静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

因果の道理について

2009-09-30 20:28:13 | Weblog
こんばんわ。
心静かに、因果の道理ということについて書き始めたいと思います。



宗教というと、何か不思議さや、奇跡をもったものだという感じを人に与える。

何ごとか分からぬが、有難さのあるものを宗教と思わせる仕組みが、儀式とか、形式となり、そういったものに心を向けることを宗教を信ずることだと考えている。

世界には一応、三大宗教として、仏教、キりスト教、イスラム教がある。個々の宗教の内容が異なるのはもちろんだが、宗教とは何かということにすら多くの考え方があって、思い思いの考えで「宗教とはこういうものだ」といわれるので、心の由りどころを求める人達はかえって迷わされ、あれやこれやと宗教遍歴をする羽目になる。

宗教には礼拝対象があり、教義があって、信者があるものだとし、これだけの形式がととのっていれば日本では宗教法人として認められる。

このため日本には、新旧多数のいわゆる宗教があり、それぞれ自らの教義を世にひろめようとしている。宗教を信ずることは自由であると、憲法で保障されているので、どんな宗教を信じようと国は干渉できない。だからそのうちのどれを選ぶか、あるいは選ばないのか、それは全く各自の意思にゆだねられてしまっている。

それなのに、いざ、宗教とは何か?というと実は何が何だかハッキリしない人ばかりなのである。少しものを考える人であっても、「宗教とは、人の心を安らかにし、生き甲斐を与えるものだ」と答えるぐらいであろう。

そのような、この世の悩みを解消し、心を安らかにして生き甲斐を感じさせるものが宗教なら、政治、経済、科学、芸術などの目的と違わないことになる。

人の心を安らかにし、生き甲斐を感じさせない政治なら、無意味であるし、人々の求めるものを流通させて満足させるのが経済の目的だし、天地自然の法則をつきとめて、合理化、効率化を社会にもたらすのが科学だし、人の心に美を示し、安らいを与えるのが芸術ともいえよう。
宗教を芸術なりなどというならば、もはや宗教の立場を失わせているわけだ。

宗教とは何か、これを明らかにせずして、宗教を選び取ることはできない。

真の宗教とは、単に人の心のなぐさめや、心の安らいをだけを、目的とするのではない。真の宗教を知り、それを信仰すれば、結果において、心が安らかになり、生き甲斐を感ずることにはなるが、はじめから、信じたら御利益があるとか、心が安らかになるというような上すべりのものは、真の宗教ではない。

宗教とは文字通り「宗」となる「教」えで、肝心要を示す教えであり、根本道理を説くものである。

肝心要に二つはない。

真の宗教は根本道理を説くものである故に、あれやこれやとあるべきでない。さらにいえば真の宗教は、政治、経済、科学、芸術などすべての営みを、人類の幸福へと善導するものである。

では宗教で明らかにされるべき根本道理とは何か。

それは分かりやすく言えば、運命のしくみである。

仏教でそれは因果の道理と教えられる。因果応報とは、よく耳にする言葉だと思うが、そのことである。

仏教は因縁を宗とす

2009-09-29 19:47:56 | Weblog
まずは概論的なことを書きます。
概論的とはいえ、一つ一つがとても深い内容なのです。


    ■仏教の出発点と終点

 仏教は後生の一大事に驚き、この解決で終るものであるから、後生の一大事が分からなければ仏教は金輪際分かるものではない。
 後生の一大事の抜けた教えは絶対に仏教とはいわれない。
「諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず」
                      (教行信証後序)
 親鸞聖人のお歎きは、そのまま今日の真宗の道俗の実態である。

 では、信心決定する前の人にはどうして
「曠劫を逕歴せん」(親鸞聖人)
とか、
「無間地獄に堕在すべきものなり」(蓮如上人)
といわれる一大事がおきるのか。
 その理由を仏教はこのように教えている。

     ■仏教の根本教理は因果の理法

 仏教というのは釈尊の説かれた教えを言う。
 釈尊は約二千五百年前、印度の一共和国の王子として誕生されたが、人世の無常に驚き、二十九才の二月八日出城入山せられて勤苦六年、三十五才の十二月八日一見明星して大悟徹底、仏陀となられた。
 これより八十才の二月十五日、御入滅になるまでの四十五年間の教えを仏教とも仏法ともいわれる。

