静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

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親鸞聖人は死後を認めておられなかったのか?

2012-07-24 16:38:46 | Weblog
親鸞聖人は、死後の浄土は認めておられなかった。
と理解し、宣伝する学者が、近年特に増加している
ようです。
しかし、それが親鸞聖人の教えであるか、否かは、
あくまでも、聖人のお言葉によって判定されなけれ
ばなりません。そのほか、何人の想像も推測も許さ
れません。

親鸞聖人は、こう仰っています。

「悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の
大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証
の証に近づくことを快しまず。恥ずべし、傷むべし」
               (『教行信証』信巻)
情けない親鸞だなぁ。愛欲の広海に沈み、名誉欲と利
益欲に振り回されて、仏になれる身(定聚)になった
ことを喜ばず、日々、浄土(真証の証)へ近づいてい
ることも、ちょっとも楽しまない。なんと恥ずかしい
ことか、情けないことよ。

この世で、弥陀の救いにあったことを
「定聚の数に入る」と言い、死後の浄土(真証の証)
には「近づく」と言われて、弥陀の救いに現・当二益
あることを慎重に言葉を使い分けて、明らかにされて
います。
このように、今生と死後の、二度の弥陀の救いのある
ことを説かれた、聖人のお言葉はたくさんあります。

娑婆世界と死後の浄土を明確に区別されていることは、
『末灯鈔』のご文でも十分、分かると思います。

「この身は今は歳きわまりて候えば、定めて先立ちて
往生し候わんずれば、浄土にて必ず必ず待ちまいらせ
候べし」               (十二通)

親鸞は、今生の終わりに近づいた。先に浄土へ往って
待っているから、間違いなく必ず来なさいよ。


「信心の定まると申すは摂取にあずかる時にて候なり。
その後は正定聚の位にて、まことに浄土へ生まるるまで
は候べし」(十三通)
〝信心が定まる〟とは、摂取不捨の絶対の幸福になった
ときである。それから浄土で仏になるまでは、必ず、
弥陀の浄土へ往ける正定聚の身になるのである。


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そらごとたわごと真実あることなし

2012-07-16 12:17:22 | Weblog
親鸞聖人はこのように仰っています。

「煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、
万のこと皆もってそらごと・たわごと・
真実あることなきに、ただ念仏のみぞ
まことにておわします」(歎異抄)

火宅のような不安な世界に住む、煩悩
にまみれた人間のすべては、そらごと、
たわごとばかりで、真実は一つもない。
ただ弥陀より賜った念仏のみが、まこ
とである。


そらごと・たわごと・真実あることなしの
【煩悩具足の凡夫】が、
そらごと・たわごと・真実あることなしの
【火宅無常の世界】を生きている。
これがこの世の真相だから、

「何のために生きるのか」
「死んだらどうなるか」

こうした、万人とって、最も肝心のことさえも、
誰一人、本当のことが分からない。

分からなくても、人はそれぞれ人生の難度海を
渡っていかねばならない。それは行く先知れぬ
不安な旅路である。

やがては、この難度海の藻屑と消えていく定め
なのだが、その間、頼もしそうな丸太や板切れが
見つかれば、一生懸命すがりつく。
溺れる者には、それが最も逼迫した大事と思え
ても無理はない。

丸太というのは、名門大学という肩書きや学業
成績、専門知識、一流企業というステイタスや、
仕事の業績、社内の評価や地位、
また個人的には、家庭や財産、健康といったもの
を指しての事だ。

こういう丸太や板切れにつかまって、難度の海を、
どうにかこうにか、死ぬまでの日々をしのいでいる
のが私たちである。

だが一切は、聖人の仰るとおり、
「そらごと・たわごと・真実あることなき」世界の
砂上の楼閣であり、やがては覚める幻想である。

ただ、こうした夢幻の現実世界に、
「ひとつだけ間違いなく言えることがあります」
というものがあるとすれば、このことであろう。

それは、
「死」という現実であり、100パーセント確実に
直面する「後生」の問題である。

科学や哲学といえど、「真実あることなき」
凡夫が築いた学問である以上、生きる目的も、
後生も不問にせざるをえない。

だからこそ、親鸞聖人の仰られるとおり、
「念仏のみぞまこと」
つまり、
弥陀の誓願という、難度の海を明るく楽しく渡して
くださる大船がありますよ!だから早く乗せていただき
ましょう!と言っているのだが、

こう言うと、
「恋人ですら、相手の人生の目的とかなぜ生きるか
といった話には立ち入れない」
と思っている人たちからは、
「本当の目的を教えてやろうと出しゃばること
なんて許されることではない」
と、大変な〃お叱り〃を受ける羽目になる。

宮台真司氏に至っては、
「バカヤロー、てめえよりは答えをいっぱい知ってるよ」
なんだそうであるが、
「答えがいっぱいある」ということは、そのどれもが
丸太や板切れ、つまり「そらごと・たわごと」なのでは
なかろうか?

いずれにせよ、皆、煩悩具足の凡夫の言うことだから、
さるべき業縁がくれば、どんなことでも言うであろうし、
何を言われようとまた、別段、驚くことでもない。

ただ、
あちらの人は、「個人の尊厳」という言葉が大好き
らしく、何回も何回も強調していた。
さて、
「煩悩具足の凡夫」の尊厳とは、何を指してのこと
なのだろう?

