静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

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因果の道理を説くと、救いから遠ざかる??

2009-10-31 19:04:51 | Weblog
因果の道理から当然の結論として廃悪修善を説いていますと、そんなことを教えると仏法の救いから遠ざかると言われる方があります。
では、悪を勧めるのですか?と尋ねると、「そんなことは言っていない。世間法として善を勧めるのは当然」といい、あくまで仏法の救いと善の勧めを切り離して考えているようです。

でも、それは本当に正しいことなのでしょうか?

善因善果 悪因悪果 自因自果と教えられる因果の道理の、因とは私たちの行為のことで、仏教では業(ごう)と言います。私たちのやる善悪の行為(業)が、それぞれ幸不幸という結果をもたらすことは、これまで何度も書いてきました。

ここで業といわれるものに三つあり、これを身口意の三業といわれます。
すなわち身業(体の行為)、口業(言葉を話す)、意業(心で思う)の三つです。

道徳・倫理で重視するのは、身業、口業の二つです。心の中でどんな恐ろしいことを思おうが、それを言葉にしたり、体で実行しない限り、他人に迷惑はかかりませんから、道徳的には問題とされません。
昨日書きましたように、道徳・倫理の目的は、世の中の秩序を保ち、みんな仲良く、ということにあるのですから、心は無視しても支障はないのです。
つまり道徳で勧められる善とは、あくまで身業、口業の範囲に限られてきます。

ところが仏法では、身業、口業ももちろん重要ですが、もっと重く見るのが心の行い(意業)なのです。ここがまず仏法と道徳との大きな違いとよく知っていただきたいと思います。

仏教では心で悪い事を思うことは、悪いことを行ったよりも、はるかに悪いと教えられます。
体や口の悪い行為は繰り返さないようにも出来ますが、悪い考えはすべて悪事を生み出すものです。体や口の悪い行為は他の悪い行為への道を滑りよくするだけですが、悪い考えはこの道へどしどし人を引っぱり込んでゆくものです。

心は火の元の様なものであり、口や身に現れるものは、大空に舞い狂う火の粉の様なものです。大空の火の粉は地上の火の元から舞い上るように、あらゆる行為の火の元である「心」こそが最も怖ろしい。消火の際も火の粉よりも火の元に重点がおかれるのも至極当然です。

にもかかわらず世間では「心」については、ほとんど自由放任で、心中いかなる悪らつ無道を念じ、羞恥すべき醜想をいだいても、そのことが直に社会問題になったり法律の対象とはなってきません。

それをいいことに、私たちは口や体の行為は慎むものの、心では思いたい放題ではないでしょうか。

しかし因果の道理は人に知られる、知られないとに関わらず、普遍する法則ですから、人知れず心に思ったことでも、思えばそれは業となり、善因善果 悪因悪果 自因自果で、それ相応の結果を生じるのです。

故に仏法で勧められる善は、道徳が身業、口業が専らであったのに対し、身口意の三業、しかもその中で心の善悪が最も重視されるということです。

このことが、冒頭の問いかけとどう関わってくるのか、それは次回に譲ります。(つづく)


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道徳の善悪

2009-10-30 18:44:32 | Weblog
仏法だけでなく、道徳や倫理でも善悪を教え、善を勧め悪を戒めます。
そういうところから両者は似通ったものと思われがちですが、実は全く違うものです。

道徳や倫理の目的とは、世の中の秩序を保ち、お互い衝突することなしに仲良く生きていけるように、ということでありましょう。だからその目的にかなう行為が善であり、反する行為は悪とされます。こういう基準で善と悪を分け、善を勧め、悪を戒めるのが道徳、倫理です。
ここから分かるように、道徳も倫理も「生きる」ための手段ということになります。

ということは、生きる目的がなければ、生きるための手段である道徳も倫理も、全く意味をなさなくなってしまうことを示唆しています。

では、道徳や倫理の存在意義を根底で支える、生きる目的とは何なのでしょうか?

その肝心な点が不明瞭では、道徳・倫理はただの形骸と化し、拘束力は失われます。

以前、あるテレビの討論番組で、高校生がボソッと「どうして人を殺してはいけないんですか?」と漏らし、出演者がシーンと静まりかえったことがありましたが、これはそのいい例です。

茨城県では、退屈な毎日に嫌気がさした24歳の男が、通行人をナイフで8人も殺傷し、逮捕後、公判の席で「殺したいから殺しただけ。蚊を殺すのと、人を殺すのとはどこが違うか」とうそぶいたそうですが、この男のように、平気で道徳をひっくり返してみせるその根底には、間違いなく生きる意味の分からぬ深い闇があると思われます。
感情的に、一つの正義感にかられて、その闇を晴らそうと議論に挑めば、底なし沼に引きずり込まれるような事態となりましょう。

仏法を抜きに、前述の高校生に「人を殺してはいけない理由」をきちんと説明できたり、また公然と道徳を踏みつけ、気まぐれで大量殺人を犯す者たちの誤りを、きちんと指摘できる人があれば、聞かせてほしいものです。

仏法では、もちろん人殺しは悪と教えています。
ただ仏法で、善と悪とを分け、善を勧め、悪が戒められるのは、道徳や倫理とは目的が全く異なるのです。
すなわち世の中の秩序を保ち、皆が仲良く生きていけるように、という目的ではないのです。

ではその目的は何なのか?

ここは聞き誤りやすい、大事なところです。詳細はあとに譲りますが、少なくとも道徳・倫理とは全く異なることはよく知っていただきたいと思います。
このように言うのは、釈尊が因果の道理を明らかにされ、そこから廃悪修善を説かれたのと、倫理や道徳で悪を戒め善を勧めることとの区別のついていない人が多いからです。(つづく)
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別に因果の道理を否定しているわけではない?

