静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

法楽寄席 証拠より論

2010-10-25 11:16:23 | Weblog
 江戸っ子といえば宵越しの金を持たないと、昔から相場が決まっておりまして、後先考えず、気前よくお金を使うものですから、そのツケが大晦日にいっぺんに降りかかってまいります。こうなると払うほうも大変ですが、払わせるほうも大変で、年末は長屋のここかしこで虚々実々の駆け引きがあったりします。

大家「困った、困った」

熊「おや大家さん。家賃が集まらないんですか。ハチ公ですね、去年は親父さんが危篤、おととしは子供が事故、どっちもピンピンしてましたけどね。で今年は何て?」

大家「いや、もっと手ごわいのがいるんだよ、この間、越してきたお人だ。何でも最近救われたってえ話なんだ」

熊「救われた?あの人が?それで?」

大家「それがね、救われたからには大乗の菩薩だって、急に態度が大きくなるんだ」

熊「へえ大乗の菩薩?大丈夫ですかい、あの旦那」

大家「私もよく分からないからさ、とりあえず、家賃半年分お願いしますって手を合わせたんだ」

熊「手を合わせることないでしょ、滞納の菩薩に。で何て?」

大家「ここにはない。だがわが参る浄土へ来れば、七宝宮殿に金銀珠玉がうなるほどあるなんて言うんだよ」

熊「どうも怪しい」

大家「てまえどもでは、浄土までは往きかねますから、何とか今日中にって頼んだら、じゃあ今晩もう一度ここへ来い。大家にこっそり秘法を教えようなんて言うんだ」

熊「はあ?極楽往きの?」

大家「いや、秘法はいいから家賃を下さいって言うと、ああ仏縁がないというのはつくづく情けない。『縁無き衆生は度し難し』なんて散々小言聞かされて、追い出されちまったんだよ」

熊「ひでえや。救われたなんて、どうせ家賃踏み倒す口実なんでしょ」

大家「それがそうでもないんだ、あれは本物だって話だよ」

熊「ええっ、どこがホンモノなんで?」

大家「見た人がいるんだよ。ウンウン苦しがってたかと思ったら、突然風呂屋の煙突に登って『救われた!』と絶叫して、3回転宙返りをしたっていうんだ」

熊「バカと煙は高いとこへ行きたがるっていうじゃありませんか」

大家「でもね、30年求めても助からなかったが、近道があったって言うんだ。不可称不可説不可思議とはこのことか!ってたいそうな自信だよ。誰が何と言おうと、この体験に間違いねえ。論より証拠だって啖呵を切るんだ。あんなに断言するんだから、本物じゃないかって」

熊「その証拠は怪しいや。どだいあの人の断言は当てになりませんよ。明日は晴れる!と言えば雨が来るし、地震だ!と言えば自分の貧乏ゆすりだったし、何だって断言するからあの旦那、横丁の断言王子って言われてますよ」

大家「ハニカミ王子なら聞いたことあるがな」

熊「いずれにせよ大家さん、私はこうなった、ああなったって仏法使って自慢する奴にかかわるもんじゃありません。そういう連中の体験話みたいなもの、親鸞さまの書かれたものにありますか?」

大家「そりゃ風呂屋の煙突なんて話は出てこないだろうけど、余程すごい体験したからあの人もああ言うのだろう?」

熊「大家さん、その心が迷いの元だ。旦那に言っておやんなさい。どんな体験だろうと、三世十方を貫く、お聖教のお言葉と合致しなければ、二束三文だって。論より証拠の前に、証拠より論」

大家「おまえさんがそう言うなら頼もしいや。いっそ私の代わりに家賃を取りにいってくれないかい」

熊「いいですよ。家賃もらってきたら、今度一緒に仏法を聞きにいきましょう」

大家「そうだな。円無き衆生はこりごりだ」  

法楽寄席 元の木阿弥

2010-10-22 18:21:05 | Weblog
世の中には、随分、意地っ張りといいますか、知らないことでも知ったかぶりする方がございます。
大概、どこの町内にもそんな方が一人はございまして、回りもそれをよく知っておりますから、ああ、また始まったなと思いながらも、その話に付き合ってその脱線ぶりを楽しんでいたりもするわけでございまして……。

うーん、どうも分からねえなあ。

おうハチ公、どうしたい。

おう熊さん。おまえ分かるか?せっかくいいところまでいった
のに台無しになるのを「元の木阿弥」っていうだろ。

ああ。

あれ何で元の木阿弥なんだ?

