静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

唯物論への疑問(6) クオリア

2009-11-30 20:05:12 | Weblog
クオリアとは、つまり、目の前にある赤い林檎を見たときに私の意識にありありと現れる林檎の赤さ、のような質感(本人の内面的な体験)のことです。

人間の脳は、どれほど精緻に観察しても、そこにあるのは物質の化学反応にほかなりません。そこからどうやってクオリアが生ずるのか?

この「クオリアの起源 」という問題は、1990年頃、哲学者デイヴィッド・チャーマーズにより提起され、「人間の意識なんて、脳という機械の産物であり、この機械の仕組みを解明すれば、人間の意識の起源も解き明かされる」と楽観的に考えていた脳科学者、物質主義者たちに、大きな衝撃を与えたといわれます。


脳科学者として知られる茂木健一郎教授も、こういうことを言っています。

「脳科学の知見は飛躍的に増大している。その発展ぶりは、まさに脳科学ルネッサンスと呼んでもいい状況である。このような近年の脳科学に対する関心の高まり、そして脳科学のさまざまな「成果」を耳にしている人々は、脳科学が、実は深刻な方法論上の限界に直面していると聞いたら、驚くかもしれない。

しかし、脳を理解するという人類の試みは、実際絶望的と言ってもよいほどの壁にぶつかっているのであり、その壁が存在すること、それを乗り越えることがきわめて困難であるという事実を、世界中の心ある研究者は理解しているのである。

その壁とは、すなわち、なぜ、脳の中の神経活動によって、私たちの意識が生み出されるのかが、皆目わからないということにある」
(『意識とはなにか』茂木健一郎)

脳科学者をして「皆目わからない」と匙を投げさせているこのクオリア問題を、次回、整理してみましょう。(つづく)


唯物論への疑問(5) 行為の責任はどこに?

2009-11-29 17:29:44 | Weblog
唯物論者の説くように、人間も突き詰めれば「物質」の集合体で、「心」という一見、物質とは異なる現象も、あくまで「脳」という物質から生じた、とするならば、どういう問題が起きるのか。それについて書いています。

肉体は絶えず新陳代謝を繰り返しているように、昨日の自分と、今日の自分とは、物質的には微妙に変わっているはずです。昨日書きましたように、7年もたてば、ほぼ完全に入れ替わっているですが、それでもなおその肉体という物質が「私」と呼ばれ続けるのはなぜでしょうか?
私はどこにいるのでしょう。

私の住んでいる近くに、神通川という川が流れております。
「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と言われるように、神通川は私が生まれる前から神通川と呼ばれ、これから先もそう呼ばれ続けることでしょう。しかし、神通川自体はずっと前から滔々と流れているので、流れる水自身は、当然、刻々と入れ替わっています。

つまり、昨日、神通川と呼ばれた水の流れと、今日、神通川と呼ばれる水の流れと、明日、神通川と呼ばれる水の流れとは、まったく別物であることはお分かりいただけると思います。

なのに、同じ「神通川」と呼ばれており、だれもそこに不審を抱くことはありません。不審を抱くほうが、変だと思われるでしょう。

そこから、
「私」というのもそういうことなのだ。物質が入れ替わっても「山田太郎」は「山田太郎」。不審を持つほうがおかしいのだよ。という意見も、一部とはいえあることはあります。

ただ「神通川」と違って、「私」はややこしいのです。

もし、変わらないのは私に付けられた名前だけであって、実体は変わっているとするならば、行為の責任はどうなるのか?という問題が出てきます。

先日、英国女性を殺害し、整形で顔を変えて逃走していた男が逮捕されましたが、いくら顔を変えても、殺害した本人とみなされたからでしょう。でも男が、顔だけでなく、肉体全部を移植手術していたらどうなるのか?唯物論者は、それでも男を犯人と認定する何らかの根拠を示さねばならなくなるでしょう。

現在、殺人罪が時効となるのは15年だそうですが、15年間逃げおおせれば、移植手術などしなくても物質的には別物です。せっかく犯人を捕らえても、「ああ、あれは15年前のオレがやったことで、その時の≪オレ≫は、今のこの肉体のどこにも残っていないのサ。裁判にかけるなら15年前のオレに言ってくれ」と開き直られた場合、どうするのでしょう?

現実問題としては、
「ふざんけんな!バシッ!」と一発、ぶん殴っておしまいでしょうが、あくまで論理的に考えるならば、私というものはどうなのか。唯物論の立場に立つと、歴史や社会などグローバルな視点で語るには都合がいいかもしれませんが、こと「私」の問題に関しては、現実と折り合いをつけるのに無理がかかるように思います。

それでも唯物論の立場を崩さず、因果の道理など真理とはいえないと言い張るとするなら、それは合理的精神からというよりも意地と我慢で言っているような気がします。
(つづく)

唯物論への疑問(4) 変わるものと変わらないもの

2009-11-28 14:46:16 | Weblog
昨日の続きです。

これまで述べてきたように、
「私」とは、人体を分解してどこかに見つかるものではなさそうです。

車を例に出して考えてみると、
ガラス、ワイパー、電気機器、ハンドル、ブレーキ、エンジン、タイヤなどのパーツが寄せ集まった「ある状態」を指して「車」と言っています。いくら車を分解しても、車の「本質」というものに出会えるわけではありません。

同じように、皮膚、骨、筋肉、内臓、脳……こういうパーツの寄せ集まった「ある状態」を指して「私」というのだ、という考えも成り立ちそうです。

しかし、そうなるとまた奇妙な話になってきます。

近年、医学の進歩により、臓器移植が可能になってきました。
心臓はAさん、胃はBさん、肝臓はCさん、骨はDさんから、という具合に、何度も移植を繰り返して、すっかり入れ替わってしまった時、私は私のままでいられるのか?という問題です。

これこそ先々日書きました「大号尊者」の問いかけです。

全身の移植手術など、まだ現在の医学では無理だと思いますが、遠からぬ未来、可能になると思います。いや、そんな未来の話を持ち出さずとも、「私」の体は、新陳代謝を繰り返しながら、絶えず入れ替わっているのです。一説によれば、一つの細胞の平均寿命は7年間ほどで、7年経ったころには全身の細胞が、別の細胞にチェンジしているのだそうです。

ということは、7年前の肉体と、今の肉体とは、外見的には一緒でも、細胞レベルで入れ替わっており、物質的には別物となります。それでも同じ「私」という言葉で括る根拠はどこにあるのでしょうか?物質的には別物ではないのですか?

