静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

心を重視

2009-12-28 19:03:09 | Weblog
仏教では、心で悪い事を思うことは、悪いことを行ったよりも
もっと悪いと教えられます。

なぜなら、悪い考えは、すべての悪事を生み出していくから
です。
悪い行為は他の悪い行為への道を滑りよくするだけですが、
悪い考えは、この道へどしどし人を引っぱり込んでゆく。
そういう強い力を持つのです。
「思い」も一つの業なのですから。

例えば、スピード違反、脱税や贈収賄、覚醒剤所持、酒乱
などといった悪い行い自体は、二度とやるまいと決心して、
悪縁から遠ざかれば、止めることも可能でしょう。

でも、悪い思いは、二度と起こすまいと誓っても、なかなか
思い切れないものです。やらないだけで、心の中でブスブス
種火のように燃え続ける。そこへ一枚の紙でも落ちれば、たち
どころにボオッと燃え上がる。

さるべき業縁の催せば、如何なる振舞いもすべし、といわれる
とおりです。

心は火の元であり、口や身に現れるものは
大空に舞い狂う火の粉のようなものです。
大空の火の粉は地上の火の元から舞い上るのですから
火の元の心こそ最も怖ろしい。


にもかかわらず世間ではその心については殆ど自由放任で、
心の中、如何なる悪辣非道を思い、羞恥すべき妄想をいだいた
としても、そのことが直に社会問題になったり処罰の対象とは
なりません。

しかし、よく考えてみると今日、新聞や、ラジオが報道する事件は、心を火の元とする火の粉のホンの一部にすぎないわけです。
所詮は身や口にあらわれる火の粉しか取り締ることの出来ない
悲しき人間の限界でもありましょう。

「石川や浜の真砂は絶ゆるとも、世に盗人の種はつきまじ」
稀代の怪盗の辞世です。


原担山といえば明治時代の禅門の偉傑といわれた僧。

ある時、一人の僧と諸国行脚中、小川にさしかかると、
連日の雨で、川の水が氾濫していた。
たまたま二人より先に来ていた一人の妙齢の娘が、とても
飛び超えられないのでモジモジしていた。

それを眺めた担山、
「どれどれ私が渡してあげよう」
と娘を抱いて渡してやった。
途方に暮れていた娘は顔を赤らめ漸く川を渡った。

ところが連れの僧は禅僧の身が仮にも女を抱くとは怪しからん
とでも思ったのか、ものも言わずに、さっさと歩いていった。
夕暮れになったので担山が、
「どこかで泊ることにしよう」
と言うと、その僧は、
「女人を抱いたような生臭坊主との同宿はごめん蒙る」
と苦い顔をした。
担山カラカラと大笑して
「なんだお前はまだあの女を抱いていたのか、わしは川を渡した時に、
もう放してしまったよ」

朗らかな反撃に相手は返す言葉がなかったという。

心を重視する仏意を喝破して興味深い話ではありませんか。