さあ、考えたこともなかったな。それなら向かいのご隠居に聞い
たらどうだい。何でも知ってるそうだから。

いや、あてにならねえな。あのご隠居、何でも知ったかぶりするから。

それが面白えのよ。一つ行ってみよう。



ご隠居さん、こんちわ。

ああ熊と八か。どうぞお入り。

早速なんですがご隠居、「元の木阿弥」なんてえ言いますが、ありゃ何で、元の木阿弥なんですかね?

なんだい出し抜けに。元の木阿弥?ああ、そのことか。悪いな、ちょっと用事を思い出したので。

ちょっとちょっと、待ってくださいよご隠居さん。そんな逃げなくっても。

だれが逃げるか。用事を思い出しただけじゃ。

本当ですかぁ?そんなこと言って本当はご隠居も分からないんじゃあ?

これ、馬鹿なことを言うな!わしには分かる。ただおまえたち愚者には理解できないというんだ。

そんな愚者ですか。少しぐらいは何とか……

愚者には無理だ。二人だからグシャグシャじゃな。

おお寒っ。いやいや、その愚者にも分かるように、どうか一つ聞かせてやっておくんなさい。

うーん、それじゃ仕方ない、聞かせてやろう。うーん、そうだな、頃は元禄太平の世、都に有名な仏師がいたんだ。

ほう、仏師?

仏師というのは仏像彫りのことだ。その仏師が、たまたま立ち寄った旅の僧から弥陀の本願を聞き、たいそう感激したそうだ。

ほう。

それで翌年の元旦、仏師は今年中に必ず阿弥陀さまの木像を彫ると誓ったんじゃ。

ふんふん、それで?

大変な意気込みだったから、京都から奈良から山じゅう歩き回って、素材には最高の銘木を探し当てた。それからというもの朝から晩まで、ノミを片手にコンコン、コンコン、雨の日も雪の日も。

ちょっと待ったご隠居。仏像彫りは家の中でやるもんでしょ。雨も雪も関係ないじゃありませんか?

うるさいね。それがあるんだよ。本当の名人ってもんはね、弟子は取らない、金目当ての仕事はしない。だからその仏師も金のことなんかこれっぽっちも頭にないんだ。だから住んでるところはボロボロのあばら家。屋根もはずれかかって雨漏りどころじゃない、直撃だ。
雪でも降ろうもんなら、子供たちが家の中で雪合戦したという。

本当ですかぁ?どうもご隠居の言うことは極端で。

黙れ。愚者は口をはさむな。やがて年も暮れ、完成も間近。最後のひと仕上げという時に旅の僧がふらりと来た。

また旅の僧ですか?都合のいい時に出てきますね。それで?

その僧が言ったね。「仏師よ、精が出るのう。だが真宗の正しい御本尊は御名号なのだぞ。ほれ、これを見よ」と言って懐から差し出したのが、蓮如さまのお言葉だ。

ふんふん。

「他流には名号よりは絵像、絵像よりは木像というなり。当流には木像よりは絵像、絵像よりは名号というなり」。木像は他流だ!ズバッときたね、ズバッと。

そりゃあ仏師は困ったでしょう。

ああ困ったのなんのって、「そうであったか、そうであったか」と叫んだかと思うと、飛び上がって三回転宙返りだ。

仏師が何でそんなことするんですか?

よほどショックだったんだろうな。以来、すっかり寝込んじまった。

かわいそうに。

でも、ここからが仏師の偉いところよ。丹精込めて作ったものではあるが、教えに反しては意味がない、さあ燃やしておくれ、さあ、と弟子に言って焼却したんだ。

あれっ弟子は取らねえんじゃ。

いちいち突っかかるね。なにしろこれほどの仏師だ。弟子はいらん、といくら言っても、そこを弟子にして下さいという若いモンが後を絶たないんだよ。親衛隊みたいのがいっぱいいたんだな。

なるほどねえ。

仏像は粗末にならぬよう丁重に、言いつけどおり火中に投じられたが、周りからは惜しむ声が上がったね。「木像の阿弥陀さまではだめなのか。名人の苦労も水の泡だぁ……」。そこから元の木阿弥と。

ええっ、今の解説だったんですか。あんまり長いから、別の話をしているのかと思いましたよ。木像の阿弥陀さまで、木阿弥かあ。なるほど、でもご隠居、「元の」とはなんですか?

