静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

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人生の目的 考

2011-07-26 18:41:20 | Weblog
トルストイも言っているように、驚くほど当たり前のことなのに、驚くほど忘れ去られていることがある。「よくも人間はこれが眼に入らずに生きられるものだ――これこそまさに驚くべきことではないか!」(『懺悔』)

それは「死ぬ」ということだ。

難しくて考えられないのではない。本当はだれもが分かっていることなのだ。

だが、この重い事実にあまりにも鈍感な心が、人生の目的の誤解の温床となっている。

こちらは人生の目的と言っているのに、非難してくる人は、目標や生き甲斐のことだと思って言ってくるのだから、最初から話がかみ合っていないのである。
自分に理解できる程度に話を矮小化して、そんなものありえない、おかしい、私は自分の頭で考え、自分の意思で生きていると自慢げに非難してくるのだから、伝えることの難しさをただ思うばかりである。

そりゃ目標や生き甲斐が、みんな一緒だったら変だろう。だれが考えたって。
そんな程度の話ではないのである。
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いちご同盟

2011-07-21 23:14:32 | Weblog
ちょっと気を引いた小説です。

主人公の良一は中学3年生。
ピアノ教師の母の影響もあり、ピアノを嗜むものの、一体何の
ためにピアノを練習しているのか、ふっきれない気持ちを抱え、
また、自殺への誘惑にも似た気持ちが影のようについて回って
います。

その良一が、野球部のエース・徹也と、その幼なじみで入院中
の少女・直美との交流を通して、心の変化を遂げていく、とい
うようなストーリーです。

その中の一節。

………………………

つまり、こういうことだ。
人生というものに関して、ぼくは三つほど、疑問があった。

第一は、ピアノを弾くのは好きだけれど、いまのぼくの技量
では、とてもピアニストなんかにはなれそうもないというこ
と。

第二は、たとえピアニストになったとしても、それが仕事に
なってしまうと、いい気分でピアノが弾けなくなるのではな
いかということ。

そしてもう一つ、ものすごい苦労をして、有名なピアニスト
になったとしても、死んでしまえば、それでおしまいではな
いかということ。

どうせみんな

死んでしまうんだ。

自殺した小学生のメッセージが、頭の中でこだましている。

あの少年は、11歳で、世界を見通してしまったのだ。
生きていたって、ろくなことはない。

世界に向かって「ばかやろう!」と罵声をあびせた少年に対
して、いったい誰が反論できるだろうか。

結局のところ、ぼくの疑問は、その一点に収束する。

三田誠広
『いちご同盟』より



どうせ死ぬのに、なぜ生きるんだろう?

生きることが楽しいことばかりならいざ知らず、
生きるのは困難の連続だ。

人間は生きて苦しむ生き物かもしれない(夏目漱石)

なぜ生きる。 そう、それは永遠の問い。


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一炊の夢

2011-07-15 19:36:26 | Weblog
■中国に「一炊の夢」という故事があります。

■街道沿いの茶店に一人の老人が休んでいました。名は呂翁といいました。

■そこへ一人の若者がやって来ました。近くの村の盧生という青年です。粗末な身なりで、黒い馬に乗っています。田圃へ行く途中でした。盧生も、この茶店に入り、先客の呂翁と同じ席に腰を下ろしました。

■初対面ではありましたが、何となく打ち解け、会話がはずみました。しばらくすると、盧生は自分のボロ服を眺めながら、大きなため息をついて言いました。
「男として生まれながら、みじめな有り様です。これからの人生を思うと情けない限りです」
「どうしたんだね。お前さんの体は、どこも悪いところもなさそうだし、今の今まで楽しそうに話していたじゃないか」
「何が楽しいものですか。毎日、ただ生きている、というだけです」
「では、どうなれば楽しいのかな」

■盧生は、若き情熱をぶつけるように言います。
「立身出世を果たし、将軍や大臣となり、豪華な食事を前に、美しい歌声を聞いて、耳を楽しませたい。一族は繁栄し、一家ますます富んでこそ幸福といえるのではないですか。私も、ひところは学問を志しました。そのうちに出世がかなうと思っているうちに、もはや30歳となり、野良仕事にあくせくしている有り様。これが情けなくなくて、なんでしょうか」

