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唯物説も、霊魂説も、暗礁に乗り上げる理由

2009-12-05 20:49:04 | Weblog
「私とは何か」と、突き詰めて考えていくと、2通りの考え方に分かれることを述べてきました。

1つは唯物論。すなわち「私」といっても、物質以外に何もないとする考え方。
もう1つは、物質とは異なる何ものか、心、精神、魂、霊魂など、呼ばれ方は様々ですが、「意志」をもった何かがあって、それが「私」というものの主体であるという考え。

哲学・思想の歴史をひも解けば、それこそいろいろな考え方、立場があり、複雑怪奇な様相を呈していますが、つまるところ、考え方の大元としては、

「私」とは、①物質である  か  ②物質ではない  か

のどちらかということになりましょう。

2択の問題ですから、そんなに難しくないような気もするのですが、実際はこれまで見てきた通り、①も②も、現実の「私」を説明するのに甚だ不都合が生じてしまいます。(詳しいことは過去のエントリーを参照下さい)

でも、何でそういうことになるのでしょう?

唯物論の①の立場からは、死後に存続する生命は否定され、自由意志の入り込む余地はなくなり、運命決定論に傾き、それにともない善も悪も意味をなさなくなります。当然、三世を貫く因果の道理は否定されます。

不滅の霊魂の存在を認める②の立場は、霊魂と肉体の関係をうまく説明できないでいます。そもそも霊魂のような存在自体いかがわしいことは、昨日書きました。

でも一見、不滅の霊魂を認めてこそ、三世因果の道理が成り立つようにも思えますが、やった行為に応じた善悪の結果が現れるという因果の道理を、霊魂説からは納得いくよう説明できないはずです。

暴走車と衝突するひどい目に遭ったとして、それもあなた自身の悪い行為(業)の報いですよ、と教えられて、「そんな馬鹿なぁ」と何かオカルトな話に思うのは、その人が〃霊魂説のような〃思いを持っているからと思われます。


普通に考えれば、①と②は対立した見解で、そのどちらかにしか答えがないように思うのですが、それがなぜ両者とも暗礁に乗り上げてしまうのでしょう?

それは、私たちが①でも②でも、どちらの立場に立とうとも、共通した〃ある思い〃があるためです。

それは、

「世界」は誰にとっても共通で、単一のものであるという信念です。

それが大前提で、その中に「私」や「あなた」がいる、と思っています。これは万人に共通したゆるぎない思いなので、それはもう強固な常識、磐石の信念となって、私たちのものの考え方を大枠で支配しています。それ以外の考え方は全くできなくなっています。


でも、それは本当は違うのですよ、ということを「ある本」をもとに書いてみたいと思います。もちろん、深遠な真理を、ここに正確に書き尽くすことは到底無理ですが、ある種の誤解をとくことにはなると思います。(つづく)
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