静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

熱さまし・・

2012-09-29 10:18:02 | Weblog
九州の、ある本願寺僧侶が、自著の中で『歎異抄を
ひらく』という本を参考文献に上げ、『ひらく』の
著者の本は、
「やはり安心して読めます」
と書いているそうです。

それをこちらが好意的に取り上げたことについて、
件の坊主が、本願寺の僧侶に褒められ、あたかもこちら
が舞い上がっているかのように(例の如く早合点して)
書いているようです。

残念ながら、本願寺の僧侶に褒められて喜ぶ人は、
こちらにはありません。

なら、「なぜか?」の疑問もあるかもしれませんが、

「一葉落ちて天下の秋を知る」

そう言っておけば、察しのいい人には十分でしょう。

加えて言えば、件の坊主は、その九州の僧侶に対して
「少しでも浄土真宗を学んだ人なら最初の10ページで
放り投げたくなるでしょう」
とか、
「この人にとっての他力とは、自分の心のもちようで
楽になれるよくらいの自己セラピーでしか無いのだと
思います」
と厳しく批判しています。

この点に関しては、珍しく件の坊主と意見が一致しま
したが、だとするなら、なぜ彼らの教団は、こういう
間違ったことを教える僧侶を、そのままにしておける
のでしょう。

教団の命は、「教え」でありましょう。
教団とは、一つの教えに心を同じくし、その通り伝え
ようとする同志の集まりです。
教えの理解が統一されておらず、教えを乱す者が、その
まま身を置けるような教団なら、それはもう「教団」と
しては生命は終っているのでしょう。
鶏の首を切っても、しばらく走っているようなもので、
物体としては動いていても、生命体としては終わってい
ます。

さらに件の坊主は、『歎異抄をひらく』という本の著者
に対して、

「数千人の前でおおはしゃぎ」
とか
「こんなことする人は・・・・以外に世界に1人もいま
せん。なぜか。あまりに恥ずかしいからですよ」
とか、
「ほんとに頭大丈夫なのか真剣に考えて欲しいです」
とか、
「本願寺に認めてもらいたくて認めてもらいたくて仕方
がないのでしょう」
とか、
「周囲のイエスマンと検閲済みの『お手紙』でいくら
賞賛されても飽きたらず、自分を追い出した本願寺を
見返したくて仕方がないのでしょう。大した自己承認
欲求です」

と、実名を出して悪口中傷のオンパレードです。

【個人の尊厳】については随分やかましいのに、
ここまで見当違いの憶測、暴論を重ねて一人興奮し、
他人の【個人の尊厳】を傷つける人は珍しいと思います。

件の坊主は、他人から自分のことをとやかく言われると、
「憶測だ!」と腹を立てるくせに、自分のやっている
ことになると、牛のように鈍感のようです。

しかし、一般的に言えば、
他人の「個人の尊厳」を踏みにじる人は、自分の「個人
の尊厳」を主張する資格はないと考えられます。
もちろん、主張するのは自由ですが、そういう人は
信用されないということです。

隣国で、自分勝手な言い分を押し通すため、
日本の国旗に火をつけ、踏みにじり、さも善いことでも
したかのように、徒党を組んで正義漢を気取っている
人たちが、写真や映像で公開されています。

ああいう手合いに堕ちたいのならそれも自由ですが、
事は仏法なのですから、なおさらやめたほうがいい
でしょう。

方便を悪しということは有るまじき

2012-09-25 21:05:15 | Weblog
私たちを真実に導き入れるには、絶対に必要不可欠な
のが、仏教の方便といわれるものです。

「釈迦・弥陀は慈悲の父母
 種々に善巧方便し
 われらが無上の信心を
 発起せしめたまいけり」(高僧和讃)

釈迦・弥陀は、慈悲深い父母である。
私たちに無上の信心(真実信心)を発起させるために、
どんなに種々のご苦労(善巧方便)なされたことか。

親鸞聖人は感泣されています。
私たちは弥陀・釈迦の種々の善巧方便がなければ、
絶対に無碍の一道(真実)へは出られないのです。

「蓮如上人仰せられ候、『方便を悪しということは有る
間敷なり。方便を以て真実を顕わす廃立の義、よくよく
知るべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真
実の信をば獲ることなる』由、仰せられ候と云々」
                  (御一代記聞書)
蓮如上人が仰せになった。
「方便など要らないなどとは、言語道断、言うべきこと
ではない。恐ろしい大法謗である。方便からしか真実に
入れぬと説かれた、親鸞聖人の教えが全く分かっていな
いのだ。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によってこそ、
私たちは弥陀の救いに値う(真実の信心を獲る)ことが
できるのである」