「私」とは、何年経っても変わらない何ものかに付けられている名称のはずです。
私というものを、肉体のみに注目した場合、それは何なのでしょうか?
何が変わって、何が変わらないままなのか?

あくまで思考実験ではありますが、新陳代謝で出て行った、かつての私の細胞を全部集めてきて、自分の肉体を復元したとしたら、それは「私」なのか「私」ではないのか?

肉体という物質のみに着目する限り、私とは何かを突き詰めていけばいくほど、どうにも不可解な事態に陥っていきます。

肉体(物質)的にどれだけ変化しても、「私」が私のままであるのはなぜなのでしょう?
それは肉体とは別に、一貫して流れる生命の流れを想定しないと説明のつかないことになってきます。

その永遠の生命の流れを、仏教では阿頼耶識というのですが、それは肉体に宿る「霊魂」みたいなものとは、本質的に異なったものなのです。それについてはいずれ詳述する機会もあるかもしれませんが、今は、唯物論の立場から仏説、特に因果の道理を否定する邪見を、問題としています。

唯物論への疑問点はまだまだ続きます。(つづく)



唯物論への疑問(3)行方不明になる私

2009-11-27 18:09:10 | Weblog
いきなり気持ちの悪い模型で恐縮です。

私とは何か?という問いに、視覚的な分かりやすさがあるので使いました。

さて、

私というものは、肉体の外にはなく、内に見出せるものとして、それは一体、肉体のどこにあるか?

多くの人は、頭部にあると信じていますが、頭部といってもいろんなパーツからできています。
つまり、頭部=目・鼻・口・歯・下・耳・髪・骨・脳……
この中のどれが私なのか?
多くの人は、それは脳だろうと考えます。それ以外の部位は、私の目、私の鼻という言い方になるように、「私」そのものではなく、「私の所有物」ということになります。

しかし、

脳といっても、やはりいろんなパーツからできています。
脳=大脳・小脳・間脳・延髄・脳幹・脳下垂体……

このうち、どれが「私」なのでしょう?

精神活動の大半が、大脳で司られているそうですから、大脳こそが「私」の究極の本拠地なのだろうという漠然とした思いがあります。
しかし大脳もまた、いろんなパーツの集合体ではありませんか。
大脳=前頭葉・頭頂葉・後頭葉・側頭葉・灰白質……
さて、どれが「私」なのでしょう?

こうなると、だんだん「私」が行方不明になってきます。

それぞれの部位が、さらにいくつもの部位に分けられ、さらに突き詰めれば、どの部位も無数の細胞の集合体であり、その個々の細胞自体が、またさらに分子、原子と分かれるのですから、結局、人体から一切の「私の所有物」を除外し、その末に究極の「私」を見出そうとするやり方は破綻するようです。

肉体は「私」そのものではなく、「私の所有物」なのでしょう。
手・足はもちろんですが、頭部も例外ではなく、「私の頭部」であって、私の所有物に他なりません。

では、その「私の……」と言わしめる私とは?

それともひょっとして、私というものは存在していないのか?

いえ、「私」の存在は、何よりも歴然としているように思われます。

しかし肉体のどこを分解しても「私」を取り出せないとしたら、一体どこに「私」はいるのでしょう?

このように議論を詰めていくと、「私」とは、そんな人体を分解してどこかに見つかるものではないという結論になってきます。

そうなると、「もろもろのパーツの集合体」を「私」と呼ぶのだ、という考え方も出てきます。

確かにそうなのですが、だとすると、また別の問題を引き入れてしまいます。
どういうことか?それは次回に譲りましょう。

では。(つづく)

唯物論への疑問(2) この体は誰のもの?

2009-11-26 18:12:11 | Weblog
これは経典に出てくる話です。

釈尊に、大号尊者というお弟子がある。
商人であったとき、他国からの帰途、道に迷って日が暮れた。
宿もないので仕方なく墓場の近くで寝ていると、不気味な音に眼が醒めた。
一匹の赤鬼が人間の死体を持ってやって来るではないか。
急いで木に登って、震えながら眺めていると間もなく、また一匹の大鬼がやって来た。
「その死体をよこせ」と大鬼は言う。
「これはオレが先に見つけたもの、渡さぬ」と、赤鬼と大喧嘩がはじまった。
その時である。赤鬼は木の上の大号を指さして、
「あそこに、さっきから見ている人間がいる。あれに聞けば分かる。証人になってもらおうじゃないか」
と、いい出した。
大号は驚いた。いずれにしても食い殺されるは必定。ならば真実を言おうと決意した。
「それは赤鬼のものである」
と、証言した。
大鬼は怒った。大号をひきずり下し片足を抜いて食べてしまった。
気の毒に思った赤鬼は死体の片足をとって大号に継いでやった。
激昂した大鬼は、さらに両手を抜いて食べた。
赤鬼はまた死体の両手を抜いて来て大号につけてやった。
大鬼は大号の全身を次から次に食べた。赤鬼はその後から大号の身体を元通りに修繕してやった。
大鬼が帰った後、赤鬼は礼を言って立ち去った。
「ご苦労であった。お前が真実を証言してくれて気持ちがよかった」と。
一人残された大号は、歩いてみたが元の身体と何ら変わらない。
しかし今の身体の手足は、どこの誰の手やら足やら分からぬ。仮り物ばかりである。
街へ帰った大号は、
「この身体は私のものですか、他人の身体ですか」
と大声で叫びながら歩いた。
大号尊者と、それから仇名されるようになった、という。


