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真実の自己(5)他人鏡に映る自分

2019-02-12 15:47:34 | Weblog
前回、私というものを映す3枚の鏡があることを話しました。自分のこの姿形なら、洗面所の鏡に映りますが、ここで言う鏡とは、私はどんな人間か、その善悪を映す鏡のことです。
 これに3枚あって、一つは他人という鏡。次に自分という鏡。そして仏という鏡です。

 まず他人鏡とはどんな鏡かといいますと、他人からの評価のことです。つまり自分は、他人からどう評価されているか、それを他人鏡を見ると言っています。
 自分が高く評価されたり、ほめ言葉を聴くといい気持ちになりますが、耳の痛い批判は誰しも聞きたくないものです。でも、そこに耳を傾けるのは大事なことです。
 例えば、顔にご飯粒をつけたまま、知らずに町を歩いていたとします。その時、誰かが注意してくれなければ、そのままずっと恥をかき続けることになります。だからお釈迦さまは、自分の悪いところを注意してくれる人があれば、宝のありかを示してくれる人だと思って、有難く感謝しなさいと教えておられます。
 ですから、「おまえのこういうところはよくないよ」と言われた時、「それは違う」と否定したり、腹を立てていては、誰も注意してくれなくなります。結局それで損をするのは自分なのです。
 このように他人鏡は必要なものです。しかしここに私の本当の姿が映るかというと、実は大きな欠陥があります。
 どういう欠陥かといいますと、映す人の都合で、評価がころころ変わってしまうということです。つまりこの鏡は、都合のよい人は「善人」と映しますし、反対に都合の悪い人は「悪人」と映します。
 例えば、皆さんの家にピストルを持った強盗が入ってきたとします。ちょうどそこへ巡回中のおまわりさんがやって来ました。そのおまわりさんを見た時、あなたは地獄で仏と思うでしょう。しかし強盗は、自分を捕まえに来た鬼と出くわしたように思うはずです。
 同じ警察官を、あなたは仏と見て、強盗はそれを鬼と見る。同じ人なのに、こんなに評価が分かれるのは、見た人の都合によるからです。
 また、好感度ナンバーワンと言われる有名人が、スキャンダルを週刊誌にスクープされたりすると、「こんな人だとは思わなかった」と、一ぺんにイメージダウンします。善人で通っていた人ほど、だまされた気がして悪く言われてしまいます。
 そうかと思うと、極道といわれる人が人助けなどすると、「本当は善い人なんだ」と、いっぺんに評価が上がります。
 このように他人鏡とは、その人の都合で評価が正反対に分かれたり、あるいは過ち一つで一斉にこき下ろすかと思えば、一つ善いことをしただけで善人と持ち上げたり、善・悪の評価がコロコロ変わりますから当てになりません。
 これを頓智で有名な一休和尚は、「今日褒めて、明日悪く言う人の口 泣くも笑うも ウソの世の中」と歌っています。褒められても謗られても、その人その人の都合で言っているだけですから、そんな言葉に一々泣いたり笑ったりしているのはバカげたことだよと歌ったものです。
 諺にも、「惚れて眺めりゃあばたも笑窪」とありますように、好きな相手なら、その人の欠点まで長所に思えます。反対に「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」で、憎い奴だとその人のやることなすこと気に入らない。善いところまで貶そうとします。
 他人の評価とはそういうものと分かれば、「豚は褒められても豚、ライオンは謗られてもライオン」。私は私なのですから、他人の評価に一喜一憂してきたことが、「泣くも笑うもウソの世の中」と知らされてきます。
 こうした欠点が他人鏡にはあるので、無視してもいけませんが、ここに本当の私の姿は映らないのです。
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