2009-10-29 20:28:47 | Weblog
別に因果の道理を否定しているわけではない。ただ、因果の道理と言っても、それは一つの考え方に過ぎないのだ、と言われる人があります。

こういうのは、「否定はしていない」と言っているように聞こえますが、明確な因果の道理の否定です。

なぜなら「道理」とは、三世十方を貫くものをいいます。
つまり、過去・現在・未来にわたって(三世)
また、日本でもアメリカでもインドでもどこでも(十方)
変わらないことを「道理」というのです。

「一つの考え方」では普遍性はありませんから、「道理」とは異なります。

ですから、因果の道理を「普遍の真理」と認め受け入れるのか、「普遍の真理」とは認めず聞き流すか、どちらがその人の見解の本質なのか、よく見極めなければなりません。

ここで、その人が仏法者かどうかが分かれるのですから、曖昧にはできないところです。

手を離せば物は下へ落ちるように、熱は高温側から低温側へ伝わるように、一つの動作から、厳粛な物理法則に従った然るべき現象がもたらされます。最初の条件設定を変えない限り、ここに万に一つの例外も起きません。

同様に、善因善果 悪因悪果 自因自果という因果律は、「バレねばよかろう」とか、「何人殺そうと、死ねば全部チャラにできる」とか、すぐ例外を認めようとする私たちの浅薄な考え方など、つけ入る余地もない厳粛なものなのです。

それは私が言っていることではなく、釈尊の教えられていることです。

この釈尊の教説を信ずる人は、自ずと廃悪修善の心となることは、以前、書きました。
しかし、信ずることのできない人は、自ずから廃悪修善とは反対の心となっていくでしょう。そんな廃悪修善の反対では、その人個人の破滅のみならず、社会全体が破滅に向かうのも当然の成り行きというものです。
仏法が廃れ、因果の道理を知る人もない今日、多発する異常犯罪や軽薄な風潮に、破滅の匂いを嗅ぎ取っている人も少なくないと思います。

さて、

生きていく限り、人は常に「あれか、これか」の判断を迫られます。その時、どちらを選ぶか、その判断の根拠としているのがその人の価値観、広い意味での思想というものです。
ですから狂った価値観、狂った思想を持てば、その人は人生の大事な局面において常に判断を誤り、自分で自分の人生を狂わせていくことになります。

因果の道理など真理とはいえない、と公言している人は、それが狂った価値観、狂った思想であるかどうかの明言は避けますが、少なくとも仏説とは無縁の思想の持ち主なのでしょう。それはそれでその人の自由かもしれませんが、そんな人が親鸞聖人や蓮如上人の書かれたものを読んで、正しく判断できるかというと、それは残念ながら「不可」です。

誰の書かれたものであっても、言葉で書かれたものである以上、いろんな解釈が可能となります。
ですから根本的なところで異なった思想を持っている人は、書かれた人の思いとは異なる解釈を、「正しい」と選び取るようになっていきます。それはその人の必然というもので、どうしてもそうなっていきます。だから恐いのです。


「因果の道理など真理とはいえない」という人はもちろんですが、因果の道理をひと通り聞いただけで「それくらいもう分かった。もっと深い教えはないのか」と先走りしたがる人も、「因果の道理などそんなに説くものではない」と非難してくる人も同様です。

そんなに因果の道理の分かった人たちばかりなのでしょうか?
だったら、お釈迦さまが45年間のほとんど、このことを説かれるはずもなかったでしょうに。






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占いや予言と因果の道理

2009-10-28 18:18:22 | Weblog
因果の道理とは、あらゆる結果には必ず原因があるということです。それは自然界の現象のみならず、私たちがいちばん知りたい運命についてもそうであることを、仏教は明らかにしています。

幸福には幸福になる因があり、不幸にも不幸になってしかるべき因が厳然としてあります。しかし、その原因の「分からなさ」が多く迷信の温床となっています。

たとえば手相。
手の皺と人間の運命に何か関係があるのでしょうか?手を握ればだれでも皺はつくし、野球のグローブにだって皺があります。そういうものと人間の運命と、どう関係するというのでしょう?

名前の画数?
漢字をつかわない外国人はどうなるのでしょう。普遍性がないことは一目瞭然です。

星座と運命?。他の星から眺めれば、星の位置関係は変わるのですから、これもまた普遍性のない話です。

墓相が悪いから、ご先祖の祟りがあるなどというのも奇妙な話で、どこに子供や子孫を苦しめてやろうなどと思う先祖がいるのでしょうか?
あなた自身、子供や孫に願うのは幸せであって、先祖だって同じはずです。墓の建て方が悪いくらいで子供や孫を呪ってやろうと思う人間は普通ないでしょう。

大安、仏滅、三隣亡、など日の善悪も、根拠のない滑稽至極な話であります。でも、そんなことを信じて、皆、結婚式は大安吉日にと決めていますが、結果はどうでしょうか?今日の離婚率の増加を見るにつけ、いかに当てにならないものか分かると思います。結婚生活と大安吉日など何の関係もないことは、各家庭で実証済みではありませんか?


科学的精神を尊重するなどといいながら、実生活は迷信にとらわれています。
公共の電波を使って、占い、迷信がじゃんじゃん流されているのが、何よりの証拠です。

これはある意味、オレオレ詐欺より性質が悪い。
詐欺ならば騙された自覚はあるが、これらの占い、迷信の類は、騙されていながら騙された自覚が持てないのです。

そんなの信じていないよ、などと言いながら、それらの迷信に触れると、心のどこかに必ず刻印されて、自分の行動が何らかの形で左右されるものなのです。人というのは。


仏教では、こうした因果関係のデタラメな占いや、「あなたは◎年後、こんな目に遭います」などという、運命を、すでに決定したものとして予言する迷信を、徹底して排斥しています。


人間の運命が何によって決まるのか。
その道理に暗いゆえ、人は常に道に迷う。
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どうして どうして 僕たちは出会ってしまったのだろう

2009-10-27 15:21:08 | Weblog
どうして どうして 僕たちは
出会ってしまったのだろう……

という歌の文句もありましたけれど、それぞれに、喜ばしい出会いもあれば、あんな出会いさえなければ、と悔やまれることもあるでしょう。

その時は、些細な出会いに思えたことが、あとになってそれが重大な意味を持っていた、悲劇を幕開けるトリガー(引き金)だったことに気づくこともあります。

黒澤明監督の映画「白痴」(ドストエフスキー原作)を見たことがあります。

作者が、最も善良な人間を描きたかったと語ったように、この主人公は、虚栄的で立ち回りばかり巧みな人間とは対極の、愚直なほど人を信じ、憐れみの深い人物です。

この主人公が駅前で、ある女性の写真に心を奪われます。その女性は世界を動かすほどの美貌だっただけでなく、悪魔的で、かつこれほど深く心が傷ついている人はいないと思わせる悲しい目をしていました。