荒唐無稽な話に思われるかもしれませんが、この話の中には、「私とは何か」という問題について、深遠な問いかけが含まれています。

普通に考えると、肉体の「内」と「外」で、「私」と「私以外」を区別していると思います。

では肉体が私なのか?よく考えると、肉体はいろんなパーツから成り立っています。

大きく区別すれば、
頭部・右腕・左腕・胴体部・右足・左足
経典の話のように、このうち右腕を他人のものと付け替えても、私という主体までチェンジしたとは普通考えないでしょう。ということは、右腕は「私」そのものではなく、「私の所有物」だったということです。

同様にして、左腕、右足、左足、胴体を順々に付け替えても、私は私のままでいると思われます。ということは、これらは皆、「私の所有物」であり、これらを〃私のもの〃と言わしめる私は、どこか別にあるのだと普通、考えられます。

では、頭部。
これを他人のものとチェンジすると、それ以外の肉体は元のままでも、私という主体は、もうそこにはないと考えるのが普通だと思います。
これは今日、ほとんどの人が、頭部こそ「私」というものの主体が存在する場所と信じている証拠でもあります。

では、その確信がゆらぐような話を、今からしたいと思います。
(つづく)

唯物論への疑問(1)自由意志

2009-11-25 16:19:15 | Weblog
今年は日本各地で皆既日食が見られましたが、今度、皆既日食が起こるのは○年○月○日○時○分ということが、ほぼ正確に予測可能です。なぜならば天体の運行は、厳粛なる物理化学の法則に従っており、天体間の関係がこじれて、突然軌道を変えたりとか、気まぐれで逆回転を始めるとか、そういう〃人間のような〃ことは絶対、起きないからです。

また、ビリヤード板のたくさんの球の中の一つを、思い切りキューではじくと、ぶつかり合いながら一斉に複雑な動きを示します。しかしどの球の動きも、どんな複雑に見えようとデタラメに動いているわけでなく、ちゃんと物理化学の法則に従った規則正しい動きをしています。ですから、5秒後、10秒後のどの球の動きも計算で正確にはじきだすことは、理論上可能です。

これは天体や、ビリヤード球のみならず、あらゆる物体の運行にいえることです。

ここから

脳が「心」を生み出すという唯物論の見解について考えてみます。
脳は物質だから、脳内に起こる現象はすべて物理化学の法則に従った予測可能な現象となります。こうなると自由意志が入り込む余地がなくなってしまいます。

さて、この自由意志が否定される一番の問題点とは何か。それは運命論に一気に傾斜してしまうことです。
運命論とは、天体の運行が何年後の何日何時にどのようになっているのか、計算で正確にはじき出されるように、人間の運命も、本人の自覚の有無にかかわらず、すべて決定しているというものです。
物質を支配する物理化学の法則に一つの例外もありませんから、人間を「物質のみ」と見る限り、運命決定論は必然のものとなってきます。

それで何の不都合も生じないのなら、万人が受け入れるべき見解かもしれません。
でも、心の、もっとも心たる所以であるはずの「自由意志」が否定され、運命はすべて決定していることになってしまって、それで私たちの生活に何ら不都合が生じない、と考えるほうが不自然でしょう。

実際、有名な脳科学者でも、運命決定論への疑問から、唯物論に反対する人もいます。
ノーベル賞科学者でもあるエックルス教授は、『心は脳を超える』という本の中で、脳が心を生み出すという説に果敢に異を唱えていました。

いくつかの論点がありましたが、その中の一つだけ挙げておきます。
どんな精巧なコンピューターであろうと、最初の起動をコンピューター自身が起こせるものではない。第三者による外からの操作がなければ起動しない。

同様に、脳を観察すると、人が何か行動を起こす際、脳のある部位に電気反応のような現象が、突如、周辺部分と何の脈絡もなく起きることが観察されるそうです。

このことから、脳というコンピューターに、脳以外の何ものかが「スイッチON!」したとみなすべきではないか?これこそ、脳とは独立し、自由意志をもった「心」が存在する証だ、というご意見でした。

これはこれで説得力のある話で、
「確かに勝手に動き出すコンピューターはないものなぁ……。脳以外の何かが作用するのかなあ」
という気になります。

しかし、じゃあそれは何なのか?昨日ここに書きましたように、「物質」とはまったく違うところから派生した「心」があるとして、それがどうして脳という「物質」に作用できるのか?エックルスは科学者ですから、その辺にきちんと答えなければ、やはり科学の世界では十分通用しなかったのでしょう。

しかし、脳だけで「心」という現象をすべてを説明できると考える人たちに、痛烈な一撃を与えたことは間違いないようです。

(つづく)

19世紀的な機械論的世界モデル

2009-11-24 16:49:43 | Weblog
この宇宙には隅々まで物理化学法則が貫いており、自然界のあらゆる現象は、いわば宇宙という壮大な「機械仕掛け」の運動に他ならず、この天体以外にどんな特別な世界も存在しない。「人間」もまた宇宙の一部を占める存在である以上、機械仕掛けの一部である。
これが古典物理学に基づく機械論的世界モデルといわれるものです。

これが正しいとすると、「私」に物理化学法則に反するような現象は起こりえない。つまりは精巧なロボットということになります。こうなると、いわゆる物質の法則に反するような「自由意志」の、入り込む余地がなくなってしまいます。
ロボットは純粋に物理化学の法則に従って動いており、「自由意志」で物を語ったり、動いたりしているわけではないことは明らかでしょう。

