静かな劇場 

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死の恐怖をやわらげる、ただの作り話?

2009-12-04 19:36:42 | Weblog
意志をもった霊魂があるという考え方は、科学的な裏づけはともかく、多くの人が何となく受け入れているものです。

日本においては、死んだ人は宮に鎮座して神になるとか、あの世へ往ってお盆になると帰ってくるというようなことを漠然と信じている人が多いですし、キリスト教国においては、死ねば人は天国に召し抱えられることになっていますから、葬儀といっても、身内以外は妙にカラッとしていて、日本ほどジメジメした印象がありませんでした。

また臨死体験といって、仮死状態から再び生還した人が、その時、自分の体験したことを得々と語る場合があります。ベッドに寝かされている仮死状態の自分の体や、見舞いに来た人たちを、病院の天井から見下ろしていた、などという、俗に幽体離脱などと呼ばれる証言も多く聞かれます。

人は体験話に弱く、こういう話を聞かされたり、自身が体験すると、日頃、科学的精神を尊重する人でもイチコロです。この世には科学で説明できないこともあるのだ、などと言い始めます。

でも普通に考えて、これは変な話ではないでしょうか。
仮に幽体離脱などという現象があるとしましょう。でも、肉体から離脱した幽体(霊魂?)などというものに物が見える能力が備わっているとするならば、そもそも肉体に目がついている必要はないではないか?という素朴な疑問が起きてきます。肉体の目をつぶっても幽体には物が見えていいはずです。

よく「霊と交信した」とか、「先祖の霊があなたの後ろにいる」などという話をする人がありますが、肉体を失っているくせに、霊に物が見えたり、コミュニケーションできること自体、不可解であります。その幽霊にとって、生前の肉体の目や耳は、何のためについていたのでしょう?

仮に霊魂の存在を認めるとして、肉体を失えば、無色、無音、無臭、無味、無感覚の世界にしか生きられないのではないでしょうか。そんな、子孫のあとをノコノコくっついて歩く霊魂などというものは、普通に考えてありえることではありません。前後左右、方角も立たないフラフラの霊魂があっちにも、こっちにもゴロゴロしている世界など、考えたくもない気がします。

さらにそんな霊魂が、肉体に入り込めたとして、どうやって肉体を操縦するのか?
家電製品に電気が通ると動き出すようなもの、といわれる方もありますが、電気というのは純粋に物理現象です。霊魂のような、物理法則に従わない「自由意志」を持つ非物質のものとは本質的に違います。
肉体と霊魂は、科学の原則として噛み合わないのです。

また、死んだ後の世界、〃あの世〃があるとして、それはどこにあるのか?大昔なら、天を指差して済むことだったかもしれませんが、今日の天体観からすれば、ずっと上れば成層圏に突き当たり、さらにそれを超えれば宇宙へ飛び出し、ということになります。科学者からすれば、この3次元空間のどこにそんな〃あの世〃など認められるか。ということでしょう。

大宇宙の起源ともいわれるビッグバーンが云々される現代においては、ますます〃あの世〃の存在は、眉唾物になっています。

結局、霊魂だの、死後の世界だの、という、いわゆる宗教というのは、死の恐怖をやわらげるために考案されてきた、ただの作り話なのだ、というところに話が落ち着くのだと思います。

仏教をそういう宗教と一緒くたにする人がほとんどですが、そんな教えを「外道」と断じ、信じてはならないと教えてきたものが仏教であります。
(つづく)


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