蓮如上人もまた、弥陀、釈尊、善知識方の種々のご方便
がなければ、私たちは絶対に真実の信心を獲て無碍の一
道に出ることはできないと仰っています。


いかに方便が大切か、上記のことからも明らかでしょう。
では、弥陀・釈迦・善知識の善巧方便とは何か。

弥陀は、方便の19願で、十方衆生に修善を勧められ、
釈迦は、『観無量寿経』にその19願を開説なされている。

親鸞聖人はそれを

「臨終現前の願(19願)より
 釈迦は諸善をことごとく
 観経一部にあらわして
 定散諸機をすすめけり」(浄土和讃)

 弥陀が19の願を建てられた意を、釈迦は『観無量寿経』
 一巻に詳述し、すべての善を定散二善で説き明かし、
 十方衆生に勧められている

と教えられている。

「如来の教法を我も信じ人にも教え聞かしむるばかりなり」
で貫かれた親鸞聖人が、釈迦弥陀のご教導と違うことを教え
られる道理がないではないか。

事実、親鸞聖人は、

「諸善万行ことごとく
 至心発願せるゆえに
 往生浄土の方便の
 善とならぬはなかりけり」(浄土和讃)

 19願の諸善万行のお勧めは、弥陀が我々を救う(18願)
 ためのお計らい(方便)だから、往生浄土の方便の善とな
 らぬ善はないのである

と教えられ、弥陀・釈迦・祖師のご教導は一貫している。

もちろん、我々のやる善で救われるとは、どなたも仰っていな
いが、善のすすめを嫌い、排斥するような仏教がどこにあろう。

「方便不要。ただです、そのままです、無条件です」
「善など勧めては永遠に助かりません。
 一体、いつ助かるつもりですか!」
などと、何とかの一つ覚えで言っている自称・仏法者がいる
ようだが、世の中にはいろんな「救い」があるものだな、と
嘆かわしく思うだけである。

仏の深遠な方便の真意が、そうそう容易く分かるものではある
まい。

唯説弥陀本願海

2012-09-23 21:36:53 | Weblog
★「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」(正信偈)
          
「唯説」とは、「唯一つ説かれた」ということです。
お釈迦さまは生涯、「弥陀の本願海」(阿弥陀仏の救い)
だけを説かれたと、親鸞聖人は断言なされています。

これは即ち、お釈迦さまは、
「弥陀の救いと無関係なこと」
または、
「弥陀の救いを妨げるようなこと」は
一切、説かれなかったことも意味しています。

もし釈迦が、弥陀の救いと無関係、もしくはそれを妨げる
ようなことも一切経に説いておられるとするならば、
親鸞聖人の「唯説」という断言が、意味をなさなくなって
しまいます。

そのお釈迦さまの「唯説」された教えを親鸞聖人は、

★「我も信じ人にも教え聞かしむるばかりなり」

「ばかりなり」と仰っているのですから、聖人もまた弥陀
の本願だけを説かれたことは明白でしょう。

さて、一方、
一切経に一貫する教えを、ひと言で表したものに
有名な「七仏通戒偈」と呼ばれるものがあります。

★「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」
 (もろもろの悪をなすことなかれ
  もろもろの善をなして、心を浄くせよ
  これが諸仏の教えだ)

これは「善のすすめ」以外のなにものでもありません。

お釈迦さまが、弥陀の本願だけを「唯説」されたとする
ならば、一切経に一貫する「善のすすめ」は、弥陀の本願
と何の関係もない、あるいは妨げになるなどと言えるで
しょうか。

普通に理解・判断するならば、
「弥陀の救い」と「善のすすめ」は、
無関係ではありえないでしょう。

親鸞聖人はこう仰っています。

★「八万四千の法門(一切経)はみな是れ浄土の方便の善
 なり。これを『要門』という、これを『仮門』と名づけたり
(乃至)この要門・仮門よりもろもろの衆生を勧め
 こしらえて、本願一乗・円融無碍・真実功徳大宝海に
 教えすすめ入れたまう」(一念多念証文)