元の?……。元のとは、まあそんな細かいことは愚者は気にせんでもよい。

いや、愚者でも気になりますよ。何なんですかい?「元の」ってのは。

元のとは……、えー、元のとはだな

ええ、だから「元の」はどうしたってんで?

そうだ、仏師の家は真宗だろ?真宗だから「門徒」よ。門徒の木阿弥がなまって「元の木阿弥」さ

ホントですかあ?





完成があるってホンマ?

2010-10-21 22:36:34 | Weblog
ある夫婦の会話Part3(■は夫、●は妻)

■えっ!人生の目的に完成がある!そんなアホな。学問、芸術、囲碁や将棋、剣道、柔道、書道に茶道。何の道かて卒業も完成もあらへんで。あの剣聖・宮本武蔵かて『五輪書』に、わしの剣はまだまだ未熟や言うとるやん。それをおまえが完成?何かおこがましくないか?

●違うわ。よー聞いて。親鸞聖人の説かれた人生の目的に、完成があると言うたんよ。あんたの言うたんは人生の目的やなくて、趣味、生きがいや。そんなんは皆「死ぬまで求道」よ。

■それがどないしたっちゅーねん。死ぬまで求道。カッコええがな。

●完成のないもんを求めるゆうのは、百パーセント求まらんものを求めるってことよ。ホンマにカッコええのん?

■ええがな。

●それは毎日狸の宝くじを買うてくるようなもんや。

■??おまえの話は急に飛ぶからついていかれへん。何で狸やねん。

●よう聞いて。「た抜き」や。宝くじから「た」を抜いてみて。

■ハァ?……あ!カラくじ。それで狸の宝くじか。山田くーん、座布団一枚あげて。

●いらんわ。大喜利やってるんやないで。つまり絶対求まらんもんを求めるなんて、できへんちゅうことや。

■そりゃそうやな。当たる可能性を信じて皆買いに行くんや。空クジだけやと知ったらだれも買わへんなあ。

●それでも一生買い続けるとしたらどう?

■そりゃ永久に報われん苦労やから、苦しいだけや。

●でしょ。そやから「死ぬまで求道」ゆうのは求まらん苦しみの連続なんよ。家康の言うように「重荷背負うて遠き道を行く」ことになる。人間に生まれてよかった!という喜びも満足もないんよ。

■うーん、そりゃきついわ。でも人生の目的達成したら、何もすることがなくなって、つまらんのやないか?

●達成もしとらんと、余計な心配せんとって。学校でも「卒業したら、何もせんでええから、遊びなさい」と言う教師がおる?おらんでしょ。卒業してからが大活躍やん。人生の目的も一緒。達成してから大活躍が始まるねん。見て、親鸞聖人や蓮如上人のあの頼もしいご生涯を。

■そうか!やっぱり人生の目的に、完成がないとあかんねんな。よっしゃオレも。

女心と秋の空……

2010-10-20 21:37:35 | Weblog
駄菓子屋のおばちゃん(▽)と男子高校生(▲)の会話(大阪編)

▽えらい寒なったなあ。おや、あんたどないしたんや?

▲ううう……おばちゃん。僕、心が寒いねん。

▽またふられたんかいな。これで何人目や。

▲言わんといて。ほんま女心は、秋の空や。

▽ん?それを言うなら、男心と秋の空や。間違えてへんか?

▲何言うてんねん、女心や。男の心は簡単に変わるもんやないで。

▽そーやろか。いっぺん辞典で調べてみいな。

▲(ペラペラ)あ、男も女も両方出てるわ。両方変わりやすいゆうことやな。

▽そういうことや、昔から「諸行無常」というてな。

▲何やおばちゃん。急に真面目な顔して。人が変わったかと思うやん。

▽あほ。よく聞きや。諸行とはすべてのもの。無常とは変わるということや。その昔、お釈迦さまがお説きにならはったんや。すべてのもんはな、幾ら大事にしたかって、いずれ壊れたり、消えたりする。ウソや思うなら、変わらないもん、出してみい。

▲台風のあとのおばちゃんとこの家の屋根や。

▽何やそれ?

