静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

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「どう生きる」と廃悪修善

2016-07-17 23:13:02 | Weblog
「どう生きるか」とは、いろんな生き方の選択肢の中で、どれを選ぶかということでもある。
 人間に自由意志がある以上、人生は、絶え間なく私たちに「あれか、これか」の選択を迫る。

 卑近なことでいえば、テレビを見る、見ない、もそうだし、昼食をカレーライスにするか、ラーメンにするかも選択である。しかし、これらはどちらを選んだところで大差はないが、人生には、その後の明暗を分ける重い選択というものがある。
「生きるべきか、死ぬべきか。それが問題だ」。これはシェークスピアのハムレットの台詞だが、ここまでギリギリの選択を迫られる機会は少なくても、職業の選択などは、誰しも経験することであり、将来をかなり左右もする。
 まず働く、働かないで、人生は変わるし、働くにしても、農業をやるのか、商売をやるのか、医者になるのか、芸能をやるのか、どれを選ぶかで、その後の人生は大きく変わるだろう。

 時は逆戻りしない以上、将来を決する重い選択であればあるほど、人は迷う。迷った末にどれかを選ぶわけだが、その時、何を基準に選んでいるのだろう?
 無意識のうちにも、人は善きものと、悪しきものとを区別し、善きものを選び、悪しきものを捨てようとしている。
 だが問題は、何が善きもので、何が悪しきものなのかである。

 迷いの凡夫が、自分の都合で決めた善・悪では、いくら善い選択をしたつもりでも、決してそれは真実の幸福という実を結ばない。
 秀吉が臨終に、「夢の又夢」と人生を歎き、はかなく消えていったのがいい例ではないか。
(つづく)
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「なぜ生きる」の答えがない!?

2016-07-02 10:44:55 | Weblog
今、「なぜ生きる――蓮如上人と吉崎炎上」という映画が各地で上映されています。


映画でも本でも、「なぜ生きる」というタイトルなのに、
「その答えがない」という感想が少なからずあるようです。
どこを見て、あるいは読んで、そんな感想を持つのだろう?と、
こちらが聞きたくなるくらいですが、

恐らく、それらの人たちの頭の中では、
なぜ生きる?
という問いかけが、
あなたは今、自分の望む生き方ができていますか?
今のままの生き方で、本当に「生きた」といえますか?
といった形に変換されたのではないかと思います。
例えば、こんな感じではないでしょうか。
      ■
敷かれたレールの上をただ歩いてはいないか。
親の期待や周囲の評価に縛られ、自分の望まない生き方をしていないか。
主体性を誰かにゆだねてしまった人生は、ただの抜け殻、生きてる意味がない。
だから「なぜ生きる?」とは、
今そんな生き方になっていないか?
それでいいのか?
という問いかけなのだろう。と

他人からどう思われようが、自分の望む通り、自分らしく生きられたら、きっと「いい人生だった」と思えるはず。
生きる意味なんて、生きればあとからいくらでもついてくる。
まず生きよ。あるがままに。自分だけの人生を。

だから、生きる目的とか、生きる意味なんて、他人から与えられるものでもないし、他人から与えられることを期待してもいけない。
最初から「意味」とか「目的」にとらわれると、かえってそこに縛られて身動きできなくなってしまう。自分の心に素直になって、自分の足でこの人生の道を踏みしめていけばいいのだ。
生きる「意味」はそこにある。みたいな……。
      ■
こういう人たちにとっては、「なぜ生きる」の答えとは、
「自分らしい生き方をする」ことになるのでしょう。
そういう生き方の実例、あるいはそのヒントを求めてのことならば、映画を見ても、本を読んでも「何もなかった」という印象を持つのも無理からぬことかもしれません。

しかし、その「自分らしい生き方」というのには、妙に力がこもっておりますが、
水平線に向かって絶望的な泳ぎを続けている人が、
「どう泳げばよいのか、自分らしい泳ぎ方しか考えておりません」
と言っているにほかなりません。
まさに映画のセリフにあるとおり、
「おかしなことではありませんか」
なのですが、
それをそのまま言うと、かつての了顕さんのように
「オレの言っていることは、泳ぎ方なんかじゃない!」
と逆上されそうです。
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「生きる」とは「息をする」

2016-07-01 11:47:22 | Weblog

『日本語語源大辞典』によれば、「生きる」という言葉は、「息をする」からきているそうです。
 永年、助産師をしていた方から聞いたのですが、赤子が羊水に包まれたお母さんのお腹から、外気に触れる外の世界へ出て、まずすることが肺呼吸だそうです。
 これができねば、酸素不足でたちまち命は終わってしまいます。だから赤子は懸命に肺で息をしようとし、助産師はそれを助けます。生まれたての赤子の吸う息、吐く息の一つ一つは、まさに命と触れ合っており、「生きる」行為そのものといえるでしょう。
 めでたく呼吸できるようになった赤子は、今度は呼吸活動を維持するために飲食し、排泄し、成長してからは読み書きを習い、働きもします。人間の営みといっても、根本を言えば「生きるため」「息をするため」に集約されるでしょう。

 さて、人生はしばしば海に例えられ、「生まれる」ことは大海に放り出されることにも例えられます。
 映画『なぜ生きる――蓮與聖人と吉崎炎上』の中で、「泳がなければ沈むだけ。私たちは、一生懸命泳がなければなりません」
と蓮如上人が仰る場面があります。
 ここで「泳ぐ」という行為は、生きることを意味します。交互に手を動かす、そのひとかき、ひとかきは、一息一息、呼吸をする行為にほかならないでしょう。手の動きを止めたらそこで沈むように、息を止めたらそこで死んでしまいます。
息をするのは死にたくないからです。〃自分らしく生きるため〃ではないでしょう。それはずっと枝葉の問題なのです。
 死にたくないから息をしますが、息をしていてもやがて止まるのです。「出る息は入る息を待たず命は終わる」の仏説どおり、それは全ての人の姿です。

 ならばなぜ、人は息が止まるまで息を続けるのか?なぜ息をする?なぜ生きる?映画はその本質を問いかけています。
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