 釈迦一代の教え(八万四千の法門)は、すべてみな弥陀
 の十九願の諸善のすすめである。これを要門とも仮門とも
 いわれる(乃至)弥陀は、この要門・仮門から十方衆生
 を照育し、他力信心・無碍の一道(本願一乗・円融無碍
 ・真実功徳大宝海)に導入させてくださる

この親鸞聖人のお言葉もまた、

「如来の教法を我も信じ、人にも教え聞かしむるばかりなり」

であることは言うまでもありません。


ただ、ここでよく注意しなければならないのは、、
だからといって、善をすれば無碍の一道に出られると教え
られているわけではないことです。
問題はそんなに単純ではないのです。

ならば、なぜ善がすすめられるのか?という疑問は、凡夫の頭
では当然、おきてくることですが、
弥陀の救いと無関係、もしくは妨げとなるようなことが、
「唯説弥陀本願海」と親鸞聖人が断言なされている仏教に、
教えられている道理もないことです。

仏教に、親鸞聖人の教えに、善が勧められている真意を理解し
得なかった人が、今日の正統派を名乗る教団の中枢を占めて
おり、ネット上で非難している人々もまた、そこに誤解がある
のだと思われます。

「弥陀の18願の救いは無条件だから」を理由に、あっさり
「善のすすめ」を否定し去る人たちは、あっちでもこっちでも
「救われた!」「簡単だった」と言って盛り上がっているよう
ですが、親鸞聖人は、

「微塵劫を超過すれども、仏願力には帰しがたく、大信海には
 入りがたし」(教行信証)

とか、

「善知識にあうことも
 教うることもまた難し
 よく聞くことも難ければ
 信ずることもなお難し」(浄土和讃)

と仰っています。

「30年聞いていて、まだ助からないのか!」とお叱りを受け
ていたそうですが、「善のすすめ」の真意を、多少なりとも知
らされた側からすれば、そういう人たちに「善のすすめ」の
真意を伝え、理解させることこそ、とても30年ではすみそう
もない難事業と、しみじみ覚悟させられます。


今、問題となっている小さな島が、日本の領土であることを
隣国の暴徒に説明し、納得させることは誰が考えても難しい
ことです。頭から湯気をたてている人たちに、理屈を説いた
ところで、火に油を注ぐようなものです。ますます徒党を組
んで暴徒化し、乱暴狼藉、悪口中傷の言いたい放題が予想さ
れます。
日本側はどう対応すればいいか。先の見えない紛争ですが、
少なくとも、あちらと同じような暴徒と化してはいけないで
しょう。







親鸞聖人の教えられた信心

2012-09-21 09:57:01 | Weblog
親鸞聖人は、
「仏願の生起本末」に疑心有ること無しとなったのが、
真実の信心と仰り、それは「二種深信」のことです。

本願寺の勧学も、
「この仏願の『生起』を聞いたのが機の深信の内容で
あり、『本末』を聞いたのが法の深信の内容である」
と書いていましたから、この点に異論はなかろうと
思われます。

では、この二種深信について、『親鸞聖人の花びら』
からの解説を紹介します。(全文ではありません)

二種深信といいますのは、二種の深信をいいます。
二種とは、機(自己)と法(本願)の二つをいい、
深信とは、ツユチリほどの疑いもなくなったこと
をいいます。

★一つには決定して、「自身は、現にこれ罪悪生死
 の凡夫、曠劫より已来常に没し常に流転して、
 出離の縁有る事無し」と深信す(機の深信)

いままでも、いまも、いまからも、助かる縁のない
極悪人の自己が、ハッキリした。

★二つには決定して、「彼の阿弥陀仏四十八願をもっ
 て衆生を摂受したまうこと、疑無く慮無く彼の願力
 に乗ずれば、定んで往生を得」と、深信す
                  (法の深信)
この世も未来も、絶対の幸福に救い摂るという弥陀の
誓い、まことだったとハッキリした。

 機とは、罪深い自己のことであり、
法とは、阿弥陀仏の本願のことです。

 金輪際助かる縁のない自己に、ツユチリほどの疑心
もなくなったことを機の深信といい、そんな者を必ず
助けるという、弥陀の本願にツユチリほどの疑心もな
くなったのを、法の深信といいます。
これを機法二種深信といいます。

 次に、親鸞聖人の『歎異抄』での二種深信の表白を
示しましょう。

★いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定
 すみかぞかし(歎異抄)