▲瓦ない。

▽うぅさぶ。ふられるわけや。

▲大きなお世話や。でもおばちゃん、ほんま、変わらないもんってないかもな。

▽そうや、お金にしろ財産にしろ、名誉に地位、家族や健康にしろ、皆今日あって、明日どうなるか分からんもんや。苦労してかき集めたもんでも皆、離散してしまうんやで。

▲そりゃかなわんわ。でもそうやな。永遠のヒーローとか言うてたタレントも合成麻薬でコケたし、人気者のロデオ猿も大怪我やし……。

▽何で猿やねん、まあええわ。それに、人間の心いうたかて変わり通しや。元旦に立てた決意、あんたはどうせ三日と続かんやろ。

▲おばちゃん、幾ら何でも三日はないで。

▽じゃあ何日?

▲一週間。

▽あほ、一緒や。ところで、あんたな、変わっていくもんを、変わる心でどれだけ追いかけたところで、変わらん幸せになれると思うか。

▲そりゃ無理やろうな。

▽そや、求めても求めても、求まった、ゆうことがないさかい、死ぬまで求道や。

▲死ぬまで求道?何やかっこええやん。

▽そうやない。求めるっちゅうのは不満だからや。そやから死ぬまで求道いうたら、死ぬまで不満足ということやで。人間に生まれてよかったという変わらない喜びが、どこまで求めてもないねん。

▲どないしよう。

▽だからな、本当の幸せになろう思うたら、絶対に裏切ることのない真実、ほんまもんを求めることや。

▲はー、おおきにおばちゃん。目が覚めたわ。

▽そらよかったな。

▲今度こそ、心変わりせん彼女を追いかけるわ。

▽何でやねん、ちーぃっとも分かってへんがな。

▲そんなことないで。スポーツの秋、読書の秋、食欲の秋、そして僕には恋愛の秋や。ああ乙女よ、秋に恋せず、いつ恋するや。

▽フン、なにせもう秋や。すぐ彼女に〃飽き〃られてまうで。そうならんよう、しっかり仏法聞くことや。

▲そやな。おおきに。

人生の目的なんてなくても生きられる!?

2010-10-19 19:22:54 | Weblog
■ある夫婦の会話PART2  (大阪編)

(妻) あんた、仏法には人生の目的が説かれてるんよ。たまには聞きに行ったらどないやの。

(夫) もうかなわんなあ。顔さえ見れば、「仏法聞け」言うて。耳にたこができるわ。言わしてもらうけどな、人生の目的なんかなくっても生きていけるで。

(妻) そりゃ、あんたみたいなポーッとした人は生きていけるやろなあ。

(夫) なんや。ポーッとしたとは。

(妻) そーやん。頭の芯がどこかポーッとしてないと、そんなこと言えへんよ。

(夫) おおきに。

(妻) 礼言うてどないすんの。「生きていける」は結構やけど、生きて何するの?問われているのはそこよ?

(夫) おっと、そう来たかいな。王手飛車取り、ちょっとタンマや。

(妻) あほ、将棋やってんのとちゃうで。よう聞いてや。もし自分が太平洋の真ん中にいるとして、あんたならどないする?

(夫) どないするっちゅーて、うーん、島か陸を目指して泳ぐやろうな。

(妻) それが水平線しか見えへんねん。

(夫) しゃあない。泳ぐだけや。

(妻) 水平線に向かって?ずっと?ほんまにできんの?苦しいだけやで。

(夫) そやな。体も冷えてくるし。何かにすがらんとおれんわ。何かないの?その海に。

(妻) あるんよ。丸太や板切れみたいなもんが、ぎょーさん浮いてるね ん。

(夫) そらええがな。そこまで泳いで、すがったらええやん。

(妻) そやけど、その後どないすんの?丸太や板切れに乗ったかて、すぐひっくり返ってしまうで。また、潮水のんでアップアップや。

(夫) 何でそう困らすねん?おまえは、人が苦しむの見たいんか?

(妻) そやないよ。人生の目的がなければ悲劇ってこと。

(夫) は?人生の目的?何やさっきの話と関係あったんかいな。

(妻) 大ありや。「泳ぐ」を「生きる」と置き換えてみて。人生は苦難の海や。その海を渡す船がなかったら、結局、土左衛門になるだけやで。

(夫) そらちょっと強引やないか?