やがて2人は出会います。
主人公は写真を見た時からずっと、自分はこの人に呼ばれているように感じたと言い、女性も、ずっと貴方のような人に会いたいと思っていた、ということを告白します。

ですが2人は、生い立ちや立場のあまりの違いゆえ、結ばれることはなく、この女性をめぐっていろんな登場人物が複雑に絡み合い、最後、女は殺され、主人公はその純粋さゆえに壊れていきます。

主人公に肩入れするならば、あんな女さえいなければ、こんなことにはならなかったのに……ということにもなりましょう。でも〃あんな女〃がたとえいても、それだけでは主人公の悲劇は起きなかったのです。

〃あんな女〃に会いさえしなければ、また、会ったにせよ、好きになることがなければ、ただの通りすがりの一人で終わったはずなのです。だから悲劇の幕を開けたいちばんのトリガーは、好きになったということにあるのでしょう。つまり本人には自覚がなくても、悲劇の幕は自分で開けるのです。

ではなんで、悲劇の終幕は十分予想されながら、〃あんな女〃を好きになるのでしょう?
それは本人も分からぬことでしょうが、なるべくしてなる、それがどうにもならない各自の業というものなのです。

リンゴが風に吹かれて木から落ちるのは、それは万有引力の法則ゆえ、質量あるものの定めであります。そくばくの業を持ちける身は、風がリンゴを誘うように、縁と結びつけば因果の法則ゆえ、しからしむところへしからしめられるということです。


最も恐ろしい悲劇の幕を開けるのは、仏法を謗ることといわれます。
その先にどんなに恐ろしい終幕が待つか、おそらくトリガーを引く人に自覚はないでしょうが、ひとたび幕を開けてしまえば、あとは因果のしからしむ通り、惑業苦の車輪が回り出し、誰も代わることはできません。



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因と縁

2009-10-26 17:14:43 | Weblog
三世因果の道理を批判する人は、大概、因と縁をごっちゃにしています。
ですから、因と縁を整理して理解することがまず大切です。そうでないと、仏説にとんだ〃濡れ衣〃を着せることになってしまいます。

では昨日書いた続きです。

非難する人たちは言います。
「生まれながらに、いわれなき社会的差別を受ける人たちを、それも自因自果で本人たちが悪いと言うのでは、あまりにも理不尽で可哀相だ」と。
過去世のことなど誰も覚えていないのだから、今、こんなひどい目に遭わされるのも、あなたの過去世の行いが悪かったせいですよ、などと言われたところで納得はできないし、確めようもない。大体、そんな説明は、支配する体制側に都合のよい理屈で、差別を正当化するものだ、ということなのでしょう。

しかし、「善因善果 悪因悪果 自因自果」と知らされた人は、そんな社会の悪習を黙って耐え忍び、支配層の言いなりになるのではないことは、親鸞聖人の御一生を見れば明らかです。
真実の仏法を攻撃し、布教を禁じ、法然門下を解散させるなど、正義を蹂躙した天皇を始め、当時の権力者たちに、聖人は烈々たる非難の言葉をぶちまけておられます。

多くの人が出世の本懐を遂げるのを、妨げるような悪習、悪思想、社会のシステムは、断固、ぶち破っていかなければならないでしょう。それは因果の道理からいって当然のことです。
未来を作るのは自分の行為なのですから、仏教とはアキラメ主義と全く無縁のものと知っていただきたいと思います。むしろ逆に、不屈の精神で苦しみに立ち向かい、その原因を除去し、幸福を勝ち取る最大限の努力をするのが、三世因果を知らされた人の態度といえます。


なのになぜ、上記のようなアキラメ主義的、悲観的な見方と誤解されるのでしょうか。それは因と縁の区別がついていないから、と考えられます。

例えばここに、社会的な差別に遭って苦しんでいる人がいるとします。
その人にとっては、差別が自分を苦しめているのだから、苦しみの原因はこの差別社会だと考えるでしょう。
その気持ちはよく分かりますが、
よく考えると、差別的な社会の存在だけでは、その人が苦しむことにはなりません。
つまり、それだけでは必要な要因を欠いている。今、自分が苦しんでいることの説明としては不十分なのです。

なぜならば、そこに生まれなければ、その人にとって、今の不幸はなかったはずだからです。

では、なぜその人は、そんなひどい社会に生まれねばならなかったか?そこの人々と関わらねばならなかったか?その原因は何だったのか?ということです。
その因を抜きに、〃私が今、差別に遭って苦しむ〃という結果は生じないのです。
では、その因は何だったのでしょう?

因は果の前にありますから、その因を求めるなら、生まれてくる前に求めざるを得ないでしょう。すべてが社会のせいとは言えないのです。

そこに生まれるべきその人自身の因と、差別社会という悪い縁が結びついて、今、私が差別に苦しむという悪い結果が、その人の上に起きたということです。

なぜ社会に差別が生まれたか、それはその人のせいではないですが、なぜそんな社会に生まれたのか?その原因は自身にあると考えるべきでしょう。だから、その点については、恨むなら自身の行いを恨むよりありません。

すべての結果は因縁和合して起きたもので、因は自身の責任としても、縁はより良いものに変えていけるし、変えていくべきなのは当然です。アキラメル必要などありません。

〃自分を含め、多くの人を不幸にしてきた世の中の悪習、悪思想〃をどう変えていくのか。お互いが出世の本懐を果たすために何をすべきなのか、それは貴方が今から決めればいいことです。

因果の道理を信ずればこそ、浮かんで奢らず、沈んで屈せず、光に向かって堅実な歩みが始まります。どんな苦難に遭おうと、善いタネを心がけていけば、自ずと道は開けてまいります。




こういう話は、何事も、外から眺めようとする観察者、実験者的な態度の人には中々分かりにくいことかもしれません。観察する当の本人が観察対象からスッポリ抜けてしまうからです。自分の身に起きたことを、自分の内から見なければ、分からないことかもしれません。以前、「因果の道理など真理とはいえないことを科学の手法で明らかにした」という人のサイトを読んでそう思いました。

こういう人たちの誤解は、追って詳述したいと思います。

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差別を助長??