■言い終わったかと思うと、目がかすみ、うとうとと、眠くなってしまいました。

■この時、茶店の主は、黍の飯を炊き始めたところでした。呂翁は、袋の中から一つの枕を取り出して、盧生に言います。

「お前さん、この枕をしてごらん。望みをかなえて進ぜよう」

■盧生は、横になって、枕に頭を乗せました……。


■数ヵ月経ちました。
盧生に、名門の家から嫁をもらう話が来ました。絶世の美人であり、実家は大金持ちでした。
それからというもの、服装も乗り物も、日に日に派手になっていきました。

翌年、官僚の登用試験に合格。その後は、順調に出世街道をまっしぐらに進みます。知事や長官を歴任し、盧生は、大いに業績をあげたのです。

そのころ、北方から異国の襲撃をうけます。
皇帝は、盧生を見込んで軍司令官に任命し、盧生は軍隊を率いて外敵を撃破し、領土を広げました。盧生は華々しく、長安の都に凱旋しました。軍功によって官位は累進し、大蔵大臣、検事総長となりました。

その後、辺境に流されること二度ありましたが、中央や地方の高官を歴任し、政界に重きをなすこと50余年、まさに栄耀栄華を極めたのです。

やがて、寄る年波で、体も衰え、何度も辞職願いを出したが許されませんでした。それほど皇帝の信任が厚かったのです。

臨終の時が来ました。

盧生は皇帝に書を奉じます。
「私はもと山東の書生でありました。百姓仕事を楽しみにしておりましたが、たまたま官吏として登用され、過分のお取り立てにあずかりました。齢も80を過ぎ、余命幾ばくもございません。ご恩にお応えすることもできず、お別れを告げねばならなくなり、後ろ髪を引かれる思いが致します。ここに謹んで、感謝の意を表す次第でございます」

これに対して皇帝は、見舞いの勅使を派遣しましたが、その日の夕方に、盧生は死にました。
50年間といえど 振り返ればアッという間の出来事


■「ああ、おれは死んだか……」
盧生は大きなあくびをして目を覚ましました。
名家の娘と結婚するところから、国家の元老として勅使を迎えて死ぬ まで、50年の間の夢を見ていたのです。

50年といえば、気の遠くなるような長い歳月のはずだ。それなのに、どうでしょうか。
茶店の主が炊いていた黍飯は、まだ、できていなかったのです。
盧生は、がばっと身を起こして、 「ああ、夢だったのか……」とつぶやきました。
まるで自分に言い聞かせるように・・・。

■呂翁は、笑いながら言いました。
「人生の楽しみも、そんなもんだよ」


■盧生は頭を下げ、 「栄耀栄華、立身出世とはどんなことか、よく分かりました」 と、礼を述べて、茶店を出て行きました。


■盧生は最初、茶店で、「ただ生きているだけ」 の人生はイヤだと呂翁に言いました。つまり、目的のない人生が苦痛だったのです。そして、「男に生まれたからには、何かを成し遂げたい」と抱負を述べます。


■しかし問題は、何に、人生をかけるか、です。
盧生は、立身出世こそと思いました。しかし、それは「一炊の夢」であって、人生の満足とは呼べないものであることを知らされたのです。


では、人生の目的とはどんなことなのか。

(つづく)

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因果の道理 認めたくない人たち

2011-07-14 18:31:40 | Weblog
(1) 因果の道理が成り立つとどうして言いきれるのか?科学で立証されてもいないことを大宇宙の真理だと信じ込まされているだけではないのか?という非難に答える

●まず、問題をシンプルに整理するならば、

 ・因果の道理は成り立つ   
 ・因果の道理は成り立たぬ

真理は、このどちらかということだ。
どちらも正しいとか、どちらも間違いということはない。

●確かに、因果の道理は科学で立証されているわけではない。
でも、これが間違いと言うなら、
「因果の道理は成り立たぬ」が真理と言っていることになるが、
それは科学で立証されているのか?