(妻) そうか?よう考えてみてーな。

(夫) えー考えますがな。考えりゃええんやろ。目的なしに生きるってことは……水平線に向かって泳いでいるようなもの。なるほど、それでは苦しいだけやな。

(妻) そうでしょ。

(夫) 苦しいから何かを目指す。そこにすがりつきたい。まあ、そうやな。

(妻) そうそう。あんたも、これがあるから生きておれるいうもんあるやろ?

(夫) そりゃあるで。まずは家族や。ゼニも大事。あと酒もええなあ。飲み屋に行くと、かわいこちゃんがもう離さへんね。「さささ、社長さんもう一杯。ああええ飲みっぷりやわあ。男前よ」、なんてなあ、ウフフフ……。

(妻) なんや気色悪いなあ。なら聞くけど、あんたはそのために生きてるのん?

(夫) う~ん、そのために?と言われると違うような気もするが、これなしには生きていけんなあ。なければ水平線に向かってただ泳いどるようなもんや。

(妻) そうやろ。でもそのすがってるもんは、皆、丸太や板切れなんやで。

(夫) えっ、なんでや?

(妻) そうかて当てにならんやろ。諸行無常いうて、この世の一切は、いつか崩れ去り、消え去り、離れていく。いつまで、あんたを楽しませてくれると思うてはるの?

(夫) ええーっ。そうかもしれんけど、それを言ったら身もふたもない で……。おまえ、ひょっとして、わいを置いてよその男と一緒になるつもりやないやろな。この話はその伏線なん?

(妻) あほか。そんなことあるわけないやろ。私にはあんただけです。

(夫) ほんま!うれし。なんか大船に乗った気分や。

(妻) ……あくまで、あんたの退職金が下りるまでの話ですけどな。

(夫) あかんがな、やっぱり、おまえも裏切る丸太やったんか。

(妻) うそよ、うそ。けど、私もいつどうなるか分からんし。決して裏切らん弥陀の大船に早く乗せていただいて、このしんどい人生の海を、あんたと、明るく楽しく渡らせていただきたいわあ。

(夫) そうか、そりゃいいわな。それならわいも仏法聞かせてもらおうか。

運命は何によって決まるねん

2010-10-18 22:17:36 | Weblog
■ある夫婦の会話(大阪編)

(妻) 神なんかおらん!て、あんた。信じている人もたくさんおるんやから、そんなこと言うたらあかんのと違う?

(夫) でもおらんモンはおらんのや。

(妻) 何でそう決めつけんの?あんたのその"決めつけ"がいつも気になるんよ。ライブドア株の時も、きっと上がるから今が買いやで!言うから買うたのにあの有り様や。その前は競馬で、この馬ぶっちぎりや!言ってましたけど、その馬コケましたやん。

(夫) アホ、そんな昔の話をほじくり出さんでええ。

(妻) だってあんたが断言すると、条件反射で"危ない"と体が反応しますんや。

(夫) まあ待ちや。今は神の話や。もし神サマみたいなもんがおるんやったら、随分、不公平な神やと思わんか?

(妻) 何でですの?

(夫) おまえ、自分でベッピンやと思うてるやろ?

(妻) はぁ?わたしが美人やとして神サンと何か関係あります?

(夫) 大ありや。その筋の人に言わせると、人間は神に造られたことになってんのや。造物主ともいうやろ。

(妻) 何や"その筋の人"って。信者さんとかほかに言いようがあるやん。

(夫) まあええがな。人間はなあ、幾ら平等が理想ではあっても、現実は不平等だらけや。

(妻) まあそうやなあ。金持ちもいれば貧乏人もおるし。頭がよくてカッコええ人もあれば、あんたみたいな人もおる。

(夫) どういう意味や。

(妻) 出世する人もあれば、倒産したり、災難に遭ったり、いろいろやねえ。

(夫) そうやろ。中でもわしが不公平やと思うのは、男なら能力、女の人なら器量や。隣町のハナコは器量よしやったから、社長の一人息子にもらわれて、今はセレブの仲間入りや。そうかと思うとこの辺のオカンらはどうや。この間のバーゲンの時なんかすごかったで。開店と同時に突進してきた顔。一瞬、闘牛場かと思った。