2009-10-25 20:25:54 | Weblog
三世因果の道理を否定する人たちの中に、それが差別を是認し、助長したと非難する人があります。おそらく共産主義や部落問題に詳しい人の影響と思いますが、これもまた三世因果に対する〃濡れ衣〃であり、正確に言うならば、誤解された三世因果が差別を助長したと言うべきでしょう。

かつて身分制度のやかましかった時分、日本人は士農工商のどこかにランク分けされ、さらにその下に、人間以下の差別を受ける人々がありました。それらの人々は、「なぜ差別されるのか?それはお前たちの過去世の悪業のせいなのだ」と教え込まれることによって、不当な差別や支配に対する怒りの牙を抜き取られてしまった。そして悲惨な現状を、やむおえぬこととして受け入れる従順な羊のような人間に改悪された……。
これが上記のような三世因果を否定する人の言い分のようです。

いかにも左翼系の人の言いそうなことで、支配からの解放をめざす気持ちは分かりますが……。

だからといって、三世因果の道理が、社会の不平等を固定化し、不幸な人間をより不幸にした、との非難には断じて承服できるものではありません。

なぜか?

今まで読んで来られた方なら、十分、お分かりになると思います。

よく間違われるところではありますが、因果の道理とは、我が身に降りかかる不幸や災難に対し、「それもお前の蒔いたタネなのだからあきらめよ」と勧めるアキラメ主義ではないのです。

苦しみには、苦しみが生ずる原因が必ずあり、その原因を明らかに見て、取り除き、皆が幸せになれる道を切り開きなさい、というのが、因果の道理から導かれる当然の心がけに他なりません。


では、差別ある社会で、不当な差別に苦しんでいる人を、なぜ本人のせいだと教えるのか?
という疑問に答えておこうと思いますが、それはまた次回とします。

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善なのか?悪なのか?

2009-10-24 17:49:18 | Weblog
昨日に続き、
善因善果 悪因悪果というと、「そんなに世の中、簡単にはいかないの。あんたたちは、ただそう言っていればいいだけだから楽でしょうけどね」と言われる人があります。

確かに世の中は、たくさんの利害が錯綜(さくそう)していて、ある人にとっては善いことでも、ある人にとっては甚だ不都合ということがいくらでもあります。
また個人にとってはプラスでも、組織にとってはマイナスということもいくらでもあります。

だから世の中、そう簡単に善だの悪だの決められないの、という言い分ももっともなのですが、それもまた因果の道理の誤解によるものと思われます。


例えばこれは、先日見た映画の話です。
アフリカのある貧困地域で、医療奉仕活動が行われます。無料で薬がもらえるので現地の人に喜ばれるのですが、実はこの一見、人道的活動には裏があり、実態は大資本の製薬会社が、新薬の人体実験にアフリカの貧しい人々を利用しているのでした。
先進国では非難されるからできませんが、アフリカ人ならよかろうということです。
しかも、新薬の発売を急ぐ会社側の都合で、副作用の出た都合の悪いデータはもみ消されていきます。
この秘密を知り、人体実験をやめさせようと立ち向かった女性が、何者かによって惨殺されてしまいます。しかし大資本側が直接、手を下したわけではないので、すべては迷宮入り。映画は、こうして妻を殺された外交官の夫が、文字通り命を懸けて巨悪と戦うというストーリーでした。

アメリカ映画ですから、善と悪がハッキリしていて単純明快な話になっていましたが、よく考えるとそう単純にはいかない話かもしれません。

もちろん、先進国では許されないことでもアフリカならかまわない、というような理屈は通じる道理もありませんが、100人の人体実験の犠牲によって特効薬が完成し、疫病から何万人も救われた、となりますと、その人体実験の是非の判断は非常に微妙となってきます。

こういうところから、「善とか悪とか、そんなに世の中、簡単に決められないの」という意見が出てくるのでしょうが、別に、因果の道理がそういう私たちの現実をとらえ切れていないわけではないのです。

一つの行為に善の要素も悪の要素もあり、その善悪を定義するのは難しいということはあるでしょう。実際、どんな行為にも功罪というものが必ずあります。
ただし、やった行為に相応した結果は必ず現れる、という大原則が揺らぐことはないのです。

つまり、人体実験でいうなら、100人を実験で犠牲にしたなら、当然、その結果は起きるでしょう。しかし同時に、何万人の命を救ったということにも当然、結果は起きるのです。


ですから、善因善果 悪因悪果 自因自果の道理を大原則として、現実生活においては、善悪功罪をよく考えて自分の行為を選択せよ、自分で人生の舵を切れ、ということに他なりません。
それによって起きた如何なる結果も、それは自分で選んだことだから、うまくゆかなくても他を責めるべきではありません。すべては自因自果、自らの責任と受け止めましょう。
順境に奢らず、逆境に卑屈にもならず、覚悟をもって光に向かって進みましょうということになるのです。


因果の道理の誤解については、次回もまた続けます。(つづく)
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正直者が馬鹿をみる?

2009-10-23 19:06:28 | Weblog
善因善果 悪因悪果という話をすると、そんなに世の中うまい具合にはいきませんよ、という反応が返ってくることがあります。それは「正直者が馬鹿をみる」ということも、現実には沢山あるではありませんか、ということなのでしょう。

確かに、偽装表示、偽装建築、衛生管理法違反など不正が発覚し、企業が糾弾された「悪因悪果」の実例もありますが、大概の不正は闇から闇に葬られ、その闇の奥で巨万の富を手にした人たちが存在しています。またオレオレ詐欺に代表されるように、人を騙し、踏みつけにして、羽振りのいい生活をしている者もあります。悪因悪果といわれるが、こういう人たちはどうなるのか?