立証されてない。

●だとするならば、「科学で立証」云々したところで意味ないではないか?
問題は至ってシンプルなのだから、
「因果の道理が成り立つ」か
「因果の道理は成り立たない」か
そのどちらかを選べばいいのである。

●「信じ込むのは悪いこと、いけないこと」とご注意くださる人もあるが、「信じ込むことは、いけないことだ」とその人も信じ込んでいるのだから、一見、まともに見えて不毛な議論であろう。みんな何かを信じ込んで生きているのである。

●問題は、何を信ずるかであろう。信じ込むこと自体は、別に善でも悪でもない。
詐欺師を信ずれば不幸になるし、尊敬に値する人を信ずれば幸せにもなれよう。

では、一部の人が目の敵のようにして非難する「因果の道理」を信じ込んで何が悪いのか?

一応、念のために言っておくと、因果の道理とは、釈尊の教説であり、仏教の根幹をなす重要な教えである。

●「因果の道理が成り立つ」と信じてる人と、「因果の道理は成り立たぬ」と信じてる人とでは、その生き様、考え方は180度変わるだろう。

●「因果の道理は成り立つ」が大宇宙の真理と信ずる人は、「蒔いた種は必ず生える。蒔かぬ種は絶対生えない」を信じている。
では、どんな種からどんな結果が出てくるか。
その関係を釈尊は、善因善果、悪因悪果、自因自果と教えられている。


●因果の道理、善因善果、悪因悪果、自因自果が大宇宙の真理であると信ずれば、どういう心が出てくるか。「廃悪修善」の心。

●なぜ善因善果、悪因悪果、自因自果を信ずると、廃悪修善の心になるか。

廃悪とは、悪を恐れる。だれしも、悪果は来てほしくない。
悪果は、悪い種から出てくる結果と信じたら、悪い結果の出てくる悪因を恐れる。
悪因悪果、自因自果を信じる心が、廃悪の心。

悪いことをやっても、悪い結果が来るとは限らないでしょう、と思ったら、悪いことは恐くなかろう。

●修善とは、善因善果、自因自果を信ずる心。誰しも善果ほしい。
善果は善因から生じる。それで善因を欲しがる。それが修善。

●善因善果、悪因悪果、自因自果を信ずる心が廃悪修善。

廃悪修善は、因果の道理を真理と信ずる心からしか出てこない。

深く信ずれば信ずるほど、廃悪修善の心は強く、あまり信じていないのなら、それに相応した廃悪修善の心であろう。

●「因果の道理が大宇宙の真理である」と認めるのを拒否する人は、「因果の道理など成り立たない」というのが大宇宙の真理と言いたいわけだろう。

ということは、
蒔いた種は、必ずしも生えない。
蒔かぬ種も時には現れる。
善因が善果を生むとは限らない。
悪因が悪果を生むとは限らない。
自分の蒔いた種が自分に結果をもたらすとも限らない。
それが真理と信じていることになるね。

●もし、因果の道理を大宇宙の真理と受け付けないなら、悪を恐れ、善に努めることにどんな意味があるのだろう?

たとえば、
「善い種を蒔いても、善い結果が来るとは限らない。
だから善いことをしましょう」で通じるか?
「悪いことをしても、悪い結果が返ってくるとは限らない。
だから悪いことはやめましょう」で納得できるか?
「自分のやったことが、自分に返るわけではないから、一生懸命努力しましょう」
と言われて、努力する気になるか?

それは、廃悪修善とは反対の心であり、反対の方角に向かって生きていくことになる。反対のことを信じているのだから当然である。

●では、因果の道理は成り立たないのが真理だと信じている人は、人間の運命の因果関係について、どういう見解でいるのか?

