静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

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今ごろ善のすすめか?

2016-06-30 14:09:44 | Weblog
以下、「読売新聞」(5月23日)の記事からです。

「他力本願」を巡っては、東日本大震災後、真宗門徒の間で災害ボランティアは自力で善根を積む行為で、この教えに反するとの意見が出た。京都・東本願寺の学寮を源流とする大谷大学の木越康学長は、学生らと被災地へ向かった時、「ボランティアが自力作善であれば、他力の教えに反しないか」との学生の悩みに接したという。
 この点について、木越学長は『ボランティアは親鸞の教えに反するのか』(法蔵館)を著し(後略)」――。

 これまで「親鸞聖人の教えに善のすすめはない」と言ってきた手前、いざ、震災のような事態に直面すると、ボランティアという善をすすめていいのか悪いのか、自分たちの言葉に縛られて身動き取れなくなってしまうのでしょう。まったくお気の毒なことです。

 苦しんでいる人を助けるのは仏法者として当然のことでしょう。
 そんなことで「自力か他力か」いちいち悩まず、さっさと助けに行けばいいのに……そう思うのは、私だけではないと思います。

 困っている人を助けに行くことと、「善のすすめはない」と教えてきたこととに〃整合性〃を持たせるため、本まで書いていたとは知りませんでした。
大いに善をすすめ、善いことをなさったらいいと思います。

 ただ、忘れてはならないのは、こういう時、親鸞聖人はどうなされたかです。
 親鸞聖人の時代にも、やはり飢饉や災害はありました。
 聖人42歳の御年、大飢饉があり、バタバタと多くの人が亡くなりました。あまりに悲惨な状況を悲しまれた聖人は、何とかそれらの人々を救済できないかと、浄土三部経を千回読もうとなされたのです。しかしその途中、善導大師の「大悲伝普化 真成報仏恩」の聖語に思い至り、「私は誤っていた!」と仰って、決然と常陸へ布教に旅立たれました。
 これは『恵信尼文書』に書かれてあることです。

 飢饉などの非常時に直面した時、どう行動すべきか、聖人でも一時迷われたのです。
 ただしそれは、ボランティアのような、一部の地域で、当面の生活上の危機を救うのが先か、弥陀の本願を布教するという、全人類の後生の危機を救うのが先か、という判断に迷われたのであって、自力になるか他力になるかと、そんなことで迷われたわけではありません。

 布教最優先とはいえ、災害があまりに深刻だった場合、当面の危機を救うのが優先される場面もあるでしょう。それは、その時その時で判断するしかありません。

 ただ、「この世は老少不定のならいなり」(御文章)。
東日本や熊本で震災に遭った方々ばかりが、危機的状況にあるのではないというのが、仏法の教えです。

 厚生労働省の人口動態統計(平成27年)によると、日本での年間死亡者数は、およそ130万2千人。単純に計算すると1日に3500人以上の人が、日本のどこかで、何らかの原因で命を落としていることになります。

1日3500人という数字は、1週間にすれば2万4千500人。あの〃未曾有〃といわれた東日本大震災の死者が、行方不明者も含め2万3千571人といわれていますから、その1週間後にはそれ以上の人が、日本のどこかで死んでいるという事実が浮かび上がってきます。
 災害で死んでも、布団で死んでも、人が死ぬこと自体に変わりありません。
 だとすれば、1週間ごとに「東日本」級の悲劇が起きている。それが「平穏な日常」と呼ばれるものの実態なのです。

「難度の海を度する大船」の厳存を知らぬまま、毎日、毎日、雨が降るように、人は後生へ旅立っています。大船の存在を、いち早く、多くの人に伝えるか、これ以上の急務はないことが分かると思います。
親鸞聖人が飢饉で瀕死の状態の人々を視野におさめられながらもなお、弥陀の本願宣布に徹し抜かれた浄土の大慈悲心を、私たちは分からぬなりにも分からせていただかねばなりません。



コメント

絶対矛盾的自己同一

2016-06-29 09:51:38 | Weblog
しばらくお休みしていましたが、読みたいと言われる方もあるのを知りましたので、またゆるゆると始めてみたいと思います。
よろしくお願いします。

 二次元平面上には、〇であり、かつ△という図形は存在しません。しかし、三次元空間上には、円錐(えんすい=駐車場にあるコーンのような立体図形)というものが存在し、それは底から見れば〇に見え、横から見れば△に見えます。
 つまり「〇でありかつ△」というものは、平面上にはなくても、空間上には存在するということです。

 同様に、平面上の2直線は、
①平行ならば交わらない
②交わるならば平行ではない
という真理が成り立ち、
③平行ではなく、かつ交わらない
という2直線は絶対に存在しません。
 しかし、空間上においては、平行ではなく、かつ交わらない2直線など、いわゆる「ねじれの位置」といわれるもので、無限に存在しています。
 二次元平面上の〃真理〃というのは、あくまで二次元平面上でのことであり、三世十方を貫きませんから、三次元空間上では成り立たなくなるのです。

 さて、ここからが肝心です。
 凡夫が〃正しさの基準〃にしている「合理性」という次元においては、
①助かるに間違いないなら、堕ちることはない
②堕ちるに間違いないなら、助かっていない
ということになり、
③「助かるに間違いなく、かつ堕ちるに間違いない」という事実など、論理的には存在しません。これを認めるならば、論理は破綻してしまいます。
 ところが、「堕ちるに間違いなく、かつ助かるに間違いない」絶対矛盾的自己同一というべき人が、事実として存在しているのです。
 それは、凡夫の考える合理性が、三世十方を貫く真実ならば、ありえない存在なのですが、現実に存在している以上、凡夫の合理性とは、あくまで凡夫の次元の〃正しさ〃であり、仏智の世界では成り立たない、すなわち三世十方を貫かないといえます。

 そんな凡夫に理解不能な「真実」を、そのまま示して、凡夫を導くなど不可能であります。導くには、凡夫の理性に合わせた方便が必要なのは当然でしょう。
それを「方便など要らん、真実だけでいい」と主張する人たちは、「方便」「真実」と同じ言葉を使ってはいても、根本的なところで何か勘違いをなさっているのでしょう。

さらに言えば、先ほど申しましたとおり、真実とは凡夫の合理性など超絶した「不可称・不可説・不可思議」なものなのですから、方便と真実の間に〃整合性〃の橋は架からないと考えるのが普通です。

なのに、善など勧めては「無限にループするだけ」などと言い、鬼の首でも取ったかのように批判する人たちの「根拠」とするところが、この〃整合性〃なのですから、どういう程度の非難かお分かりだと思います。

 真実に転入する道程まで凡夫の知恵で整合性のつくものなら、それは凡夫の世界の延長ということでしょう。真実とは別物です。

 私たちが根拠とすべきものは、あくまで親鸞聖人のお言葉でなければなりません。
 
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