あるいは下請け工場が、企業側の都合で一方的に受注を切られ、閉鎖に追い込まれてしまうこともあります。そんな目に遭うと、真面目にコツコツ何十年と下請けしてきたのに、「正直者が馬鹿をみた」という気分にもなりましょう。

しかし、考えていただきたいのは、「正直」が善いタネ蒔きとするなら、そこから「馬鹿をみる」という悪い結果が生じるものでしょうか?それでは善因悪果ということになりますが、そんなことは絶対にないと、仏教では教えます。

それが素直にそう思えない。そういうところに、因果の道理の誤解があると思います。

たとえ今生では芽が出なくても、来世できっと芽を出すから、それを信じて正直を貫け!ってことなんでしょ、と、いささか無理やり納得しようとする人もありますが、そんな来世まで持ち出さずとも、正直のタネは、いくらでもこの世で、蒔いた人に現れます。

もちろん「正直」が必ずしも、金持ちになるという結果に結びつくとは限りませんが、「正直」には「正直」に相応した結果が必ずあらわれるものです。

例えば、人から信頼される、敬愛される、という素晴らしい結果は、正直に生きてきた人にのみ、現れてくる結果ではないですか。

騙したり、不正をして巨万の富を築いたとして、一体だれがその人を敬愛し、信頼するでしょうか?
内心、軽蔑しながら、上辺だけ従う、面従腹背の徒に囲まれるようになります。
だからそういう人は、威勢のいい時には人からかつがれますが、一たび勢いを失い、不治の病にでも倒れたりすると、親戚縁者が寄ってたかって、その人の財産をむしり始めます。
悪い奴だと皆知っていますから、遠慮なく、骨の髄までしゃぶってきますが、死に際に、その光景をただ黙って見ているしかありません。自分の葬儀には、ウソ涙を流す者はあっても、誰一人、心から涙を流してくれる人がない有様。それも因果のしからしむところでしょう。金持ちほど孤独であると、よく言われるではありませんか。


正直は、必ずしも金持ちとなる因ではありません。
金持ちになりたいのなら、金持ちになるタネを蒔かねばならないでしょう。
でも、手っ取り早く、悪事に手を染めて儲けようとすれば、たとえ儲かっても因果の道理で、幸せからは遠ざかるでしょう。幸せのタネは、あくまでも善根です。

多くの人は因果の道理を弁えず、金を得ることを幸せと信じ、「バレねばよかろう」という考え方から、悪事を行うようになります。その結果、大金を得るかもしれませんが、その金で身を誤り、お金や物に囲まれながら、苦悩の沼に自ら足を踏み入れるようなことになります。

裕福になれなかったことを、「正直」のせいにするのは、「正直」に対する濡れ衣です。正直には正直の結果がきます。

繰り返すようですが、金持ちになりたいなら、金持ちになるタネまきを一生懸命するしかありませんが、幸せになりたいのなら、不正をせず、正直に生きるべきでしょう。
それが本当かどうか、ご自身の人生で確めていただくしかありませんが。(つづく)









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川上未映子 ヘヴン

2009-10-22 15:50:54 | Weblog
因果の道理だけを説いていては、親鸞聖人の教えにはなりませんが、因果の道理が分からずに、どうして三世の存在が分かるでしょう。
三世の存在が受け入れられないのに、どうして後生(死後)が我が身の問題となりましょう。
「未来の果を知らんと欲すれば現在の因を見よ」と釈尊は教導されていますが、後生が我が身の問題とならぬのに、どうして現在の自己に目が向くでしょう。
因果の道理の結論は廃悪修善ですが、その廃悪修善の教えをおろそかにして、どうして自己の姿が分かるのでしょうか?

三世を認められず、後生が我が身の問題とならず、現在の自己に目を向けることも、廃悪修善の教えもおろそかにして、それでいて親鸞聖人の教えが「私の聞かねばならぬ大切な教え」とは、分かる道理もないことです。

ですから、因果の道理など真理ではない、ただの思い込みだと公言しながら、親鸞聖人の教えを云々する人は、根本に親鸞聖人の教えを誤解していると思います。

さて、

因果の道理は真理ではなく、ただの思い込みというのが正しいとするなら、世の中はどうなるか、考えてみてはどうでしょうか。

一つ、参考例として、最近話題の川上未映子の『ヘブン』という小説を紹介しておきましょう。

ここには混迷する善悪の問題が、かなり高度な形で凝縮されています。
神のような絶対者を信じているコジマという少女と、ニヒリズムを極端に突き詰めたような百瀬という少年との間で、主人公の「僕」は揺れ動きます。

◆     ◆      ◆

「わたしたちは仲間です」。
ある日、14歳の「僕」に届いた1枚のメモ。クラスの男子生徒から、毎日いじめられている「僕」にそのメモを送ったのは、クラスメートの女子生徒「コジマ」だった。
同じくいじめに遭っていたコジマと「僕」はやがて恋愛とも友情ともいえない絆で結ばれる。
コジマは、どんな苦しみにも意味がある、と言う。その意味とは、ここではないどこかに、神聖な世界がきっとあって、だからこそ人は生きている。どんな苦しみも乗り越える意味がある、というようなことを言う。
ただひたすら、いじめ抜かれて、悲惨で、残酷でしかなかった「僕」の日常が、耐えるだけの意味あるものに思え、何か明るい輝きが差し込み始める。

ところが、病院で出会ったいじめグループの一人、百瀬との話し合いで、「僕」のその思いは完全否定されてしまう。百瀬は言う。この世界に意味なんてものは何も無い。だからいじめなど意味が無いし、耐えることにも意味がない。
だったらいじめるのをやめろ、と「僕」が抗議すると、意味があるからいじめているわけではない。あるのは「やりたい」という衝動、あるいはムードみたいなものでしかないと言う。「僕」は、自分の斜視が原因でいじめられているとばかり思っていたが、百瀬はそんな理由さえない、と言う。理由の無い、無意味なただの暴力だという。

「理由も無いのに、日常的に暴力をふるわれて僕は迷惑している。それが暴力をふるってはならない十分な理由ではないか」というようなことを言うと、そう思うのは100パーセントお前の勝手だが、いじめたいと思うのも、100パーセントこちらの勝手だ。自分が思えば、思ったとおりに現実の方からは変わってくれると思っているのか?と反対になじられる。

「自分が、されたら嫌だと思うことは、他人にもしてはいけない」などというのは、とんだウソッパチだと百瀬は言う。世の中は皆、自分がされたら嫌だと思うことを、平気で人にさせている、と言って、世の中のいろいろの矛盾を例に出す。そして百瀬は、「それでいいと思う」と言う。自分の身は自分で守るしかない。

