃしないさ。来ない春を待ち暮らすなんてごめんだよ。生きろと言うなら、あんたこそ、生きてせいぜい苦しむがいいさ」
「ひでえこと言うぜ。でも、お前の言う通りかもしれねえな。苦しいのになぜ、生きるんだろ?」
「ねえそうだろ。じゃあ、あんた、私と一緒に死ぬってのはどう?」
「え?」
「一人で死ぬのは寂しいと思ってたとこさ。それにさ、あんたよく見ると男前だし。来世を契った心中ってのはどう?それなら格好もつくし、明日は江戸中、大騒ぎさ」
「どう?って、お前」

 花魁は、橋番の手をぎゅっと握ると目と目を合わせ、

「もう決めたの。『この世の名残、夜も名残、死にに行く身をたとうれば、あだしが原の道の霜……』。さ、気分も出てきたし、じゃ、飛び込むわよ。一、二の」。

 とんでもない女がいたものでございます。ちょうどそこへ巡回中のお奉行が。

「そこの二人、何しとる」
「何してるってお奉行さま、見ての通りでさあ」
「早まるでない。朝の来ない」
「あー『朝の来ない夜はない』ってねえ、それはさっき終わったんでさあ。お奉行さま、ここは一つ目をつぶっておくんなせえ」
「お前たち、心中してどこへ行くつもりじゃ」
「え?どこへって、死ねば楽になれるんじゃあ?」
「じゃあ?って、行く先がハッキリもせんのに軽々に飛び込む奴があるか!この大馬鹿者。お聖教には『一度、人身を失いぬれば万劫にもかえらず』とある。後生は取り返しがつかんのだぞ!」
「さ、さようでございましたか。でもお奉行さま、後生って今からハッキリするものでございますか?」
「もちろんだ。それを教えられたのがお釈迦さまじゃないか。いつ死んでも極楽参り間違いない正定聚の身に、この世でハッキリ定まるとお教えじゃ。その身になれば、浄土へ往くまでのこの人生は大安心、大満足。苦悩のままが満足いっぱい!その身になるための人生じゃ。いいかい、何があろうと仏の教えの通り、光に向かって進むことだよ。お二人さん」
「へえそうだったんですかい。ありがてえお話だ」
「こんな私でも、仏法聞けばお浄土参りできるんですね!ああ、うれしい」

 花魁と橋番が手を取り合う。

「随分と仏教に詳しいお奉行さま。でも何でこんな所、歩いておられるのですか?一体、何奉行さまでございましょう?」
「わしか?わしは衆善奉行(*)じゃよ」        


*大宇宙の諸仏方が共通して教えられている「七仏通戒偈」の一句「衆の善を行い奉れ」

『歎異鈔をひらく』の波紋

2011-06-20 18:37:36 | Weblog
毎年、10冊以上出ていた『歎異抄』の解説書が、『歎異鈔をひらく』(1万年堂出版)が出て3年3カ月、1冊も出なくなってしまった。

念のために付け加えると、〃1冊も出なくなった〃というのは、浄土真宗の正統派を自認する人たちのことである。作家や芸能人、真宗大谷派(東)からは出たが、それらは対象外とする。
なぜならば、それらの本は親鸞聖人のお言葉を示し、その正しい意味を明らかにする「親鸞学徒の本道」とは異質のものだからだ。

例えば「東」の出した『新刊書』には、「親鸞の教えを金科玉条にしているというのではなく」とあり、自己の体験に基ずく自分流解釈を良しとしている。
「東」の出している『教化リーフレット』を読むと、『歎異鈔』に頻出する「念仏」や「浄土」など重要な語句についても、独自の解釈をしていることが分かる。

 念仏とは、「人間であることを見失っている私たちに、人間であることを回復せしめる根源のことば」であり、浄土とは、「死後の世界ではありません。(中略)人間を見失ったものに人間を回復させる仏さまの世界(中略)人間回復の大地」であるという。

 さらに、人間死んだらどうなるか?の問いに、「自分の『現在』を問わないで『人は死んだらどうなるのか』と考えることは、私たちを出口のない路に迷わせる」とまで解説している。
 では〃自分の現在を問う〃「東」の人たちは、死んだらどうなると思っているのか聞いてみたいところだが、いずれにせよ、真宗教義の骨格に関わることさえ、こんな勝手な解釈がまかり通るのだから、東本願寺に『歎異鈔』の正しい解釈など望めそうにない。

 その点西本願寺は、実際の布教はともかく、教えをまとめた「教章」に、「阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ、念仏を申す人生を歩み、この世の縁が尽きるとき浄土に生まれて仏となり、迷いの世に還って人々を教化する」と書いているから、まだ〃正統派〃と呼ばれているのである。

 その西本願寺から、毎年出ていた『歎異鈔新刊書』が、『ひらく』以降3年3カ月、パッタリ途絶えてしまった。この沈黙は、何を意味しているのだろうか。

脳が私なのか?