●そんな人は、次の3つの間違った見解に陥ると、釈尊は教えておられる。

人間の運命は、(1)神  (すべて神から与えられる)
(2)運命論(最初から運命として決まってる)
(3)因も縁もない。因果関係はなく、すべては偶然の産物。
のいずれかになる。

●神によって運命が与えられるならば、神に嫌われたら大変である。
神様を怒らせたら、どんな目に遭わされるか分からない。
大学すべったのも、離婚したのも、地震で家が潰れたのも、みんな神様のせい。だとしたら、そのような存在は甚だ迷惑千万であろう。

●運命論。すべて決定してる。だとしたらオリンピックなんて意味のないこと。
運命であらかじめ順位が決まっている。それでも額に汗して一生懸命走る気がするだろうか?
どうせ未来は何も動かない。決まったとおりにしかならないのなら空しくないか?
泣いたり笑ったり、感動したり、決意したり、努力したり、人生のすべてが茶番劇。
未来を変えられないのなら善を為し、悪を戒めることに何の意味があろう。
すべては運命として、決まっているのだから。

●因も縁もない。すべては偶然。
だとするなら、善を為し、悪を戒める努力が無意味になろう。
善いことをしても不幸に、悪いことやっても幸せになれるのなら、善など勧める意味があるまい。

●というわけで、因果の道理は別に科学で立証されてはいないが、だからといって「だまされた!」などと大騒ぎするのも短絡的に過ぎよう。成り立たないことだって立証されてないのだから。

だけど、どうしても「因果の道理は成り立たない」という立場をとりたい、そこにしがみつくような人たちがいるのである。

それもまた自由ではあるけれど、そんなことを信ずる心は、廃悪修善とは逆の心。
信ずれば信ずるほど、その人自身が破滅するし、あなたに同調する人が増えれば増えるほど、世の中全体が混乱し、破滅に向かうことだろう。

してみれば危険な存在である、因果の道理を信じない人は。

●因果の道理を認めない考え方は、お釈迦様の時代からあった。
六師外道といって、六人の外道の親分がいた。
その人達の中には、運命論を言う者もいれば、偶然だと言う人もいた。
それらをお釈迦様は、外道と言われた。
2600年もたってるのに、いまだそんなこと言う人たちがある。

科学だ文明だ、進歩だとか言っているけれど、人間の愚かさは変わらないようである。
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人生論の必要ない人たち

2011-07-06 20:08:29 | Weblog
勢古浩爾(せこ・こうじ)は、『結論で読む人生論』の中
で次のように言っています。


>「順風満帆な人生には人生論なんかまったく必要がない。
>『人生とは何か?』『生きる目的は何か?』という問い
>が浮かぶはずもないからである。
>え? 君たちは楽しみないの?
>とか言われて終わりである。

>まったく可愛くない連中である。勝手にやってもらう
>しかない。

(中略)

>得意の絶頂にあって他人を見下していた人にも、いずれ
>人生論はやってくるだろう。残念でした。

>不測の失敗や不慮の事故や不意の病気に襲われたときに、
>『調子に乗っていたおれはバカだったのか。なんてのぼ
>せあがった 人生だったことか』と。

>そう、バカだったのだね君は。人生を舐めすぎていた
>のだ。でも一皮むけた人生に出会えることはいいことだ」



昔、テレビの深夜枠で「11PM」という番組があり、基本はお色気系でしたが、ときどき真面目な特集もやっており、
「あなたは何のために生きていますか?」
というテーマで、ある日、放映していました。
内容は、インタビュアーがマイク片手に日本列島を縦断して、老若男女に上記の質問をするというものでした。

職業は千差万別、農家の人から会社員、実業家、医者、学生、さらに風俗嬢まで多種多様の人に問いかけていました。

その時、マイクを向けられた人の回答は、どうだったか。

一つのパターンとして、
「そんなこと考えたことありません!」と言って、不機嫌な顔をして過ぎ去っていく。あるいは、
「う~ん」と暫く考えた後、
「生きるために生きるんだろうねぇ」
というのが、結構ありました。

でもこれは答えになっていないのは明白で、 例えば歩いている人に、「何で歩いているのですか?」と聞けば、普通、「駅へ行くためです」「学校へ行くためです」というような答えが返ってくるのを、だれしも予測する。

ところが、「そんなこと考えたことありません!」
と不機嫌な顔をしてそのまま歩いていったり、
「う~ん」と考え込んだ挙句、
「歩くために歩くんだろうねぇ」なんて
言われた日には、皆さんどう思われるか?