この世の無意味に耐え切れない弱い人間が、ありもしない神やら天国やらをでっち上げる。現実を変える力が自分になかっただけなのに、悲惨な人生を、これには価値があるんだ、意味があるんだと自ら慰めている。
この世のすべてに意味なんかないのだから、究極的には善も悪もなく、すべては許されている。

こういう百瀬の言葉に、「僕」は反発しながらも、心のどこかで、その通りだとも思ってしまう。

そして物語はやがて衝撃的なラストを迎える。

◆     ◆      ◆

これは、いじめを物語の中心にすえながら、学校のあり方や、いじめをどうこう言う作品ではありません。
だから最後は、復讐でも和解でもない。
ハッピーエンドではもちろんないし、ビターエンドとも言えない。
因果の道理を知らなければ、とことん踏み迷う善悪の問題が、むき出しに提起されているのです。


善因善果、悪因悪果、自因自果なんて、経験則として、確率的に、ある程度そういうことが言えるというだけであって、仏教なんて信じなくっても、社会人としての常識があればそれで十分、といった、不徹底な言い分では、百瀬のような鋭利なニヒリストを前に、完全に論破されてしまうでしょう。
(つづく)

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因果の道理など真理ではないと信ずる人とは

2009-10-21 19:38:25 | Weblog
親鸞聖人の教えを伝えている人に向かって、それは「間違った教え」だと非難できるのは、正しい親鸞聖人の教えを知っている人のはずです。
もちろん正しい教えを知らなくても「断言」はできますが、そんな「断言」では無責任と言われるだけでしょう。

さて、親鸞会の伝えていることを「間違った教え」と断言している人の中に、因果の道理など真理ではない、と公言している人がいるようです。でも、そんな人に、果たして親鸞聖人の教えが分かるものでしょうか?

親鸞聖人の教えをよく知る人なら、「分かるはずがない」と答えるでしょう。
なぜなら因果の道理は仏教の根幹であり、親鸞聖人のみ教えは、仏教の精粋だからです。
他人に向かって「間違った教え」と言い出す前に、ご自身がまず、よく仏教の勉強をしてかかることです。

今までも縷々述べてきましたが、前々回、『大無量寿経』から引用しました。
「善い行いをすれば善い報いが得られるということを信ぜず、人が死ねば次の世に生まれ、恵みを施せば福が得られるということをも信ぜず、善悪因果の道理も全く信じないで、むしろそのようなことはないと言い張り、最後までこれを認めないで頑張っている」
まさにその通りということなのでしょう。


さて、

「因果の道理を真理」と信じている人と、

「因果の道理など真理ではない」と信じている人とでは、

考え方は180度変わります。信じていることが変われば、それに応じて生き方も変わるのも当然です。

「因果の道理は真理」だと信ずる人とは、

「蒔いた種は必ず生える。蒔かぬ種は絶対生えない」

と信じている人です。

どんな種からどんな結果が出てくるか。

因と果の関係を釈尊は、善因善果、悪因悪果、自因自果と教えられています。

だから、この善因善果、悪因悪果、自因自果を真理と信ずる人は、廃悪修善(悪を恐れ、善に向かう)の心となります。

なぜそうなるのか?

だれしも悪果(苦しみ)を恐れる。だから悪果があらわれる悪因(悪い行為)を恐れる。

これが廃悪の心。

誰しも善果(幸福)がほしい。だから善果があらわれる善因を欲しがる。

これが修善の心。

善因善果、悪因悪果、自因自果に狂いはないと深く信ずるほど、廃悪修善の心は強くなるのは当然です。善果に奢らず、悪果に自己を懺悔して、一層、光に向かおうという態度となってきます。

因果の道理を信じてこその「廃悪修善」なのです。


一方、「因果の道理など真理ではない」と信ずる人々は、ではどんなことを信じているのでしょう? 

蒔いた種は、必ずしも生えない。

蒔かぬ種も時として現れる。

善因が善果を生むとは限らない。

悪因が悪果を生むとは限らない。

自分の蒔いた種が自分に結果をもたらすとも限らない。

そういうことを信じている人ということになりましょう。


因果の道理を否定するのなら、悪をやめ、善を勧める根拠をどこに求めるのでしょうか。

「善い種を蒔いても、善い結果が来るとは限らない。でも善いことをしましょう」で通じるのか?

「悪いことをしても、悪い結果が返ってくるとは限らない。でも悪いことはやめましょう」で納得できるものなのか?

「自分のやったことが、自分に返るわけではないけれど、一生懸命努力しましょう」と言われて、努力する気になるのだろうか?


因果の道理を否定しておきながら、人に善を勧め、悪を戒める人があるとすれば、その人の頭の中に、何の混乱も生じないものでしょうか?

それとも因果の道理を否定する以上、善を勧める気も、悪を戒める気もないのでしょうか?だとすれば、それこそ世の中を害する危険な思想です。


いちいち仏教を持ち出さなくても、善因善果、悪因悪果、自因自果なんてことは、経験則として、確率的に正しいと誰でも分かってますよ、だから善を勧め、悪を戒める、そんなこと社会人として当ったり前でしょ。

というような調子の人もいます。

社会人として当たり前?