でも、一般的な思いとしては、人間には「自由意志」があるとしか思えません。物質とは異なる「霊」とか「魂」みたいなものが存在し、それが何らかの形で肉体と結びつき、思い通りに肉体を動かしていると考えてはいけないのでしょうか?という素朴な思いを持つ人もあろうかと思います。
でも、それは特別な立証がなされない限り、物理学上の法則に反すると言われてしまうでしょう。

霊魂のようなものの存在自体は、科学で否定はできません。

もし「霊魂」のようなものが実在するなら、そこに、物理化学の法則に当てはまらない「自由意志」も認められるでしょう。しかし、そういう「非物質」の霊魂があるとして、それが「物質」である肉体にに作用するということは、原理上ありえないようです。

常識的に「物質」といえば、形、色、匂などの感覚的性質を持ったものと考えられますが、物質をその根元である素粒子レベルまで分解してみると、そこには、形、色、匂などの性質は全く見当たりません。そこで、物質とは何かということになりますが、物理学では、物質とは、究極的には〃エネルギーをもったあるもの〃と答えるより仕方がないようです。

物質の世界とは、目に見えないミクロの領域に立ち入れば、すべて〃エネルギーをもったあるもの〃同士の、物理化学の法則に従った相互作用として完全に把握されています。

そこに物理化学の法則の外にある、違う次元の「霊魂」なるものが入り込んだとして、物質と霊魂は永遠にすれ違うだけで、相互作用を及ぼすことは原理上、考えられません。

そこを無理やり、「霊魂に限ってそういうことがあるのだ!」と横車を押すならば、それこそ「何でもアリ」の世界になってしまい、議論すること自体、意味がなくなってしまいます。

心という現象は、

①大脳という「物質」から派生したのか?

②霊魂のような「非物質」から派生したのか?

こういう論争は昔からあり、決着はつかずに来ております。

心とは、大脳という物質から派生した現象ならば、脳内には、物理化学の法則に従った作用しか起きないので、自由意志のはたらく余地がなくなります。

また霊魂のような存在に心という現象があるならば、自由意志は認められても、霊魂という非物質がどうして肉体という物質に作用できるのか、納得のゆく説明ができなくなります。

この①②の考え方を比較した場合、科学を無視できない現代人は、①の立場が取るのが普通ではないでしょうか。自由意志を否定することにいささかのためらいはあるものの、自由意志を持つ「心」など存在しない。存在すると思うのは、そう思わせるただの「脳内化学反応」があるだけで、実際に「自由意志」など存在はしない。こういう考え方に傾きつつあるようです。

それでもなお、「自由意志」を有する魂の存在を主張する人たちはあるでしょうが、物理学者と議論させれば、大概、論破されてしまうでしょう。

実際、今日のロボット工学の水準において、ロボットに「私にも自由意志がある」と言わせたり、こちらが「違う、お前はただのロボットだ!」と言うと、むきになって反論し、涙ぐむ、まるで人間のようなロボットを作ることは可能だと思います。未来においてはなおさらです。

こういう背景もあり、なおさら人間は大脳という精密なコンピューターを搭載した機械という印象が強まってきていると思います。

ここから、死んだ後なんてあるもんか、因果の道理が真理なもんか、といった考え方になるのでしょうが、いささか短絡的な発想と思います。

仏教の見解からすれば、①も②も間違っています。

そこで次回から、

この機械論的世界モデルは一応そのままにして、心を物質から派生したとみる「唯物論」には、承服し難い点が多々あることをまず明らかにしたいと思います。ロボットはどこまでいってもロボット。人間にはなりません。


そのあとで、機械論的世界モデル自体が、今日の物理学の先端では破綻していることを示したいと思います。

では。


常見と断見 まずは因果応報ということ

2009-11-23 19:03:53 | Weblog
仏教以外の宗教を外道をいいますが、大別して2種あります。

・断見外道──「死後は無になる」という教え。無の見ともいわれる

・常見外道──「死後、肉体は滅びても、常一主宰(固定不変)の霊魂が存続する」という教え。有の見ともいわれる

釈尊ご存命の当時、インドには95種の外道がありましたが、断見外道と常見外道に大別されます。そして、仏教はそのいずれでもないことを明言されたのが、

「因果応報なるが故に来世なきに非ず、無我なるが故に常有に非ず」(阿含経)

というお言葉です。

たった1行ですが、仏教以外の全宗教をなで斬りにした、すさまじい釈尊のお言葉です。

この経文の意味はこうなります。

「蒔いたタネは必ず結果を生ずるから、『死後は無になる』ということはない。固定不変の『我』というものは存在しないから、『死後、霊魂なるものが存続する』ということはない」

この釈尊のお言葉を理解するには、まず、

因果応報

ということをよく知らなければなりません。
これは「因に応じた結果が必ず生ずる」ということです。経験則として、確率的に大体そういうことが言える、という程度の話ではなく、これに一つの例外も認めないのが仏教です。

大体、私たちの一般的な感性からいっても、

1人殺しても、犯人は1回の死刑
10人殺しても、犯人は1回の死刑
100人殺しても、犯人は1回の死刑
1000人殺しても、犯人は1回の死刑
…………

このあとも際限なく続きますが、これでも分かる通り、死んですべてが終わるなんてありうることでしょうか?これは、以前、このブログでも書きましたが、肉体が終わっても、「私」のすべてが終わるわけではないのです。

「因果応報なるが故に来世なきに非ず」という理屈は理解しやすいですが、因果応報ということ自体を本当の意味で理解するのは、大変なのです。
しかも、これ一つ分かれば、後生は一大事と明らかになるのですから、極めて重要な教えでもあります。だから釈尊は45年間、一貫して因果応報を説かれたのでしょう。

ということは、
後生は一大事であると、どうしても認めたくない人たちにとっては、因果の道理は絶対に認められないことになります。一旦認めれば、後生の一大事も否定できなくなってゆき、カルトとか何とかという非難の根拠を失ってしまうからです。