異様ではないか。

しかもそんな人ばっかりだったら、なおさら不気味である。

もう一つのパターンは、
「家族を支えるため」「世の中に貢献するため」
という回答です。

これは一見、もっともらしく聞こえるけれど、やはりおかしい。おかしいというのは、問いの本質がはぐらかされているという意味で。

どうすることが相手を「支える」ことになり、「貢献する」ことになるのか。
その辺は考えたことがあるのだろうか?

立場を変えてみよう。もし見ず知らずの誰かに、
「私はあなたを支えるために生きています」
「あなたに貢献するために生きています」
と言われて、何も感じないだろうか?
困っているところを助けられ、生活できるようにしてもらえたら有難いけれど、あなた自身の生活はどうなんですか?私を支えるだけでいいのですか?あなた自身の生活には、何の目的もないのですか?と言いたくなるだろう。

よろよろ歩いている人に、「私はあなたを支えたいから、付き添って歩きます」と言っているようなもので、それは有難いサポートだけど、歩くために歩くのではなかろう。どこへ行くのか?問われているのはそこである。

こんな話なら誰でも分かるだろうが、こと人生のことになると、なぜか皆、賢くなってしまって、「人生の目的」くらい自分で分かると考えている。それは「人生の目的」といわれることの意味がまだよく分からず、趣味・生き甲斐のことと勘違いするからであろう。またそうとして思えないのも事実である。

だから、人生の目的を尋ねられているのに、
「お金を稼ぐため」というような答えが多かった。
インタビュアーが意地悪く、
「そのお金でいちばん何が欲しいんですか?」
と重ねて聞く。すると「車が買いたい」とか「家が欲しい」とか言ってくる。
そこでとどめ
「じゃあ、あなたは車を買うために生まれてきたということですか?」
相手は絶句していた。

全体の約3分の1が、金や自分の趣味を「生きる目的」と答えていた。
その人その人、楽しみにしていることがあり、釣りやスポーツ、囲碁将棋、旅行、音楽、映画、読書……。 それをやりたくて生きています、ということなのだろう。

趣味は趣味としていい。それが生き甲斐となるほど楽しいものなら、それはそれでかまわないのだが、生きる目的とはそういうものとは違うだろう。

そんなことのために、人生の幾山河乗り越えて、棺おけまでひたすら歩き続けるのか?
どんなに苦しくても、歯を食いしばって生きていくのは、趣味をやるためなのか?

冷静に考えるほど、人生の目的という言葉の意味が重くなる。


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死後について

2011-07-03 20:25:50 | Weblog
実証的、科学的思考が私たちの生活にすっかり根付いてしまった今日、「死後」の実在を云々することは、なにかの宗教を妄信している人や、オカルト趣味の人のすること、という印象が強く、そんな人とは距離を置く、まともにとりあわないというのが、「健全な大人」の常識的対応と考えられます。

なるほど、体に何の異常もなく、明日という日を素直に信じられる間は、「死後」の問題は、知識欲から来る興味の対象ではあっても、切実な自己の問題ではないと思います。
東本願寺の人に言わせると、「自分の『現在』を問わないで『人は死んだらどうなるのか』と考えることは、私たちを出口のない路に迷わせる」のだそうですから、なおさらです。

それよりも原発事故による放射能汚染や、復興際策、失業対策、つまり「どう生きるか」という問題が、当面の重大事と受け止められるだろうと思います。

しかし人間、だれしも、遅かれ早かれ死なねばなりません。原発事故が収束しても、東北の町が復興してもです。

この死に直面した時、つまりどう生きるもこう生きるもない、「もう明日という日はない」という局面に立たされた時、心のなか一面に浮上してくるものは何でしょうか。

それは家族や、やり残した仕事のこと?
むろん、それもあるでしょう。
でもギリギリのところ、それらはむしろどうでもよくて、最後の最後は自分の行き先、つまり、死後が大問題となってくるのです。