そんな単純な話ではない事を、次回、書きたいと思います。(つづく)


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行為がなぜ運命を

2009-10-20 17:59:59 | Weblog
それでは因果の道理について話を続けましょう。


どうして私たちの行為が、自分の運命を生み出すのでしょうか。

行為のことを、仏教では業といいます。私たちのやった行為は、業力(ごうりき)という目に見えない力となって残り、なくなることはありません。

これを業力不滅といいます。

その不滅の業力はすべて、阿頼耶識(あらやしき)という本心に蓄えられると仏教では教えられます。

阿頼耶(あらや)とは昔のインドの言葉で「蔵」のこと。
識は心ですから、阿頼耶識とは蔵の心といえます。
この阿頼耶識に、私たちが日々造り続けている無量の業力が蓄えられていくと教えられています。

だから、人が見ている、見ていないにかかわらず、やった行為は、業力となって残り、いずれ善悪相応の結果をその人に引き起こします。

一般的に見られる、見つかりさえしなければいい、バレねばよかろうという考え方は、因果の道理を知らない皮相な見方で、そうは問屋がおろしません。

諺に「天網恢恢(てんもうかいかい)疎にして漏らさず」といいます。
天が張りめぐらした網は、広大で目は粗いようだが、悪事を働いた者を取り逃がすことは無い、ということです。

これも中国の格言ですが、「紙包不住火」というのもあります。火は紙で包むことができない。包み隠したつもりでも、やがて燃えて出てきてしまう。悪業は覆い隠せないことを例えたものです。

釈尊は、「新しい乳がすぐには固まらないように、悪い行為もすぐには結果をあらわさないが、灰に覆われた火のごとく、隠れて燃えつつ、その人に随う」と説かれています。


次に、我々の行為には、身、口、意の三業があります。
体の行いが身業。言葉を話すのが口業、心でいろいろを思うのを意業といいます。

法律や道徳では、体と口の行いを問題にしますが、仏法では心を最も重視します。
なぜなら、体で何かを行い、口で何かを言う、といいましてもそれを命じたのはすべて心だからです。

心はあらゆる行為のもとです。

ですから心で日々思うことが、自分の運命を大きく左右していることを知らねばなりません。

業力は目には見えません。

こういう歌があります。
「年毎に 咲くや吉野の 山桜 木を割りてみよ 花のありかは」
春になると、山全体が満開の桜となる奈良県の吉野山も、冬には、枯れ木のような木々が林立するばかり。一体どこに花びらを隠しているのだろうといぶかって、木を一分刻みにしても、桜の花は見つかりません。

しかし、木の中に蓄えられている、目に見えない勢力が、春の陽気という縁(※因が結果となるのに必要な条件)と結びついた時、因縁和合して、満開の花を現すのです。

同じように、業力も目には見えませんが、縁が来れば確実に、目に見える形で、善因には善果、悪因には悪果、おのおのの結果を現わします。

釈尊は、業力は大象百頭に勝ると教えられています。何ものをもってしても止められぬ強い力なのです。

皆様もよく、運命の出会いとか言うではありませんか。

悲惨な事故現場にちょうど居合わして大怪我したのも、予定した飛行機をキャンセルしたら、その飛行機が墜落して九死に一生を得たのも、白馬の王子様のような男性と巡り会ったのも、反対にDVの夫と出会ったがために、一生を棒に振るのも、
いい出会いも、悪い出会いも、それはなぜ起きたのでしょう。

仏教ではここに三世因果の道理を説き、すべては自分の造った業のしからしむところと教えられています。

自分の運命に責任を負うのは、100パーセント自分ということです。

嫌な目に遭わされた時、だれか他人のせいにした方が楽に思えますが、それは長い目で見れば、余計に自分を苦しめる結果になります。それについてはまた次回
(つづく)
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休憩

2009-10-19 18:25:00 | Weblog
因果の道理についてはまだまだ話が続きますので、このへんで幕間の出し物でも入れ、少しリラックスしていただきましょう。



■N氏のお悩み
      
「N部長からも、励ましの言葉を頂き……」
     
プレゼンターの言葉に、一瞬、会議の席が凍りついた。
何か悪いこと言ったのだろうか?……

どうやら「励まし」の「はげ」に、N部長が敏感に
反応したものらしい。

ここ数年、N部長は、完全に後退した頭髪を相当気に病んでいるとの噂があった。
両耳の上の残存勢力のおかげで、かろうじて〃やかん頭〃は免れているが、全軍撤退はもはや時間の問題と思われた。


そういえば、同僚のKによれば、N氏の部署では最近、「はげ」とつく言葉や、連想させるものは、一切タブーになっているとのことだった。
この会議でN氏の機嫌を損ねたら、折角のプランはご破算となる。
ここは慎重にいきたいところなのだ。

だが何も知らないプレゼンターは、こちらの気も知らず、遠慮なく「はげ」を言いまくっている。

「……業界では、価格競争がハゲしさを増し……」
(ああ、また言ってる)
「ハケン社員の契約打ち切りということも……」
(おお、ニアミスだ)
「わが課だけが、抜け駆けするのではなく、全社一丸となって……」
(ああバカ、抜けるだなんて……)
「ライバル社と正面対決となりますから、当然こちらも怪我なしというわけにはまいりませんが」
(毛がなし!やめてぇぇ~)

N部長の目付きがどんどん険しくなっていく。
10分間の休憩が入った。
事態を察したスタッフたちがその場の空気を変えようとやっきになっている。

N部長にお茶を出そうと、女子社員に、「そこのやかん取って」と声をかけた途端、
N氏の鋭い視線がこちらに飛んだ。あわわわわ危ない。
〃やかん〃はだめだ、ええ、じゃあ何て言えばいいんだ。
そうだ、英語でいこう。えーとやかんは英語で何だっけ。

そう、ケトル。

「そこのケトル」
毛取る!!!最悪じゃないか!

あわてて自分でやかんを取りに行って、思い切りすべった。

「あっ滑った!」

滑るはまずい。まずいんだ。滑ったのではない。転んだんだ。
駆け寄った女子社員が言った。

「この床、ツルツルですものね」

フォローになってない!余計なこと言うな!

「窓を開けろ!空気を換えろ!早く」
「じゃあブラインド上げますね。あっまぶしい」
うわー!まぶしいはないだろ。なんでまぶしい?

横目で盗み見したN氏の額には、血管が浮き上がっている。
ああ、もう5段階でレベル4くらいか、爆発寸前だあ!

