静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

真実の自己(7)心常念悪

2019-02-14 11:19:47 | Weblog
私とはどんな人間か、その本当の姿を知るには、仏という鏡を見ることが大切であると、前回お話しました。
 仏という鏡を法鏡ともいいます。法とは真実のことで、真実の自己を映す鏡、それが法鏡です。この法鏡を見るとは、仏教を聞くことをいうのです。
 お釈迦さまは『大無量寿経』というお経に、私たちの姿を、

心常念悪
口常言悪
身常行悪
曽無一善

と説かれています。
 これは「心は常に悪を思い、口は常に悪を言い、身は常に悪を行って、曽て一つの善もなし」と読みます。
 こう聞くと「そんな悪い奴がいるんですか。そりゃあ早く捕まえて、刑務所に入れないといけませんな」と思う人はあっても、これが自分のことだと思う人はいないと思います。
 なぜなら、この「常」という字が問題です。これが「時々」とか「たまたま」という字なら分かります。「心は時々悪いことを思う」「口は時々悪いことを言う」「身はたまたま悪いことを行う」。これなら「私のことかな」と自覚できますが、「常に」と言われると、「そこまでひどくはなかろう」と思ってしまいます。
 しかしお釈迦さまは、今、世界に70億の人がいるとして、その中にはこんな悪い奴もいるということではなく、70億いれば70億、皆、こんな姿をしていると仰るのです。
 信じ難いことかもしれませんが、世界の三大聖人、二大聖人といっても、トップにあげられるお釈迦さまが、いい加減なことを仰るはずはありません。ではなぜ、こう言われるのか、それをよく聞かせていただきましょう。

 まず仏さまは、私がどんな人間かを見られるのに、心と口と身の3つを見ておられることに着目してください。
 ここが世間一般の見方と違うところです。例えば裁判で人を裁く場合、その人が実際にやった「言動」を問題にします。心で思っただけなら、他人に迷惑をかけたわけではないので、問題にしません。たとえ心で、「殺してやりたい」と思ったとしても、それを口に出したり、実行しない限り罪に問われることはありません。
 ところが仏教では、「殺るよりも 劣らぬものは 思う罪」といわれて、たとえ身体で殺さなくても、口で「殺してやる」と言わなくても、心で思えば罪になると教えます。しかもそれは、身や口で犯す罪より、ずっと重いといわれるのです。
 なぜかといいますと、私たちの言動、つまり口や身の行為といいましても、それをさせている大元はすべて心にあるからです。

 例えば、今、あなたはパソコンの前におられると思いますが、あなた身体が勝手にそこまで動いてきたのではないはずです。あなたの心が「パソコンの前に座れ」という指令を出し、身体はそれに従っただけです。
 また、私が今ぺらぺら話をしております。これは口の行為ですが、私の口が勝手に話しているわけではありません。「次はこう言えよ」「その次はこう言うんだぞ」と心がそういう指令を出しているのです。
 このように、私たちの言動というのは、全て心の指示です。ですから身体や口がやったことより、そういう指示を出した「心」を重く見るのは当然のことなのです。
 では私たちは、心でどんなことを思っているでしょうか。お釈迦さまは、そこに貪欲、瞋恚、愚痴という3つの悪があることを教えておられます。

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