2011-06-19 20:05:31 | Weblog
『生きて死ぬ私』(著・茂木健一郎)という本を紹介します。

NHK番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」の司会などで、幅広く活躍している脳科学者・茂木健一郎さんのエッセーです。


「科学の発達により、宇宙というマクロコスモス、人間というミクロコスモスに関する私たちの知識、理解は格段に深まった。
だが、このような理解の深まりが、人間とは何か、人間の生きる目的は何かといった究極の問いの解明には、なかなかつながらない」

「どんなに科学が進歩したとしても、何らかの価値の基準を求める人間の心が変わるわけではない。私たち人間はどこから来てどこへ行くのか、人生の究極の目的は何なのかといった問いの重みが変わるわけではない」


このあたりは、わが意を得たりと思いました。
「脳」をどんなに生化学的に分析して、人間を物質的な側面から研究しても、私というのは分からないものなのでしょう。

「私」が分からなければ、私が死んだらどうなるのかも分からないし、私の生まれてきた目的も、生きる目的も分からない、何もかも、大事なことがサッパリです。


ただそれが「脳」に精通する茂木さんの洞察であり、結論であり、実感となれば、現代社会への影響も小さくないでしょう。

なぜなら、今日、多くの人が「私」の正体を、「脳」に見出しているからです。

脳こそ「私」である。でもそれは正しいのでしょうか?

一見、それは正しくみえる。
でも、こんな思考実験をしてみてはどうでしょう。

自分の脳を神経をつないだまま取り出して、自分で観察できるようにしたとします。この脳のどこが「私」なのか、脳の隅から隅まで観察して、「私」が見つかるものでしょうか?他人の脳ではありません。 今、現に動いている自分の脳を、自分で観察するのです。


どれだけ調べても、灰色のグニャグニャしたものしか見えず、拡大すれば無数の細胞が見えるだけで、さらに拡大すれば分子の運動しか見えないはずで、結局これが私と言えるものがどこかへ行ってしまいます。

仮にこれが「私」と言えるものが見つかったとして、「これが私だ!」と思ったあなたは誰?という哲学上の難問をかかえてしまいます。

私は常に「いま」「ここに」しかないはずなのに、客体化された「私」とは一体、何者なのだろうか。


『歎異鈔をひらく』から3年3カ月

2011-06-17 18:31:34 | Weblog
「太平の眠りを覚ます上喜撰、たった四杯で夜も眠れず」。幕末、ペリーが来航し、開国を迫った時に流行った狂歌だ。「上喜撰」は上等なお茶の名で、「蒸気船」とかけてある。4艘の黒船が、徳川三百年の眠りを覚ましたことを、お茶で眠れないのになぞらえている◆毎年、10冊以上出ていた『歎異抄』の解説書が、『歎異鈔をひらく』が出て3年3カ月、1冊も出なくなってしまった。従来の解釈が正しいのなら、『ひらく』はまさに異端の書。20万部を超える勢いで読まれているのに、なぜか自称・正統派の不可解な沈黙が続く◆八百年の伝統で押し切り、人々の関心が去るのを待っているのかもしれないが、英語版も出され、今や海外の真宗学者も注目している。権威といわれる某教授は、「真意が霧が晴れるように分かった」と『ひらく』に賛辞を惜しまない◆外国からの「どちらが『歎異抄』の真意?」の声はまさに黒船。外圧に震え上がった幕府のように、「本山の眠りを覚ます歎異抄 ひらくのために夜も眠れず」なのだろうか。

死んだらどうなるのだろう

2011-06-13 12:59:03 | Weblog
死んだ後は有るのか無いのか
大事なことですが、理屈だけで納得させようとすると、
ややもすると戯論じみた方向へ話が流れます。

