ではなぜ、仏教はこの真実の自己を、そこまで問題にするのでしょうか?
それは、古今東西全ての人の100パーセント確実な未来が「死」だからです。
頓智で知られる一休和尚は、「世の中の娘が嫁と花咲いて、嬶としぼんで婆と散り行く」と歌っています。これは女の人の一生を詠んだものです。女性は誰しも最初は娘で始まり、年頃になると、嫁となってパアッと花咲き、やがてしぼんで嬶といわれ、さらに先へ進むとおばあさんとなります。皆、大体こんなコースを通るのですが、問題はその先です。おばあさんとなったその次はどうか?散っていかねばなりません。では散ったその先はどこへ行くのでしょうか。
これは女の人のことですが、男も似たり寄ったりのコースで、結局、この世を去るのです。それは誰も変えられないことですが、問題は、この世を去ったその先です。
よく死ぬことを、「旅立つ」という言い方をしますが、一体どこへ旅立つのでしょうか。つまり、「死んだらどうなるか?」ということです。
肉体が死ねば、何もかも無になるのなら、死んだ後のことなど考えても仕方ありません。しかし、先ほどから言っているように、本当の「私」というものは、肉体が死んでも終わらないのです。だとすれば、「死んだらどうなるか?」。これは万人が必ず直面させられる人生最大の問題なのです。
ところが人は「今さえよければいい」「死んだら死んだ時だ」といった調子で、「死んだらどうなるか?」そんな大問題があるなど夢にも思わず生きています。それが人生最大の盲点であり、落とし穴ともいえるのです。
東大で宗教学を教えていた岸本秀夫教授は、ガンと闘った10年余りの闘病生活の記録を、『死を見つめる心』という有名な本に残しました。その本の中でこう言っています。
「生命を断ち切られる、それが何を意味するのか。何が問題となるのか。生きている現在においては、自分というものの意識がある。『この私』というものを常に意識して生きている。だが死んだ後、その私はどうなるのか?問題はそこに集中してくる。これが人間にとっての大問題となる」
死ぬことは100パーセント間違いないのですから、その先はどうなるのか?岸本教授の言う通り、これは万人共通の大問題です。ところがそれがさっぱり分からない。まっ暗がりなんです。
旅立つと言っても、そんな真っ暗がりの未知の世界へ、たった一人で旅立つのですから、どの人の心の底にも、得体のしれない不安があります。これを作家の芥川龍之介は、「ぼんやりした不安」と言いました。この不安のために、私は幸せにはなれそうにないと言い、人生に絶望してしまったのです。
芥川も私たちと同じように、満足のいく仕事をして、好きな人と結婚して、気に入った家を買って、いろんな趣味にも挑戦して、幸せな人生を思い描いて生きていたと思います。しかし何をやっていても不安がある。時折、「一体こんなことやって何になるんだろう?」と虚しくもなる。どうしてそういうことになるのかというと、私たちの本心が真っ暗で、安心・満足していないからなんです。
いくら幸せと思える条件をそろえても、行く先がハッキリしないのですから、本心から安心・満足できないのです。
人が死ぬと、葬式で僧侶は「極楽浄土へ旅立たれました」と言いますし、友人代表は「天国で見ていてください」と挨拶します。親は小さな子に、「死んだらお星さまになるんだよ」などと言います。生きている人は想像で何とでも言いますが、今から死んでいく本人は、それで納得はしないと思います。一体、私たちは死ねばどこへ行くのでしょう?