修行も学問も修養も、自力のすべてが間に合わなかったと、
地獄一定の身が知らされた(機の深信)。


★弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞
一人が為なりけり、されば若干の業をもちける身にてあり
けるを、助けんと思し召したちける本願のかたじけなさよ
                     (歎異抄)
と、他力不思議に摂取された(法の深信)。

 堕ちる機と助ける法の二つに、ツユチリほどの疑いもなく
なったのを、二種深信というのです。

 この二つの深信は、いつでもどこでも変わらず念々に
相続しますから、機法二種一具の深信といわれます。

 堕ちる者が助かる者、助かる者が堕ちる者、全く反する
二つの深信が、同時に相続する不思議な信心ですから、
「絶対矛盾的自己同一」と言った哲学者がありましたが、
親鸞聖人は不可称・不可説・不可思議の信楽(信心)と
讃仰されています。


この二種深信が立っていなければ、阿弥陀仏に救われた
人とはいわれません。


【余録として】

「機」と「法」の関係は、「Aが分からなければ、Bも
分からない」という関係ではない。

あちら側からすれば、罪悪感の深まったのが機の深信と
こちらが思い込んでいる、あるいは教えている、と言い
たいところでしょうから、ひと言、申し添えておきます
と、それはあちらの〃憶測〃で、そんなことは教えてお
りません。



名号のいわれ

2012-09-19 22:44:29 | Weblog
阿弥陀仏の救いを妨げているものは「疑い」の心
一つです。

では、その疑いとはどういう疑いか?

親鸞聖人は、

「仏願の生起本末に疑心あることなし」となったのが、
聞(信)であると、仰っておられることは前回、申し
上げました。

蓮如上人は、

「その名号をきくというは、ただおほようにきくに
あらず、善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六の字の
いわれをよくききひらきぬれば」(3帖目6通)

と仰っています。
仏願の生起本末も、南無阿弥陀仏の六の字(名号)のいわれ
も同じことです。

名号のいわれを、『教行信証』には次のように詳述されて
います。

一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、
穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無
し。ここを以て、如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不
可思議兆載永劫に於て、菩薩の行を行じたまいし時、三業
の所修、一念・一刹那も清浄ならざる無く、真心ならざる
無し。如来、清浄の真心を以て、円融・無碍・不可思議・
不可称・不可説の至徳を成就したまえり (教行信証)


すべての人間は、はるかな遠い昔から今日まで、邪悪に
汚染されて清浄の心はなく、そらごと、たわごとのみで、
まことの心は、まったくない。かかる苦しみ悩む一切の
人びとを阿弥陀仏は憐れみ悲しみ、何とか助けようと兆
載永劫のあいだ、心も口も体も常に浄らかに保ち、その
清浄なまことの心で、全身全霊、ご修行なされて、完全
無欠の不可称・不可説・不可思議の無上の功徳(南無阿
弥陀仏)を完成されたのである。


これが仏願の生起本末(名号のいわれ)で、「疑心あること
なし」となるのは、このことだと説明すると、
「穢悪汚染にして清浄の心無く、
虚仮諂偽にして真実の心無し」
と思えばいいのか?思えたら救われたことになるのか?
と、早合点する人もあるようですが、
この「思えたら」という点が曲者です

清浄の心も無い、真実の心も無い、といわれたその後から
「そう思えたらいいのか?救われるのか?」
などと言っても、そのこと自体、聖人のお言葉を
ひっくり返しているようなものである。

清浄の心も、真実の心も持っていない者が、清浄の心も、
真実の心も持っていない自分であることを、「分かる」とか、
「思える」などということがあるだろうか?

あると思えばこそ、そう言うのであろう。
自分のどこかに、清浄で、真実の心が、欠片ぐらいはあると
いう、私たちの根深い自惚れ心がそう言わせるのである。

すべては名号の仏智を賜って、初めて知らされること。
   
今日の真宗界には、弥陀に救われた気分になってしまった人
が、たくさんいる。名号を賜ったと本人は本気で思っていて、
ウソをついているとは思わないが、親鸞聖人とは関係ない
信心であろう。

上述の『教行信証』のお言葉を、言葉としては知り、口でも
認めておりながら、
「だからと言って、一切の群生海(すべての人)が地獄行き
なんておかしい」
と、堂々と言ってのけられるのだから。

「この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして、無間地獄に
堕在すべきものなり」(御文章)
を否定する、
「穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し」
に、疑心の晴れた人がたくさん存在するらしい。