例えば、死後、生命は存続するとしても、現在の意識
はなくなるのだから、今の自分とはもう関係ないのでは
ないか、といった答えようのない話にもつれ込みます。

そうならないためには、

ものごとには必ず因果関係が成立していて、
人間の運命においては、善いことをすれば善い結果、
悪いことをすれば悪い結果、自分が自分の運命を決定して
いく、作っていくということを、繰り返し、繰り返し
納得するまで話すことだと思います。

今の結果から、なぜそうなったか、原因を突き詰められる。
今の原因から、未来の結果を推測できる。
こういうものの考え方を、日ごろから徹底していくこと
が大事ではないでしょうか。

その人が因果の道理を受け入れたその程度、程度に応じて、
死後はうっすら感じられてくる、心配になってくるものです。

死後については、有るとか、無いとかいう知識レベルの理解
より、死後が心配になる、不安に思う、ということが、死後
についての、より深い理解といえそうです。

東日本大震災と人生観の訂正

2011-06-11 18:56:24 | Weblog
日本で恐らくいちばん読まれている月刊の文芸誌
『文芸春秋』7月号の特集が、「大研究 悔いな
き死」。その号の「編集だより」に、特集した理
由が書かれてあった。

「★東日本大震災で人生観が変わったという声を
聞きます。死はすぐそばにあり、突如としてやっ
てくる。死を覚悟すれば、人生は違って見える。
大研究『悔いなき死』を特集したゆえんです」

<死を覚悟すれば、人生は違って見える>
確かにそうなのだろう。
では、何がどう変わるのか、考えてみたい。

現代人の人生観は多様だといっても、その根底を
叩けば、「金」の信心。ではなかろうか?
「金で人生の問題の大半は解決する」
と言った作家もあるそうだが、幸福になるには
まずは金。金こそ幸福の元、と多くの人が、本音
のところ、信じているように思われる。
確かに金さえあれば、好きなものが何でも手に入
るのだから、金を幸福の元と思うのも、無理ない
話だろう。

だがよく考えると、それは明日もあさっても、来
年も再来年も生きておれるということが大前提に
なっていないか。

もし、その前提が崩れたら、どうなってしまう
だろう。つまり、あなたに死が宣告されたら?

まだ生きておれる、という大前提は、あっさり
崩れるものであることを、東日本大震災は、
日本人にまざまざと見せつけた。

大前提を崩す死が間近に迫り、後生を突きつけ
られれば誰だって金は幸福の元、やら、人生か
けて求むべきものだとは信じられなくなる。

さらにもう一つ。

年金がもらえるのやら、もらえないやら、
〃おひとりさま〃は、将来、誰が介護してくれるのか
そんな老後の不安がつきまとう現代人。
少しでも確かな老後を送れるよう対策に余念がない。
だが、その先の後生、つまり死んだらどうなるか、
についても全く分からないのに、それについては
なぜか考えない。それですましていられる人生観。

だが、死が間近に迫り、後生を突きつけられると、
いやでも心配になってくる。

「踏み迷う 知らぬ旅路の夕暮れに 宿のなき身の
心地こそすれ」で、先がハッキリしないのは誰でも
心細いのだ。

金さえあれば勝者と思い、他人を蹴落としてでも
獲得してきた財産が、いざ後生を突きつけられると、
何の力にもならないことがハッキリする。
それどころか、金を得るため随分、非道なことを
してきた者は、死んだらどうなるのか、と底知れ
ない不安に悩まされる。

釈尊が、
「大命将に終らんとして悔懼交々至る」
と説かれたとおりである。
臨終に人は、後悔の過去と、未来の恐れに
代わる代わる苦しめられる。


こうして人生観の訂正を迫られる。
東日本大震災で、変わったといわれる人生観は
まだ、その一端に過ぎないと思う。

夕凪の街 桜の国

2011-06-03 19:52:27 | Weblog
表題は、こうの史代という漫画家の描いた、広島の原爆を
テーマに描いた漫画のタイトルです。
映画化もされたし、ご存知の方も多いと思います。
一昨年、初めて読んだ時も随分、感動しましたが、改めて
読み返し、わずか100ページほどの紙面の中に、よくこれ
だけのドラマを凝縮できたものと、感嘆せずにおれません
でした。