だから疑謗破滅の人々にとっては、因果の道理の誹謗は、言うなれば上陸を阻止する水際作戦みたいなものでしょう。ここを突破され、橋頭堡(きょうとうほ)でも築かれたら、彼らにとっては甚だ都合の悪い事態になるでしょうから、あらゆる手段で攻撃してくると思います。
まあ、この程度のブログで粛々と書いているうちは、無視されるだけでしょうけれど。仏意がどうこうという話ではなく、非難のための非難というのは本当に寂しい話です。

いろんな非難を受けますが、その根っこはここ。

因果の道理は真理や否や。

この最初のボタンを掛け違えたところから、疑謗破滅は起きています。だから、ずっとここを書き続けたいと思います。


さて、因果の道理が広く浸透すれば、三世を貫く生命の実相も明らかになり、世の中の価値観はひっくり返るでしょう。
「人間はただ夢・幻の間のことなり、後生こそまことに永生の楽果なり」
とも、
「人間は五十年・百年のうちの楽しみなり、後生こそ一大事なり」
とも、
「在家の身は、世路につけ又子孫なんどのことによそえても、ただ今生にのみ耽りて是れ程にはや目に見えてあだなる人間界の老少不定の界と知りながら、ただいま三途・八難に沈まん事をば、露塵ほども心に懸けずして徒に明し暮す」
とも、蓮如上人が教えられている通りです。


現実生活の持つ意味が大きく変わるでしょう。



八識(八つの心)

2009-11-22 20:03:27 | Weblog
仏教の根幹である因果の道理とは、

○善因善果
○悪因悪果
○自因自果

のことです。

「因」とは原因。「果」とは結果のこと。
「道理」とは、三世十方を貫く真理。
すべてのことは、「原因」があって「結果」がある。これは億分の一、兆分の一の例外もない大宇宙の真理です。
特に私たちの最も知りたい「幸福」と「不幸」についての原因と結果の関係を、「善因善果 悪因悪果 自因自果」と釈尊は教えられています。「因」とは私たちの「行為」のことであり、「果」とは分かりやすく言えば「運命」のことです。

ということは、

○善因善果──善い行為が、善い運命(幸福)を生み出す
○悪因悪果──悪い行為が、悪い運命(不幸)を生み出す
○自因自果──自分のやった行為が、自分の運命を生み出す

これが運命のしくみと教えられています。


次に行為とは、仏教では

○身業(体でやる行為)
○口業(口でしゃべること)
○意業(心で思うこと)

の三つを言い、これを三業といいます。

これら身口意の三業(行為)が、目に見えず、消えることもない業力となって残ります。これを「不滅の業力」といいます。
この「業力」が因となり、縁と結びついて、自身の運命(結果)を生み出す。
「縁」とは、因が結果を引き起こすのを助けるものをいいます。

例えて言えば、お米の「因」はモミダネですが、モミダネだけではお米にならない。お米となるにはもろもろの条件が揃わねばなりません。この場合なら、土や水、太陽の光や養分など。これら因にはたらきかけて結果となるのを助けるものを縁といいます。

ところで三業でつくった因(業力)はどこに残るのでしょうか。

仏教では心を八つに分けて教えて、八識といいます。識とは心のことです。

まず、視覚とか聴覚とかの感覚も識と教えられています。感覚は5つあると考えられ、それぞれ
・眼識(げんしき、視覚)
・耳識(にしき、聴覚)
・鼻識(びしき、嗅覚)
・舌識(ぜつしき、味覚)
・身識(しんしき、触覚など)
と呼ばれます。これは総称して「前五識」と言います。

次に意識、つまり自覚的意識が来る。
これは前五識を統制し、記憶、判断、思考、命令する心です。

その下に末那識(まなしき)と呼ばれる潜在意識が説かれ、これは自分に執着し続ける心といわれます。

さらにその下に阿頼耶識(あらやしき)という根本の識があり、これが三世(過去世、現在世、未来世」を貫く永遠の生命です。すべての業力をおさめている処だから、蔵識ともいわれます。

この識が前五識・意識・末那識を生み出し、さらに「身体や、他の識と相互作用して我々が【世界】であると思っているもの」も生み出していると説かれています。


このことを明らかにしていけば、ほとんどの人の価値観がひっくり返ると思います。と同時に、疑謗破滅もなおさら盛んとなるでしょう。仕方のないことです。
この世のことしか分からないのですから。いや、本当は、この世のことすら何も分かっていないのです。だから平気で仏説を誹謗するのです。
それは大変、恐ろしいことなのですが、常識とか、科学的思考とかに凝り固まっている人には、分かってもらうことは中々に難しいことであります。

ではまた。

(つづく)

物理法則は人間のすべてに当てはまるのか?

2009-11-21 17:25:21 | Weblog
唯物論というのは、その名の通り、「唯、物質だけがある」という、ものの見方のことです。

科学では、普遍的な法則が自然界を支配していると考えます。
リンゴは木の枝から離れたら、100パーセント地面に落ちます。万に一つ、風船のように上空に昇っていくというようなことは起こりません。なぜかといえば、ここには万有引力の法則がはたらいており、質量あるもので、その法の支配を受けないものはないからです。

科学では、自然界のあらゆる現象は、世界を構成する基本要素(分子や原子、電子など)と、その要素間に働く力(重力、電磁気力など)の作用として、すべて合理的に説明できると考えています。

これが科学的な見解、態度というものです。

科学が対象とするのは、あくまで「物質」の世界であり、その閉じた領域内では、確かに科学法則というものは磐石で、絶対的なものに思えます。しかし問題は、それを丸ごと人間に当てはめていいのかどうか?ということです。