釈尊は、「大命将に終わらんとして悔懼交々いたる」と説かれ、臨終には人生の目的を果たせなかった後悔と、死んだ後への恐れが代わる代わるやってくると教えておられます。

それまで、どうでもいいやと軽く思っていた死後の問題が、急に問題の質を変え、心の最も弱い部分に、突き刺さるように食い込んできます。


「死んだら死んだ時じゃ、わしゃあ、なんも怖ないで。 カッ、カッ、カッ!」
と豪語していた人が、臨終に、この問いの真の重さに気がついて、懊悩するのです。
私はそういう人たちを何人も見てきました。

その時、それまで仕入れた知識を総動員して、それらしい解答を出そうとしてもムダです。
ムダだというのは、本人が自分の出したその答えに納得しきれないということです。


ここに二人の人の意見をここに挙げておきます。一人は有名な学者、もう一人は無名の、仏法を熱心に聴いているある婦人です。

まず、以前ベストセラーになった養老猛氏の『死の壁』(新潮新書)に書かれてあったことを挙げておきましょう。

◆〈死について考えるといっても、自分の死について延々と悩んでも仕方が無いのです。そんなのは考えても答えがあるものではない。したがって「死の恐怖をいかに克服するか」などと言ったところでどうしようもない。(中略) 寝ている間に死んでしまったら、克服も何もあったもんじゃありません。意識がないんですから〉(165ページ)

◆〈死んだらどうなるのかは、死んでいないからわかりません。誰もがそうでしょう。しかし意識が無くなる状態というのは毎晩経験しているはずです。眠るようなものだと思うしかない。そんなわけで私自身は、自分の死で悩んだことがありません〉(167ページ)



 死ねば「死んだ」と意識する自分がいなくなるから、一人称の死は存在しない。だから死について悩む必要も、考えることもないと、この本には繰り返し述べられています。
 
 次に上げるのは、ガンの宣告を受け、実際に生死の境をさまよったUさんが、『死の壁』について語ったものです。

 *        *        *

◆医者からガンの告知をされた瞬間、耳元から冷たい清流がどっと頭の中に流れ込んできて、その時を境に、思考と感動を忘れてしまいました。
 途方もない孤独、それしかありません。これが死の宣告を受けた時の私の心です。
 養老さんは、「死んだらどうなるか分からない、考えても答えはない」と言いながら、「悩んでも仕方ない」という答えを出しています。
 しかし死に直面する時は、自分の今までの知識や経験などすべてをもってしても、「死んだらどうなるか、分からない」のです。結論が出せないのです。自分のすべてが間に合わない"分からなさ"なんです。本当に分からないとはそういうことです。だから、ものすごく困惑する。この人が言っている程度の「分からない」とは深刻さが全く違う。もっともっと奥から出てくる、「死んだらどうなるか分からない」心です。
 なにしろ、周りじゅう何もないんです。すべて消えてしまうのです。「空白」というときれいな感じがしますが、きれいでない。「空間」というと境界を考えますが、限りもない。ただ茫漠とした、何もないものが広がっている。それは、「暗い」としか言いようがありません。
何もないのに、どうにもならない私だけがある。「分からない」という自分だけがいるのです。
 私は今、健康を取り戻していますから、本当に死んでいく時の闇は、この程度ではないと思います。本の帯に〈逃げず、怖れず、考えた最終解答〉とありますが、本質的なところは「逃げて、怖れて」ごまかしたのでしょう。もう少し、人間の生に真摯であってほしい。
 この本の読者が、「死について悩まなくてもいいんだ」と思っても一時的なことで、養老さん本人も含めて、魂の叫びはごまかせないと思います。

 *        *        *


どちらが、人間の真実に迫った見解だろうか。
それは読者諸賢に委ねます。

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