静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

セミの智慧

2009-12-27 21:00:06 | Weblog
こういう話があります。


 同じ木の梅の実でありながら、大きいのやら小さいの、
丸いものやら凹んだもの、みんな形がちがっている。
"納得できぬ"と、セミが不審がる。
"六月頃、地中から這い出して、夏のことしか知らないが、
お前が地中にいた春という季節には、この木に白い花が
一杯だった。
 蜂や蝶が飛んできて、荒された花は小さな実となり、
荒されなかった花は大きな実となったのだ"
"そんな馬鹿な!"
 いくら説いても、セミの知恵には無駄だった。



「私」といっても、肉体のこととしか思えない私たちには、
時に人生は不平等で、不可解なものに思えますが、それは、
私というものを誤認し、因果応報の道理に一分一厘の狂い
もないことを知らないために生じた謬見です。

智慧の眼の開けない我々凡夫には、ただ眼前の目に見える
こと以外は分からず、それによって来る深い因縁を知ること
はできませんが、仮に宿命通という神通力が与えられ、
天眼自在であったなら、一切の行為の因果が歴然として
分かることでしょう。


本当の私とは、肉体が生ずる前から存在し、肉体の滅した
あとも存在し続けます。
それはあたかも、大河の水面に泡がポッと生じ、しばらく
流れたのち、忽然と消えていくが、泡の消滅とは関係なく、
大河の流れは一貫して続いているように、我々の生命も、
肉体の消滅とかかわりなく、存続するものなのです。

因果の道理は、この三世(過去世・現在世・未来世)を貫く
永遠の生命の上に説かれていますから、三世因果の道理と
いわれます。

これを納得できないと言い張る人が、上記のセミのような
人だということです。