唯物論者は言います。人間のすべては、「基本要素」と「力」に還元され、人間の思考、感情、行動などすべて、物理化学法則で100パーセント合理的に説明できると。

先日見たテレビでは、男女間に起きる「愛」や、親子の「愛情」まで、目の網膜からの電気信号と、脳のある部位に生ずる物理化学反応で説明していました。人間とロボットの違いは、回路の複雑さだけの問題で、本質的な違いはないという印象を視聴者に与えていました。
出演者の中には、それではミもフタもないのでは?という顔をした人もありましたが、脳の専門家に、そうだ、と言われて反論できる人はいないでしょう。

こういう風潮にあっては、「因果の道理」は胡散臭い話に映るやもしれません。

因果の道理とは、「善因善果 悪因悪果 自因自果」という運命のしくみを明らかにした釈尊の教説ですが、なぜ善因が善果を、悪因が悪果を、自因が自果を生み出すのかというと、私たちの善悪の行為が「業力」という一つの力となり、それが縁と結びついて、善悪の結果を引き起こすのです。

しかし、業力という力は、物理の世界においては未知の力です。だから唯物論者は、そもそもそういう力の存在を認めることができないでしょう。

また、地震などの災害に巻き込まれて大怪我した場合、それも本人の業力のしからしむところと言われますが、なぜ業力というものは、未来に起きる地震の場所をまるで予測したかのように自分をそこへ引きずり出せるのか?悪因悪果といっても、少しも科学的、合理的な説明になってないではないかと感ずるのでしょう。

こういうところから、仏教なんて所詮……と軽んじ、誹謗しても平気でいられるのでしょうが、ここには大変な誤解のあることを、今から粛々と書いていきたいと思っています。(つづく)


情と理

2009-11-20 19:40:07 | Weblog
なぜかは分からなくても、直感のようなもので、死後を恐ろしいと感じています。
それは死後が有る、とか、無い、とか自身の納得したこととはまた別問題で、その人のコアな部分で恐れています。

死後は無いと割り切って、恐れることなど何もないと言ってみせても、いざ実際、死に向き合わされると出てきてしまうのが死後への恐れ。それは皆、心のコアにそういうものを抱えているからでしょう。理屈ではなく「情」の面で、死後の存在を否定しきれないのです。

また、因果の道理という「理」からいっても、死後の存在は必然と考えられます。

なのに、

「情」からも「理」からも、死後を受け入れていいはずなのに、なお「死後は無い」と公言する人たちもいます。その人たちには、因果の道理に代わる何らかの「理」があるのでしょう。

その「理」とは何か?

代表的なものを言えば、科学信仰に基づく、唯物論的な世界観、人間観というものでしょう。それが人生を考える土台となっている限り、その人の心に仏説は入りません。因果の道理など真理とは言えない、と言っている人たちの多くは、そういう唯物論的な世界観を持っていると思われます。

だからこれからは、唯物論的世界観、人間観というものの正体を明らかにしてみたいと思います。そうする中で、因果の道理を迷信、あるいはマインドコントロールのように言う人たちの主張が、果たして正鵠を射たものかどうか、明らかになっていくと思います。




どう読まれるか、それは読者のご判断にお任せします。

死に至る病

2009-11-19 18:56:06 | Weblog
「死に至る病」とは「絶望」のことだとキルケゴ―ル

(デンマーク・哲学者)は言います。

「絶望」とは強烈な言葉で、よっぽどヘマしたり、

逆境にたたされないと「絶望」しないと思うでしょうが、

ここでいう「絶望」とはそういう「絶望」ではありません。

哲学では、一般的な言葉でも哲学的な意味で使われること

がよくあるので、注意したいところです。


「何らかの意味で、いかほども絶望していないような

人間は 一人もいない。

『不安』、知られざる、あるものに対する不安、

それを知ろうとすることさえも何となく怖ろし

いような気のする、あるものに対する不安、

自己自身に対する不安、

このような不安を抱えていない人間は一人もいない。

この病を自分の内に抱いて歩き回っているので、

病がそこにあることが、時々電光のように、

自分自身にも不可解な不安として現れるのである」



よく分からないかもしれませんが、西尾幹二氏が

『人生の価値について』という本の中で言っていること

を併記しておきます。


<ふと自分が言い知れぬ生の無意味のなかに置かれている

ことに気がつく――あるいは漠と予感する――瞬間がある。

(中略)

どういう言葉を当て嵌めてよいかも分からない空虚感。

時間の彼方になにか黒々とした深い闇があって、

自分がベルトコンベアに乗せられ、

否応なしに前へ前へと押されていく徒労感。

それでいて、その抗しがたいものから身を引き離そうと

しても、目の前の小さな用務やささやかな楽しみごとによって

一時的に退避する「忘却の智恵」以外に方法を知らないもどか

しさ。 そんなふうに言ってみても、やるせない思いがし、

何をしても何を見てもつまらないこの倦怠の感覚を、

私はうまく説明したようには思えない>


西尾氏はキルケゴールを意識してのことかどうか知らない

けれど、絶望の説明として、実感もあり、正直で、その通り

と思う。


芥川龍之介は遺書である手記の中で、「ぼんやりとした不安」

という表現をしましたが、それは人間がみな抱えている

「根源的な不安」のことで、キルケゴールの言う絶望でしょう。

芥川は、それ故に自分は自殺すると言っていますが、

まさに絶望こそ、死に至る病。

人を自ら死に至らしめる原因としてよくいわれるのは、

貧困、病気、人間関係などだが、それは皮相な見方で、根本は

絶望です。


私の本体たる「心」は、絶望すなわち常なる「不安」の状態

にあります。

その「不安の正体」を見つけることが、自己を見つける

ことにもつながり、幸福への鍵でもあるということのようです。

キルケゴールの言葉を続けます。

「幸福のはるかはるか奥の方に、深く深く隠されている

幸福の秘密の奥内の奥に、そこにもまた不安が、すなわち

絶望が巣くうている。

絶望が最も好んで巣をつくるえり抜きの一番魅力的な場所は

『幸福のただ中』である」

「人々は自分では非常に安全なつもりでおり、人生に満足

していたりする、(しかし)これこそ絶望にほかならない

のである。

それに反して自分を絶望していると考えている人は、本当

の幸せに一歩近づいている」

この絶望、つまり不安は〃楽しむ〃ことでは解消されない。

それどころか、この不安を忘却することは、さらに絶望的な

状態になるから、まずこの「不安」に気づくことが大事だ

というのです 。

不安を忘れるために、いろいろな趣味や生きがい、娯楽が

世の中にはあふれています。しかし、それで自分の不安を

ごまかしてしまっては、本当の幸福は永遠に訪れません。

不安の根本をつきとめ、その解決を教えたものが仏教であり、

親鸞聖人の教えです。


千の風にはなれない

2009-11-18 18:47:05 | Weblog
昨年7月10日、物理学者の戸塚洋二が死去しました。翌年のノーベル賞受賞が有力視されていた人物だったそうです。