言葉を変えれば、

欲も多く、瞋り腹立ち、そねみねたむ心多くひまなくして、
臨終の一念に至るまでとどまらずきえずたえない「凡夫の
尊厳」である。

「個人の尊厳」が大好きなのは分かったが、それこそ
煩悩具足の凡夫の考えた「そらごとたわごと」ではなか
ろうか。煩悩自体に尊厳などあろうはずがないからだ。

だが、
そんな「そらごと・たわごと」を言っている人たちにも、
必ずそれが「そらごとたわごと」と明らかに知らされ、
大船に乗託させられる日が来るのである。

そうなさしめる弥陀の本願力の尊厳こそ、讃嘆してもらい
たいもので、煩悩の塊など讃嘆しなくてもよかろう。
一般の人が相手なら、ここまで言う必要も感じないが
真宗の坊主なら、それくらい知っておいてもらいたいもの
である。


親鸞聖人は、〃個人の尊厳〃に踏み込んではならない
から、信じたい人にだけ、聞かせればいいとは
仰っておられない。

「如来二種の廻向を 十方にひとしくひろむべし」
「道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説」
「聞思して遅慮することなかれ」 

「全世界にひとしく広めなさい」
「すべての人よ信じなさい」
「遅慮してはなりませんよ」
と、相当〃踏み込んで〃仰っておられる。


もちろん、だからと言って、相手の都合おかまいなし、
を推奨するものではありません。念のため。
コメント

なぜ生きる

2012-07-14 09:12:53 | Weblog
「なぜ生きる」の親鸞聖人のお答えです。

◆難思の弘誓は難度の海を度する大船、
無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり。
            (教行信証)

「弥陀の誓願は、私たちの苦悩の根元で
ある無明の闇を破り、苦しみの波の絶え
ない人生の海を、明るく楽しく渡す大船
である。この船に乗ることこそが人生の
目的だ」


◆大悲の願船に乗じて、
 光明の広海に浮びぬれば、
 至徳の風静に、
 衆禍の波転ず。(教行信証)

「大悲の願船に乗って見る人生の苦海は、
千波万波きらめく明るい広海ではないか。
順風に帆を揚げる航海のように、何と生
きるとは素晴らしいことなのか」


◆生死の苦海ほとりなし
ひさしくしずめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ
のせてかならずわたしける (高僧和讃)

「苦しみの波の果てしない海に、永らく
さまよい続けてきた私たちを、大悲の願船
だけが、必ず乗せて渡してくださるのだ」


◆誠なるかなや、
 摂取不捨の真言、
  超世希有の正法、
 聞思して遅慮することなかれ。
           (教行信証)

「まことだった!本当だった。弥陀の誓い
にウソはなかった。皆々、聞いてもらいたい、
この親鸞が生き証人だ。早く、弥陀の誓願
まことを知ってもらいたい」


参考までに……

★「なぜ生きる」の本願寺門主の答え

「人はなぜ生きているのでしょうか。
ひと言で答えられるような答えは見つからない
と思います」(『朝には紅顔ありて』)


門主自身の考えはそうであっても、親鸞聖人の
お言葉を示すべきではないかと思われる。

しかし、朝日新聞の対談で語っているように、

「親鸞聖人が、こうおっしゃったとか、教えは
こうだ、というだけでは不十分だと思います」
       (朝日新聞 平成18年1月1日)

という考えの持ち主のようなので、ないものねだり
するようなものかとも思う。

門主という立場での公式の対談であるから、単に
一個人の見解を述べたではすまず、浄土真宗の
正統派を名乗る人たちの総意とみなされても仕方
ないのではなかろうか。
事実、正統派内で異議申し立てがあったという話は
寡聞にして聞かないのだから。

ネット上で騒いでいる人たちも、
「人生の目的」だとか「なぜ自分は生きるのか」
という問題は、他人はもちろん親兄弟、それどころか
妻夫や恋人であっても立ち入ることのできないプライ
ベートな問題だと言っているようなので、門主の考え
ていることと似たり寄ったりと思われます。

その人たち自身の考えというなら、それはそれで
とやかく言う筋合いではないが、親鸞聖人の教えと
して主張するなら、
「それは違う」
と言わざるをえない。








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闡提とは

2012-07-01 14:36:52 | Weblog
闡提(せんだい)とは何か?
『真宗大辞典』には次のように説明されている。

【闡提】 
『涅槃経』に「一闡提は因果を信ぜず、慚愧あることなし、業報を信ぜず、現及び未来世を見ず、善友に親しまず、諸仏所説の教誡に随わず、是くの如きの人を一闡提と名く、諸仏世尊も治すること能はざる所なり」とある。
これは善因善果悪因悪果の理を信ぜずして、たとひ善をなすも善果を得ることがない、悪をなすも悪果を招くことがない、過去世もなければ未来世もないと断定して善を尊び悪を怖るる心の全く無い人を一闡提と云うとするのである。この人は善を修する根本的精神を断滅しているから断善根の人と称えたのである。
 
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