(妻) そんな失礼やん。

(夫) 文句言うなら、神サンに言うてんか。オカンたちかて言うやろ。『なりとうてなったんやない』って。もし神サンが造ったんなら神サンのせいになるで。

(妻) そら神サマかて、疲れたら手元が狂うこともあるやろ。

(夫) あのなあ、町工場でオッさんが、「あっ!しもた」言うて不良品出すのとちゃうねんで。何ちゅうても神や。

(妻) そらまあ、そうやけど。

(夫) 嫌なことやけど能力や器量は人生を左右する。でもそれ"全部神サマが決めましたんや"で納得できるか?

(妻) うーん……。

(夫) ま、おまえはええ。おまえはええよ。立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花や。君のひとみは10000ボルトで、君は薔薇より美しい。菜の花畠に入日薄れ……。あ、これ関係ないか。

(妻) もう恥ずかしいわ。そんなに褒められたら照れるやん。

(夫) この際や、ハッキリ言わしてもらうで。わしはおまえみたいないい女は、世界中探してもどこにもおらんといつも思うてるのや。

(妻) あ、あ、もうやめて。そんなウソばっかし……。

(夫) わしは真実しか言わん。

(妻) そ、そ、そうやな。あんたは昔からウソのつけん人やった。神サンがいるなら、確かに随分、不公平で罪深い方やという気がしてきたわ。

(夫) な、そうやろ。だからな、人間の運命を左右できる神サンみたいのがおったらおかしいねん。

(妻) フーン、じゃあ人の運命は何によって決まるんです?

(夫) そこや。まかぬタネは生えぬ。まいたタネは必ず生える。自分のやった行為の善し悪しが、未来の自分の運命の善し悪しを造っていく。全部、自分の責任なんや。これに絶対狂いはない、お釈迦さまはそう教えられているんや。

(妻) なんや詳しいんやね。

(夫) 当たり前や。これを因果の道理いうてな、これを信ずる人は、不幸な運命に遭っても恨みのろわず、己の言動を素直に反省し、明るい未来を信じて善いことを全力で行うようになるんや。

(妻) いいことずくめやんか。

(夫) そうや。尊い教えは心を養う。おまえのような器量よしが、心も磨けば鬼に金棒や。な、だから今度一緒に、仏法聞きに行こ。

(妻) まあええけど……。でも、何かうまく乗せられたような気がするのは何でやろ?

(夫) 気のせいやがな。今日の自分が明日を作る。さあ、光に向かって元気出して行くで!

幸福論を読みたがる人

2010-10-16 17:14:31 | Weblog
「幸福とは何か」という近代・現代の膨大な幸福論は、一体、誰のために、何を目指して書かれているのだろう?

 本当に幸福な人は、「幸福とは何か」とは問わないだろうし、真に不幸に喘いでいる人もまた同様である。
 では、一体だれが問うのか?

 それは自分が不幸であることをウスウス感じながら、幸福であるという幻想にしがみつきたい人、ではなかろうかと思われる。

 一見、幸福論とは無縁の、自分の幸福は自分で「決める」と居直る人も、はなはだ欺瞞的である。幸福感は心の持ちようで何とかなるものでもない。やはり、社会的評価にかなり依存しているはずである。

 本当に幸福なら、優しい夫とかわいい子供に囲まれた「幸福な」女性を、あるいは仕事に成功し、社会から認知され、年収何千万という「幸福な」男性を意識しないはずである。無関心でいられるはずである。
 だが実際は、「オレはオレだ」と言いながら、そういう世間的幸福の体現者を、かなり意識しているのではなかろうか。

それは心のどこかに無理がかかっているから、いくら幸福だと言っても、虚勢のように聞こえてしまう。

だれしも変わらない幸福を実感したくて生きているのであるが、それにはまず、真実を誤魔化さず見つめ、かつ受け入れることが大切であろう。それは当たり前のようでいて、実は大変難しいことだと思う。

では真実とは?

真実とは、本来、私たちの都合とは何の関係もないことである。

例えば、だれもが認めざるを得ない真実の一つが、人は遅かれ早かれ皆死ぬということ。

あなたが何をしていようと、あるいは何をしようと思っているにせよ、1万年後、それが何か意味を持っているだろうか?