恩師でもあるノーベル賞科学者の小柴昌俊は、「あと18ヵ月、君が長生きしていれば、国民みんなが喜んだでしょう」と述べている。

博士のブログは、一がん患者の壮絶な闘病記録でもありました。

大ヒットした「千の風になって」について、博士は言っています。

「大変申し訳ないと思いますが、私はこの歌が好きではありません。
この詩は、生者が想像し、生者に送っている詩に過ぎず、本当に死者のことを痛切に感じているのかどうか、疑問に思ってしまうのです。死期を宣告された身になってみると、完全に断絶された死後このような激励の言葉を家族、友人に送ることは全く不可能だと、確信しているからです。むろん、このような言葉を死んでから送れたらこんなにすばらしいことはないのですが。実際に死にいく者の視点で物事を見てみたい少数の人々もいることを理解して下さい。あるいは私一人だけかな」


「期限を切られた人生の中で何を糧に生きればよいのか」と題して、死の恐怖について次のように記しています。

「われわれは日常の生活を送る際、自分の人生に限りがある、などということを考えることはめったにありません。 稀にですが、布団の中に入って眠りに着く前、突如、

・自分の命が消滅した後でも世界は何事もなく進んでいく、

・自分が存在したことは、この時間とともに進む世界で何の痕跡も残さずに消えていく、

・自分が消滅した後の世界を垣間見ることは絶対に出来ない、

ということに気付き、慄然とすることがあります。個体の死が恐ろしいのは、生物学的な生存本能があるからである、といくら割り切っても、死が恐ろしいことに変わりがありません。
 お前の命は、誤差は大きいが平均値をとると後1.5年くらいか、と言われたとき、最初はそんなもんかとあまり実感が湧きません。
 しかし、布団の中に入って眠りに着く前、突如その恐ろしさが身にしみてきて、思わず起き上がることがあります」


「残りの短い人生をいかに充実して生きるか考えよ、とアドバイスを受けることがあります。でも、このような難しいことは考えても意味のないことだ、という諦めの境地に達しました。

 私のような凡人は、人生が終わるという恐ろしさを考えないよう、気を紛らわして時間を送っていくことしかできません。そうやって死までの時間を過ごす、ほかにどんな方法があるのでしょうか。

 お恥ずかしいですが、とても有意義な人生を最後に送ることとはかけ離れています」

「しかし、何とか死の恐れを克服する、いってみれば諦めの境地はないのだろうか。そのような境地を無論見つけてはいませんが、上の理由を超克する諦めの考えが一つ二つ思い浮かぶことはあります。

・幸い子どもたちが立派に成長した。親からもらった遺伝子の一部を次の世代に引き継ぐことが出来た。「時間とともに進む世界でほんの少しだが痕跡を残して消える」ことになるが、種の保存にささやかな貢献をすることが出来た。

・もっとニヒルになることもある。私にとって、早い死といっても、健常者と比べて10年から20年の違いではないか。みなと一緒だ、恐れるほどのことはない。

・さらにニヒルに。宇宙や万物は、何もないところから生成し、そして、いずれは消滅・死を迎える。
遠い未来の話だが、「自分の命が消滅した後でも世界は何事もなく進んでいく」が、決してそれが永遠に続くことはない。いずれは万物も死に絶えるのだから、恐れることはない。

ニヒルで、取り付くしまがありません。結局、充実した人生を送るための糧はまだ見つかっていません。」

以上が、博士のブログからです。


〃死んだ後は無いに決まっている。例え有ったとしても、案ずることなんかない〃
因果の道理など真理ではないという人たちから、こういう無責任な放言が飛んできます。
「死んだ後」が有るか無いかは知識の問題でも、「死んだ後」助かりたいかどうかは人間の問題です。

死後を恐れるのは、深い人間性からくるものであって、死後がないという知識によって清算されるものでは決してないのです。

子供たちの直感

2009-11-17 19:02:35 | Weblog
知人が 病弱の小中学生の支援学校に勤務しています。

白血病などに冒され、余命幾ばくもない子供たちもいるのですが、子供たちはしきりと聞いてくるそうです。

「死ぬのが怖い……」
「死んだらどうなるの?」

 マニュアル通りの返答では、
「お星さまになるんですよ」とか、
「天国に行くんですよ」
と、言うことになっているそうなのですが、本当に死が問い詰まってくると、子供でも、「馬鹿にしないで」と言ってくるそうです。

病状が進むと、せめて最後の思い出作りのために、ということで、親と子と担任で遊園地などに行くそうです。生きている今を精いっぱい、楽しもう、充実させようということなのでしょうか。

だが、知人の話によれば、笑顔なのは親のほうだけで、子供のほうは不機嫌、もしくは無表情なのだそうです。

子供の直感を馬鹿にはできません。

子供たちは余計な知識がない分、「死」と対峙して、理屈ではなく、直感的に死後を予感していると思われます。少なくとも、死んだら無になるという考えには、大人ほど簡単に承服しないでしょう。

大人はなぜ、死んだら無になるという考えを、簡単に受け入れるのでしょうか?確たる根拠があるわけでもないのにです。

子供は「死」に敏感であり、その敏感さで感じ取れたことには、常識にとらわれた大人の及ばぬ何かがあると認めてもいいと思います。

大人になると、知識や経験、常識などに影響され、一般論的な見解に形を変えていくものです。でも、落ち着いて、心の奥底に耳を澄ませれば、聞こえてくると思うのです。

死んだらどうなるの?という声なき叫びが。


直感的に言っても、死後を否定できないのでは?