それを知るには、まず自分とはいかなるものなのか?その善悪を明らかに見ることが大切です。私たちの本性が善ならば、極楽とか天国とか、いい所へ行けるかもしれませんが、悪性だったらどうなるのでしょう。答えはこの本心にあります。しかしそれは簡単には分かりませんので、分かるところから自分を見ていきなさいと仏教では教えられます。
そこで自分の姿を見るのに、昔から3枚の鏡があるといわれています。その3枚の鏡というのは、一つは他人という鏡、もう一つは自分という鏡、そして仏という鏡です。それぞれどんな鏡で、そこに自分の姿がどう映るのか、それについては次回お話いたします。
それは、古今東西全ての人の100パーセント確実な未来が「死」だからです。
頓智で知られる一休和尚は、「世の中の娘が嫁と花咲いて、嬶としぼんで婆と散り行く」と歌っています。これは女の人の一生を詠んだものです。女性は誰しも最初は娘で始まり、年頃になると、嫁となってパアッと花咲き、やがてしぼんで嬶といわれ、さらに先へ進むとおばあさんとなります。皆、大体こんなコースを通るのですが、問題はその先です。おばあさんとなったその次はどうか?散っていかねばなりません。では散ったその先はどこへ行くのでしょうか。
これは女の人のことですが、男も似たり寄ったりのコースで、結局、この世を去るのです。それは誰も変えられないことですが、問題は、この世を去ったその先です。
よく死ぬことを、「旅立つ」という言い方をしますが、一体どこへ旅立つのでしょうか。つまり、「死んだらどうなるか?」ということです。
肉体が死ねば、何もかも無になるのなら、死んだ後のことなど考えても仕方ありません。しかし、先ほどから言っているように、本当の「私」というものは、肉体が死んでも終わらないのです。だとすれば、「死んだらどうなるか?」。これは万人が必ず直面させられる人生最大の問題なのです。
ところが人は「今さえよければいい」「死んだら死んだ時だ」といった調子で、「死んだらどうなるか?」そんな大問題があるなど夢にも思わず生きています。それが人生最大の盲点であり、落とし穴ともいえるのです。
東大で宗教学を教えていた岸本秀夫教授は、ガンと闘った10年余りの闘病生活の記録を、『死を見つめる心』という有名な本に残しました。その本の中でこう言っています。
「生命を断ち切られる、それが何を意味するのか。何が問題となるのか。生きている現在においては、自分というものの意識がある。『この私』というものを常に意識して生きている。だが死んだ後、その私はどうなるのか?問題はそこに集中してくる。これが人間にとっての大問題となる」
死ぬことは100パーセント間違いないのですから、その先はどうなるのか?岸本教授の言う通り、これは万人共通の大問題です。ところがそれがさっぱり分からない。まっ暗がりなんです。
旅立つと言っても、そんな真っ暗がりの未知の世界へ、たった一人で旅立つのですから、どの人の心の底にも、得体のしれない不安があります。これを作家の芥川龍之介は、「ぼんやりした不安」と言いました。この不安のために、私は幸せにはなれそうにないと言い、人生に絶望してしまったのです。
芥川も私たちと同じように、満足のいく仕事をして、好きな人と結婚して、気に入った家を買って、いろんな趣味にも挑戦して、幸せな人生を思い描いて生きていたと思います。しかし何をやっていても不安がある。時折、「一体こんなことやって何になるんだろう?」と虚しくもなる。どうしてそういうことになるのかというと、私たちの本心が真っ暗で、安心・満足していないからなんです。
いくら幸せと思える条件をそろえても、行く先がハッキリしないのですから、本心から安心・満足できないのです。
人が死ぬと、葬式で僧侶は「極楽浄土へ旅立たれました」と言いますし、友人代表は「天国で見ていてください」と挨拶します。親は小さな子に、「死んだらお星さまになるんだよ」などと言います。生きている人は想像で何とでも言いますが、今から死んでいく本人は、それで納得はしないと思います。一体、私たちは死ねばどこへ行くのでしょう?
それを知るには、まず自分とはいかなるものなのか?その善悪を明らかに見ることが大切です。私たちの本性が善ならば、極楽とか天国とか、いい所へ行けるかもしれませんが、悪性だったらどうなるのでしょう。答えはこの本心にあります。しかしそれは簡単には分かりませんので、分かるところから自分を見ていきなさいと仏教では教えられます。
そこで自分の姿を見るのに、昔から3枚の鏡があるといわれています。その3枚の鏡というのは、一つは他人という鏡、もう一つは自分という鏡、そして仏という鏡です。それぞれどんな鏡で、そこに自分の姿がどう映るのか、それについては次回お話いたします。