 残念ながら虚無だ。何の意味もない。その頃にはそもそも地球自体が消滅しているかもしれないのだから。「それを言っちゃあ、おしめえよ」と言われるかもしれないが、特別、悲観的に言っているわけではない。事実を言っているまでだ。

 この巨大で不可避な不幸を前にしては、僕達が言っている幸福も不幸も皆、一瞬にして消し飛んでしまうかに見える。家が建ったと言っても、そう大喜びするほどのことでもないし、火事で焼けたと言っても、そう嘆くほどでもない。もうじき虚無に飲み込まれてしまうのだから。

 この子供でも分かる事実を、皆で見ないように見ないように、本当は価値の無いことを価値があるように騙しあいながら生きていると言っても過言ではないかもしれない。


 そんな幻想、ウソの上に築いた幸福論などいかにも頼りない。でも、凡人の私たちには、それしか分からないのだから仕方ない。それが現代の幸福論の限界というものであろう。

だが、そういう幸福とは異なる時空を超越した幸福が、すでに2600年前、仏教に教えられている。とはいえそれは仏教学者でも知らないでいる。学者たちの書いているものを読めば分かる。観念のお遊戯で、悉く現代の幸福論と同レベルのものに変質している。悲しいことである。


ほしいものは救済

2010-10-15 12:51:05 | Weblog
以前、ここでも紹介した『歎異抄をひらく』(1万年堂出版)
という本が出て以来、それまで毎年10冊以上新刊の出てい
た、『歎異抄』の解説本が激減し、半数以下となったらしい。
その理由を考えてみるに、
『歎異抄をひらく』は、硬派な仏教書としては異例の18万
部という売り上げが示すとおり、『歎異抄』解説の決定版で
あり、これ以上の解説を書ける自信のある人がないのかもし
れない。
読んでいない人には一読をお勧めする。

そもそも『歎異抄』とはどんな本であるか。
親鸞といえば『歎異抄』、『歎異抄』といえば親鸞というく
らい、『歎異抄』は親鸞聖人の入門書として有名である。
『歎異抄』は、いまだ著者不明だが、親鸞聖人の言説をその
まま伝えたものとして、浄土真宗の人のみならず、多くの人
に親しまれ、日本で最も多くの人に読まれた宗教書といわれ
ている。

人気の理由は、一つには短いこと。二つには文章が流麗なこ
と。そして内容が、「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや
悪人をや」という言葉に代表されるように、逆説的な命題に
満ちていて、
「おや?」
とずーっと心に引っかっかる、謎めいた魅力に満ちているこ
とが挙げられる。

そういう表面的なこともあるが、仏教書である以上、そこに
書かれてあるのは、大いなる救済である。そこに多くの人が
何かを感じるからこそ、長く読み継がれているのだと思う。

救済ーー。

私の大学時代は、自分の行っていた学部の関係もあり、親鸞
聖人より、浅田彰や柄谷行人や蓮實重彦などの本の一節でも
覚え、映画、音楽、芸術がらみで、社会や文化を語ることが
カッコいいことに思われ、難しい言葉で他者を批判してみせ
ることが、知性の証であるかのように勘違いした者が、自分
の周りにたくさんいた。
彼ら文化人は確かに頭もよく、カッコよかった。
だが今にして思うに、いや、当時からうすうす感じてはいた
のだが、彼らの話には「救済」というものがなかった。

以前、ここに書いたことでいえば、文化人たちの言説という
のは、太平洋のど真ん中に放り出された人に、カッコいい泳
ぎ方を教えるだけで、どちらに向かって泳げばいいかを教え
たものではなかった。
まあ、そもそもそれを明らかにしようというものでもなかっ
たのである。

とはいえ、あのフランス語を自在に話せる文化人たちの膨大
な知識量、他人の作品を難解な言葉で、容赦なく批判する姿
に、すっかり魅入られてしまった人たちは、自分もあんな風
になりたいと努力していた。

だがそれは、水平線しか見えない海で、ただカッコよく泳ご
うとしている虚しい試みではなかったか?
だとするならば、それは滑稽を通り越し、悲哀ですらある。
彼らは言うだろう。
救済など私には必要ない、と。
だが、このまま海の藻屑と消えるつもりなのだろうか?