「仏教は因縁を宗とす。仏の聖教は浅より深に至る。一切法を説くに因縁の二字を出でざるを以てなり」(維摩経)
と説かれているように、釈迦一代の教えを貫いている根本教理は因果の道理であることは疑う余地がない。
 いわゆる
「蒔かぬタネは生えぬ」
で、原因なしの結果は絶対に認めないし
「蒔いたタネは必ず生える」
と教える。
 しかも因と果の関係は常に善因善果、悪因悪果、自因自果であることが厳然と説き切られている。

     ■三世因果は仏教の旗印

 このように善因善果、悪因悪果、自因自果の因果の理法を離れて仏教はあり得ないが、それは単に現在一世にとどまらず過去、現在、未来の三世を貫いて説かれているところに仏教の因果律の精粋があるのである。
 これを三世因果といい、他の宗教や哲学に対する仏教の旗印となっている。
 故に仏教を深信するということは三世因果を深信するということである。
 では過去、現在、未来の三世はどのような因果関係によって成立しているのか。

『因果経』には、
「前世の因を知らんと欲すれば現在の果をみよ。後世の果を知らんと欲せば現在の因をみよ」
と至って鮮明に説かれている。

 過去の因は現在の果に現われており、未来の果は現在の因によって発現するのだから現在の自己の上に無限の過去と永遠の未来を知見できることを教えているのが三世因果の理法である。

 故に仏教は現在の自己を徹見すれば自己の後生は分かると教える。
 現在の自己は如何なる後生を生み出す因を造作しているか。
 法鏡に映し出された真実の自己を知らされたとき、誰しも脚下に渦巻く一大事に驚かずにおれないであろう。

「いずれの行も及び難き身なればとても地獄は一定すみかぞかし」はその時の親鸞聖人の悲痛な叫びであったのである。



さて、

そんな話なら今まで何べんも聞いた。もう分かった、分かった、という人もあるだろう。
上記のような内容は、何度も聞けば覚えてしまうから、せっかくご縁を結んでも、続けて聞くのが嫌になり、この上さらに、あれもせよ、これもせよというのか、と何かにつけて腹を立て、法を謗り、説く人の上に立ち、ああだこうだと批評家的な態度になってくる人がある。

だがそんな人が、上記のことを本当に分かっていると言えるだろうか?

ためしに、本当に因果の道理が分かったのですか?と問えば、当然とばかりに、つらつら答えるかもしれない。だが、その人の「分かった」というのは、仏教ではそのように教えられているのですねと、知識として「分かった」ということであって、自身の信仰となっているかどうかは別である。

ここは何度、強調しても足りないくらいである。


本当に因果の道理が分かれば、受け入れられたら、それは必ず廃悪修善の心となる。心の向きが変わる。

そこを通らずに、いたずらに罪悪だ、後生の一大事だと先の話を進めても、自分のこととして到底、受け入れられるはずもない。仏説もただの「一つのお話」となる。表向きはどうあれ、親鸞会を非難攻撃してくる人たちの根っこはそこにあると思う。

因果の道理をひと通り聞き、一つの知識として理解するのは容易いかもしれないが、それを受け入れることは容易ではない。容易ではないからこそ、釈尊は45年間これを説き続けられた。

だからまず、因果の道理であろう。
なぜあなたは因果の道理が受け入れられないのか。
すでに自分の中に違った考えがガンとして根を張っていて、聞いても聞いても仏説が「知識」として以上に心に入っていかないのだろう。では、どんな異質の考えが心に根を張っているのか?いわゆる自身の思想の根底である。もう少し突き詰めて自己と向き合ってみてもいいのではないか?

その一つとして唯物論的世界観があると思われる。その唯物論の誤りは後日、詳述したいと思う。


さて最後に、なぜコメントを公開しないのか?と、なじられてもいるが、エキセントリックなものが多いから、読む人にとっては雑音であろう。やはり静かなほうがいいのではないか?
そもそも人の話は最後まで聞くものである。

心配しなくとも、コメントはいずれ然るべき時に一挙公開する。もちろん、個人の実名をあげた中傷や、悪徳サイトへ誘引するようなコメントは省きます。当然だと思いますが。