親鸞聖人は、死後の浄土は認めておられなかった。
と理解し、宣伝する学者が、近年特に増加している
ようです。
しかし、それが親鸞聖人の教えであるか、否かは、
あくまでも、聖人のお言葉によって判定されなけれ
ばなりません。そのほか、何人の想像も推測も許さ
れません。
親鸞聖人は、こう仰っています。
「悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の
大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証
の証に近づくことを快しまず。恥ずべし、傷むべし」
(『教行信証』信巻)
情けない親鸞だなぁ。愛欲の広海に沈み、名誉欲と利
益欲に振り回されて、仏になれる身(定聚)になった
ことを喜ばず、日々、浄土(真証の証)へ近づいてい
ることも、ちょっとも楽しまない。なんと恥ずかしい
ことか、情けないことよ。
この世で、弥陀の救いにあったことを
「定聚の数に入る」と言い、死後の浄土(真証の証)
には「近づく」と言われて、弥陀の救いに現・当二益
あることを慎重に言葉を使い分けて、明らかにされて
います。
このように、今生と死後の、二度の弥陀の救いのある
ことを説かれた、聖人のお言葉はたくさんあります。
娑婆世界と死後の浄土を明確に区別されていることは、
『末灯鈔』のご文でも十分、分かると思います。
「この身は今は歳きわまりて候えば、定めて先立ちて
往生し候わんずれば、浄土にて必ず必ず待ちまいらせ
候べし」 (十二通)
親鸞は、今生の終わりに近づいた。先に浄土へ往って
待っているから、間違いなく必ず来なさいよ。
「信心の定まると申すは摂取にあずかる時にて候なり。
その後は正定聚の位にて、まことに浄土へ生まるるまで
は候べし」(十三通)
〝信心が定まる〟とは、摂取不捨の絶対の幸福になった
ときである。それから浄土で仏になるまでは、必ず、
弥陀の浄土へ往ける正定聚の身になるのである。
と理解し、宣伝する学者が、近年特に増加している
ようです。
しかし、それが親鸞聖人の教えであるか、否かは、
あくまでも、聖人のお言葉によって判定されなけれ
ばなりません。そのほか、何人の想像も推測も許さ
れません。
親鸞聖人は、こう仰っています。
「悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の
大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証
の証に近づくことを快しまず。恥ずべし、傷むべし」
(『教行信証』信巻)
情けない親鸞だなぁ。愛欲の広海に沈み、名誉欲と利
益欲に振り回されて、仏になれる身(定聚)になった
ことを喜ばず、日々、浄土(真証の証)へ近づいてい
ることも、ちょっとも楽しまない。なんと恥ずかしい
ことか、情けないことよ。
この世で、弥陀の救いにあったことを
「定聚の数に入る」と言い、死後の浄土(真証の証)
には「近づく」と言われて、弥陀の救いに現・当二益
あることを慎重に言葉を使い分けて、明らかにされて
います。
このように、今生と死後の、二度の弥陀の救いのある
ことを説かれた、聖人のお言葉はたくさんあります。
娑婆世界と死後の浄土を明確に区別されていることは、
『末灯鈔』のご文でも十分、分かると思います。
「この身は今は歳きわまりて候えば、定めて先立ちて
往生し候わんずれば、浄土にて必ず必ず待ちまいらせ
候べし」 (十二通)
親鸞は、今生の終わりに近づいた。先に浄土へ往って
待っているから、間違いなく必ず来なさいよ。
「信心の定まると申すは摂取にあずかる時にて候なり。
その後は正定聚の位にて、まことに浄土へ生まるるまで
は候べし」(十三通)
〝信心が定まる〟とは、摂取不捨の絶対の幸福になった
ときである。それから浄土で仏になるまでは、必ず、
弥陀の浄土へ往ける正定聚の身になるのである。