2009-11-16 20:14:43 | Weblog
仏教で、死んだあとを「後生」といいます。

因果の道理など真理ではないと公言する人は、「後生なんてどうでもいい、くだらない」とさえ言っているようです。その人が思うとおり、因果の道理が真理ではないのなら、確かに「後生なんてどうでもいい」ことかもしれません。
しかし、因果の道理が真理であれば、後生は決して「どうでもいい」ことではないのです。


さて、

多くの人は「後生」について、全くの無頓着に生きております。でも何かの拍子に、心の中をフッとよぎる瞬間があります。

たとえば、それは親しい人が亡くなった時です。

死ねばすべてが終わり。永遠の「無」。だから後生など考えたところで仕方がない。普段からそう考え、「理」の上で、死後の無を十分納得しているつもりの人でも、いざ親しい人を亡くしてみると、「冥福を祈ります」という言葉が、つい口をついて出てきます。

さて、この「冥福を祈る」とはどういう意味でしょう。

冥福とは「冥土」の「幸福」ということで、冥土とは死後の世界のことです。

つまり、平生、いくら死後をナンセンスだと否定している人でも、いざ親しい人に死なれてみると、平生の信条はどこへやらで、亡くなった人の、「冥土(死後)の幸せ」をしっかり祈ってしまうのです。

心というものは複雑で、理性では死後を否定し、迷信として片付けようとするのですが、私達の心の奥には、死後の世界を否定しきれないものがあるのです。死後の存在を、心のどこかでは受け入れているのです。

その心が、親しい人の死に接した時、「冥福を祈ります」と言わせているのです。そういう心情になっているからこそ言うのであり、心に全然ないことは、普通、言わないものです。

それは儀礼的に、習慣として言っているだけだ、と言い張る人もありますが、「冥福を祈る」時の語りぶりは、だれしも一片の儀礼や習慣ではすまされない、神妙なものがあります。

心底から死後を納得していないなら、あんな大真面目な顔で「冥福」を祈ったりできるものではありません。

たとえば、アフリカの未開の村に行ったところ、雨乞いの踊りをやっていたとします。確かにここは雨がほしい局面でも、だからといって現代人が未開の人と一緒になって雨乞いの踊りをするものでしょうか。

踊ったところで100パーセント雨降りとは関係ない、と完全に納得している現代人にとって、雨乞い踊りなど阿呆らしくてできるものではありません。それでもやらねばならないとなったら、かなり恥ずかしい思いでやると思います。

同様に、死後などないと100パーセント納得しているなら、神妙に冥福を祈るはずもないし、慰霊祭など馬鹿馬鹿しくて参加しないでしょう。

つまり

★私たちは、心のどこかで後生の存在を受け入れています。


次に、死んだ人に対して幸福を祈ったり、慰霊祭つまり死者の霊を慰める、という意味について考えてみます。

私たちはどんな時、他人を慰めたり、幸せを願うものでしょうか?
それは不幸な状況に置かれている人を見た時だと思います。

たとえば、災害で家族を亡くした子供を見れば、慰めもし、幸せになってほしいとも思うでしょう。

でも、年収が1億、六本木ヒルズに住み、外車を何台も乗り回し、いつも美女に囲まれて、という人を慰めようとか、幸福になってほしいなどと思うでしょうか?
そういう気にはなれないと思います。

ということは、私たちは死者に対して、共通したある感情を抱いていることにはならないでしょうか。

つまり死んだ人は、何か苦しい状況に置かれているのではないか?慰めなければならないほど、辛い目にあっているのではないか?という感情です。

だから慰霊祭などが成立するのであり、そこに集まって皆で死者の冥福を祈るのです。

★私たちは、死者が何か苦しい状況にあるような気がしている。


ここまでは、他人の死に向き合った時の、私たちが抱く感情でした。

問題は、自分の死と向き合った時です。
親しい人が死んだ時も、無になったと思えず、しかもどこかで苦しんでいるような気もする。

だとするならば、

★その心は、そのまま自分の死に直面した時にも出てきます。

つまり平生、死後はないという信念を持っていようと、いよいよ自分の番がくると、死んで無になると、信じきれないものがあるのです。 「後生なんてどうでもいい、くだらない」と言っている人でもそれは例外ではありません。

もし、死ねば無になるということがハッキリしているのなら、それはそれで心の持ちようもあり、受け入れることも可能と思います。大半の人は、そう信じて自己の死を受け入れようとしているのだと思われます。

しかしそれは「死ねばすべて終わる、無になる」ということを前提とした信念であり、受容であります。

ところが、上記のごとく、その前提が、いよいよ臨終には揺らぐのです。肉体の死後どうなるか?どこか暗いところへ、たった一人出かけねばならないのではなかろうか?それはどこなのか?何も分からない。分からないけれど、後生へと運ばれていく。その不安、恐ろしさ、不気味さは計り知れず、どんな科学的知識をもってしても、

「死んだらどうなるのか?」

これが押さえようのない衝動となって心を占有していきます。


それまで「きっと意味がある」「これこそリアル」と信じてやってきた、もろもろの世間事が、ことごとく自分にとっての意味を失い、世界から現実感が消えていき、バラバラのモザイクを眺めているよう感じになっていきます。
そして今から往く「後生」こそが、本当の意味でリアルな、人生最大事であることに気づきます。

でも、それでは遅いのです。