この作品の良さは、多くの人が書評に言い尽くしているので、
改めて書くまでもありません。アマゾンのレビューを見れば、
圧倒的多数の人が賞賛を寄せています。
普通、どんな優れた作品にも、妬みやそねみもあってか、酷評
がつきまとうものです。
大概の場合、自分の好き嫌いと、作品の良し悪しと履き違えた
批評に値しない批評(単なる悪口)がほとんどですが、この
作品に限っては、そんなお門違いの酷評すら見当たりませんで
した。

それは凄いことだと思います。

この本を貫いているのは、日々の生活を慈しみ、平和を願う
作者の強い、温かい思いです。普通はメッセージ性が強いほ
ど、読者に共感、反感の色分けができてしまうものですが、
この作品は圧倒的な共感のもと、きちんとメッセージを伝え
ています。

こういう作品に出遇えると、幸福な気持ちになります。

原爆関係者を取材すればするほど、ある感情が、つまり原爆
を落とした者への、あるいは無謀な戦争を指導した者への怒
りがふつふつとたぎってきます。
こうのさんも恐らくそうだったと思います。
でも、その怒りを生のままぶつけると、たとえ正しいことで
も、伝わらないことが多いものです。
それは、作者と読者の間には温度差があるからです。
同じ温度になるまで、読者を温めなければ、伝わるものも伝
わりません。

この本を読み、原爆をテーマにしながら、こういう表現の仕
方があったのか、と大変勉強になりました。



そしてこれは、親鸞聖人の本当のみ教えを明らかにしていく
上で、大切な点ではなかろうかと思います。
教えをねじ曲げる者への怒りが根底になければ始まりません
が、問題は、それをどう表すか、です。
それが心ある浄土真宗の人たちに伝わった時、このままでは
収まらないでしょう。真宗界は今、原爆が落ちた以上の大惨
事なのですから。




心臓はどこに

2011-06-01 19:58:21 | Weblog
3手詰みくらいの詰め将棋なら、私でも盤面を見れば勝負の行方は分かるが、十何手以上の詰め将棋となると、盤上を見ただけでは分からない。でもそれは、私に分からないだけで、勝負自体の決着はついている。詰め将棋の玉はいかに威勢を張ろうと、すでに死んでいるのである。

「親鸞聖人のみ教えに善のすすめはあるか、ないか」という論争も、詰め将棋のごとく決着はついている。ただ、もっと駒を進めないと、一般の人には〃詰んだ〃ことが分かりにくいかもしれない。
だが詰まれた側は、その応援団も含め、詰まれたことさえ気づかぬらしく、威勢だけは随分とよろしい。

なぜかといえば、まず、この「問い」が理解されていない。

腕や足を切られてもまだ戦えるが、心臓を一突きされたら絶命する。戦いはそこで終りだ。
「親鸞聖人のみ教えに善のすすめはあるか、ないか」
この問いがそういう性質のものであると、果たして分かっているのか?どうも怪しい。彼らの発言を見る限り、数ある仏法論議の一つ程度にしか思っていない節がある。

その発言が、多くの人から本質をはぐらかす意図でされているなら、賢者とは思わぬが〃智者〃ではあろう。だが、どうも本気で分かっていないらしいのだ。それがあの威勢のよさの秘密と思われる。

そもそも「親鸞聖人のみ教えに」とあるのに、その親鸞聖人のみ教えが、何のため、何を解決するためにあるのか、それすら理解していないのだから、善のすすめがあろうが、なかろうが、あの人たちにとっては、本音の部分でどうでもいいに違いない。

そんな人たちを相手にする場合、心臓を一突きする前に、ここがあんたの心臓だよ、とよく分からせてから一突きしないといけないから大変である。そうしないと、いくら心臓を突いても、死んだことすら気づかず、いくらでも襲い掛かってくるからだ。

2007年に公開された『28週後...』という映画は、いわゆるゾンビもののパニック映画だった。この映画の特徴はゾンビが〃走る〃のである。
今までのゾンビと言えば「のろまな亀」というイメージで、走って逃げれば大丈夫だった。
この常識をひっくり返し、ゾンビが全速力で走ってくるのである。
子供の鬼ごっこのように必死で追ってくるのだ。
想像してみるだけで、異常で、怖いものを感じるだろう。

だが、それに近い現実が、私の周りでも起きている。

くわばらくわばら。