その時、後ろのテレビから、明るい女性のの声が聞こえた。

「ハゲだっつーの」

ああ……、もうだめだ。
なんてこと言ってくれるんだ、と振り向いた私の目に飛び込んだのは、

「ハーゲンダッツ」のアイスクリームのCMだった。
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大無量寿経 三毒訓戒

2009-10-18 15:13:13 | Weblog
嫌なことがあると他人をうらみ、世の中を呪い、あるいは、勝るをねたみ、嫉妬する因果の道理に暗い愚かな心を、仏教で愚痴といいます。

その愚痴の苦をあげ、これを戒められる『大無量寿経』の三毒段を紹介しておきます。原文のままでは難しいので、現代語に訳したものにしました。
(引用:『浄土三部経の意訳と解説』高木昭良)


 このような世の人たちは、善い行いをすれば善い報いが得られるということを信ぜず、人が死ねば次の世に生まれ変わり、恵みを施せば福が得られるということをも信ぜず、善悪因果の道理も全く信じないで、むしろそのようなことはないと言い張り、最後までこれを認めないで頑張っている。

 こういう見解にとどまっているので、子孫も代々これを見習い、先祖と同じように因果の道理を信じないで、親たちの間違った考えを次から次へと受け継いでゆくのである。もともと先人も祖父も、善を修めることもなく、また道徳の教えもわきまえないので、心も狭く智慧も開けていないから、生死善悪の道理を見極めることもできず、またそれを言って聞かせるという人さえもいない。

 そして各自がそれぞれ吉凶禍福をまねいていながら、だれ一人としてそれを不審と思っている者さえいないのである。

 まことに生死の道理は不変であって、あるいは親が子に別れて泣き、あるいは子が親を失って泣き、兄弟・夫婦もたがいに死に別れて泣きあっている。逆縁、順縁うちつづく世のありさまが、まさに無常の道理である。すべてははかなく消え去るもので、生命はいつまでも保つことができない。この道理をいかに説き聞かせても、一向にこれを信じようともせず、そのためいつまでも生死を輪廻し、とどまることさえもできないのである。

 このような人は、心が愚かで道理に暗いため、経法をも信ぜず、将来のことをまったく考えず、ただ目前の楽しみばかり貪っている。すなわまち愛欲にまどい、道徳もわきまえず、怒り狂って、物欲と色欲を貪ることはまさに狼のようである。このため道を得ることができず、再び三悪道に沈んで、生死流転は限りがない。まことに痛ましいきわみである。

 一家のうちで親子・兄弟・夫婦など、ある者が死に、ある者が生き残りなどすると、たがいに相悲しみ、恩愛の情にしばられ、憂いのために胸はふさがり、愛着のために心を痛め、互いに情けを交わしあうのである。

 日は過ぎ、年は改まっても、その悲しみの解ける時とてはなく、道を説き聞かせても、心の開く時がない。かつての情にほだされて、いつまでもその執着にとらわれている。心が暗く閉じ込められ、愚かな惑いにおおわれているので、深く思いをめぐらし、心を自ら正しくし、仏道を精進して世事を思い切ろうという決意もおこらない。

 こうしてうろうろしているうちに一生も過ぎ、いよいよ命が終わろうとする時、あわてて道を求めようとしても、今さらどうすることもできないのである。

 すべて世は濁り、人の心も愛欲に満ちているので、道に惑う者が多く、これを悟る者はまことに少ない。世間のものはすべてあわただしく、何一つとして頼りになるものはない。それにもかかわらず、尊い人も卑しい人も、地位の高い者も低い者も、富める者も貧しい者も、生計のためにつとめ苦しみ、欲のために害心を抱き、悪心がむらむらと起こって、血を見るような惨事を招こうとする。天地の道理に背いて、人倫の心に従わないのである。

 このような人は、前世の罪業によって、自然と悪縁をまねき、さらに思いにまかせて悪を行うから、とうとうその罪が重なって、決まった寿命のつきないうちに、たちまち生命を奪われて悪道に堕ち、生々世々と苦しみ境界を経めぐり、数千億劫という長い間、浮かび出ることもできないのである。その痛ましさは、とても言葉などでは言い表せるものではない。まことに哀れむべきことである。
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三世因果 セミの知恵

2009-10-17 17:47:15 | Weblog
善因善果 悪因悪果 自因自果 という因果の道理を真に理解されたなら、それは現世のみならず、三世に広がることもまた了解されうることでしょう。

しかし、因果の道理をひと通り耳で聞いて合点し、大体、確率的にそういうことも言えるでしょうくらいの理解ですませてはいないでしょうか。
だから、もっと深い教えはないのか、と先を急ぎ、お聖教の難解な御文の海に溺れてしまう人も出てくるのです。

親鸞会を非難している人の大半はそうだと思います。
でもそれは他人事ではまったくないのです。
だからこそお互いに、因果の道理の理解を、堅実に深めていきましょうと思ってこれを書いています。


さて、こういう話があります。

 同じ木の梅の実でありながら、大きいのやら小さいの、
丸いものやら凹んだもの、みんな形がちがっている。

"納得できぬ"と、セミが不審がる。

"六月頃、地中から這い出して、夏のことしか知らないが、
お前が地中にいた春という季節には、この木に白い花が
一杯だった。
 蜂や蝶が飛んできて、荒された花は小さな実となり、
荒されなかった花は大きな実となったのだ"

"そんな馬鹿な!"

いくら説いても、セミの知恵には無駄だった。



私といっても、肉体のこととしか思えない私たちには、三世因果ということが感覚的に理解できず、すべては己が蒔いたタネと言われることに、何か不条理で、理不尽なものを感じてしまうことがあります。
しかしそれは、私が「私」というものを誤認したところから生じた謬見(びゅうけん)ともいえるのです。

「私」とは何か?
これは古来から謎とされてきました。
常識的には、この肉体を指して「私」と言い、それで特に問題はないのですが、突き詰めて考えると、その信念も実は根拠があいまいで、よく分からなくなってくるものなのです。

私とは肉体のことではなく、かといって、肉体に宿った何か、でもありません。
(それについては、だいぶ後になると思いますが、詳述したいと考えています)

本当の「私」とは、肉体が生ずる前も、肉体の滅したあとも存在します。
それはあたかも、大河の水面に泡がポッと生じ、しばらく流れたのち、忽然と消えていきますが、泡の消滅とは関係なく、大河の流れは一貫しているようなものです。我々の生命も肉体の消滅とかかわりなく、悠久の過去から永遠の未来へ続く不滅のもの、と仏教では教えられています。

因果の道理は、この三世(過去世・現在世・未来世)を貫く永遠の生命の上に説かれていますから、三世因果の道理といわれるのですが、これを「納得できない」と言い張る人は、例えて言えば、上記のセミのような人だということです。

(つづく)
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