仏教では、心で悪い事を思うことは、悪いことを行ったよりも
もっと悪いと教えられます。
なぜなら、悪い考えは、すべての悪事を生み出していくから
です。
悪い行為は他の悪い行為への道を滑りよくするだけですが、
悪い考えは、この道へどしどし人を引っぱり込んでゆく。
そういう強い力を持つのです。
「思い」も一つの業なのですから。
例えば、スピード違反、脱税や贈収賄、覚醒剤所持、酒乱
などといった悪い行い自体は、二度とやるまいと決心して、
悪縁から遠ざかれば、止めることも可能でしょう。
でも、悪い思いは、二度と起こすまいと誓っても、なかなか
思い切れないものです。やらないだけで、心の中でブスブス
種火のように燃え続ける。そこへ一枚の紙でも落ちれば、たち
どころにボオッと燃え上がる。
さるべき業縁の催せば、如何なる振舞いもすべし、といわれる
とおりです。
心は火の元であり、口や身に現れるものは
大空に舞い狂う火の粉のようなものです。
大空の火の粉は地上の火の元から舞い上るのですから
火の元の心こそ最も怖ろしい。
にもかかわらず世間ではその心については殆ど自由放任で、
心の中、如何なる悪辣非道を思い、羞恥すべき妄想をいだいた
としても、そのことが直に社会問題になったり処罰の対象とは
なりません。
しかし、よく考えてみると今日、新聞や、ラジオが報道する事件は、心を火の元とする火の粉のホンの一部にすぎないわけです。
所詮は身や口にあらわれる火の粉しか取り締ることの出来ない
悲しき人間の限界でもありましょう。
「石川や浜の真砂は絶ゆるとも、世に盗人の種はつきまじ」
稀代の怪盗の辞世です。
原担山といえば明治時代の禅門の偉傑といわれた僧。
ある時、一人の僧と諸国行脚中、小川にさしかかると、
連日の雨で、川の水が氾濫していた。
たまたま二人より先に来ていた一人の妙齢の娘が、とても
飛び超えられないのでモジモジしていた。
それを眺めた担山、
「どれどれ私が渡してあげよう」
と娘を抱いて渡してやった。
途方に暮れていた娘は顔を赤らめ漸く川を渡った。
ところが連れの僧は禅僧の身が仮にも女を抱くとは怪しからん
とでも思ったのか、ものも言わずに、さっさと歩いていった。
夕暮れになったので担山が、
「どこかで泊ることにしよう」
と言うと、その僧は、
「女人を抱いたような生臭坊主との同宿はごめん蒙る」
と苦い顔をした。
担山カラカラと大笑して
「なんだお前はまだあの女を抱いていたのか、わしは川を渡した時に、
もう放してしまったよ」
朗らかな反撃に相手は返す言葉がなかったという。
心を重視する仏意を喝破して興味深い話ではありませんか。
もっと悪いと教えられます。
なぜなら、悪い考えは、すべての悪事を生み出していくから
です。
悪い行為は他の悪い行為への道を滑りよくするだけですが、
悪い考えは、この道へどしどし人を引っぱり込んでゆく。
そういう強い力を持つのです。
「思い」も一つの業なのですから。
例えば、スピード違反、脱税や贈収賄、覚醒剤所持、酒乱
などといった悪い行い自体は、二度とやるまいと決心して、
悪縁から遠ざかれば、止めることも可能でしょう。
でも、悪い思いは、二度と起こすまいと誓っても、なかなか
思い切れないものです。やらないだけで、心の中でブスブス
種火のように燃え続ける。そこへ一枚の紙でも落ちれば、たち
どころにボオッと燃え上がる。
さるべき業縁の催せば、如何なる振舞いもすべし、といわれる
とおりです。
心は火の元であり、口や身に現れるものは
大空に舞い狂う火の粉のようなものです。
大空の火の粉は地上の火の元から舞い上るのですから
火の元の心こそ最も怖ろしい。
にもかかわらず世間ではその心については殆ど自由放任で、
心の中、如何なる悪辣非道を思い、羞恥すべき妄想をいだいた
としても、そのことが直に社会問題になったり処罰の対象とは
なりません。
しかし、よく考えてみると今日、新聞や、ラジオが報道する事件は、心を火の元とする火の粉のホンの一部にすぎないわけです。
所詮は身や口にあらわれる火の粉しか取り締ることの出来ない
悲しき人間の限界でもありましょう。
「石川や浜の真砂は絶ゆるとも、世に盗人の種はつきまじ」
稀代の怪盗の辞世です。
原担山といえば明治時代の禅門の偉傑といわれた僧。
ある時、一人の僧と諸国行脚中、小川にさしかかると、
連日の雨で、川の水が氾濫していた。
たまたま二人より先に来ていた一人の妙齢の娘が、とても
飛び超えられないのでモジモジしていた。
それを眺めた担山、
「どれどれ私が渡してあげよう」
と娘を抱いて渡してやった。
途方に暮れていた娘は顔を赤らめ漸く川を渡った。
ところが連れの僧は禅僧の身が仮にも女を抱くとは怪しからん
とでも思ったのか、ものも言わずに、さっさと歩いていった。
夕暮れになったので担山が、
「どこかで泊ることにしよう」
と言うと、その僧は、
「女人を抱いたような生臭坊主との同宿はごめん蒙る」
と苦い顔をした。
担山カラカラと大笑して
「なんだお前はまだあの女を抱いていたのか、わしは川を渡した時に、
もう放してしまったよ」
朗らかな反撃に相手は返す言葉がなかったという。
心を重視する仏意を喝破して興味深い話ではありませんか。