蓮如上人が「この信心」と仰る信心は、
「仏願の生起本末に疑心あることなし」となった信心のこと
ではないのか?
疑い晴れる前も後も、
「穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し」
は変わらないのである。

仏願の生起本末。
簡単に分かると言う人もいるようだが、
果たしてそうだろうか?
何年も聞いてきたはずの人が、そんなことを言うのであるから、
簡単に分かることではないことが、いよいよ知らされるでは
ないか。



何に疑いが晴れるのか

2012-09-15 17:18:31 | Weblog
親鸞聖人のみ教えが、本願成就文の教えである
ことは、異論の余地のないことです。

「かの心行を獲得せんこと、念仏往生の願成就の
『信心歓喜乃至一念』等の文をもって依憑とす、
このほか未だ聞かず」(改邪鈔)
【意訳】
 それが弥陀の誓いの真実か、どうかの判定は、
釈尊の「本願成就文」をもって基準とすると聖人
は教えられた。だから「本願成就文」の教えの
ほか、私は親鸞聖人から聞いたことがない。


つまり、この覚如は「本願成就文」の教え以外に、
親鸞聖人から教えられたことがないとまで明言され
ています。

では「本願成就文」とは、どんな教えでしょうか。
それは、『大無量寿経』下巻に、漢字、四十字で
説かれている釈尊のお言葉です。

「諸有の衆生、其の名号を聞きて、
信心歓喜せんこと乃至一念せん。
至心に廻向せしめたまえり。
彼の国に生まれんと願ずれば、
即ち往生を得、不退転に住す。
唯五逆と正法を誹謗せんとをば除かん」
(要約)
どんな人も、その名号を聞く一念に絶対の幸福(信心
歓喜・正定聚不退転)に救う、ただ五逆と法謗の者は
除くと、弥陀は誓われている。

と、阿弥陀仏の救いを釈尊は明らかにしておられます。

阿弥陀仏の本願に、どうすれば救われるのか。
釈尊の「本願成就文」から、
「その名号を聞きて」
と、聞く一つで助かることがハッキリします。

この「本願成就文」の聞について、教えられているの
が、『教行信証』信巻の

「『聞』と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて
疑心有ること無し。これを『聞』と曰うなり」

のお言葉です。

仏願(弥陀の本願)の生起・本末に疑心の晴れた(信)
のが「聞」ですから、「聞即信」といわれるのです。

ここからも分かりますように、
まず、阿弥陀仏の本願の生起本末をきいて、よく納得する
ことが大切なのです。
仏願の生起本末を聞いてもいない人に、疑心など起きよ
うもないですし、起きてもいない疑心に、晴れるという
こともまたないからです。

阿弥陀仏の本願の生起本末とは、
弥陀は、どんな者のために本願を建てられたのか。
どのようにして本願を建てられたのか。
その結果は、どうなったのか、
ということです。

では、
弥陀はどんな者のために本願を建てられたのでしょうか。

『歎異抄』第1章には、
「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生」のため、とあり、3章には、
いずれの行にても生死を離るることあるべからざる
「煩悩具足の我ら」のため、とある。

『御文章』2帖目8通には、
「十悪五逆の罪人」
「十方三世の諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる
 我等如きの凡夫」のため、

2帖目9通には、
「我が身は極悪深重の浅ましき者なれば、地獄ならで
は赴くべき方もなき身」のため、

とある。

挙げれば枚挙にいとまがないが、これらは皆、
「地獄行きの極重悪人の我々のため」、ということでは
ないのか。

それが認められない、そこに疑いがあるならば、
それを「仏願の生起本末に疑心あり」というので、
いかに「救われました」と言ってはいても、
「疑心あることなし」の、聞即信の一念を突破した、
他力の世界と異なることは、明々白々であろう。

ところが今日、お聖教どおりに我々の実機を説けば、
そんなのは勝手な解釈だ、脅しだ、カルトだ、思考停止だ
などと、坊主からして食ってかかる始末。

何を言おうと言論の自由かもしれないが、
そんな坊主が、仏願の生起本末に「疑心ある」まま
「今救われた!」
「今救われる本願に疑い晴れました」
などと言ったところで、泥酔者の寝言であろう。
どんなに大見得切ってみせても、まともに取り合わない
のが普通である。


56年前の宗務総長の憂い

2012-09-13 12:05:20 | Weblog
昭和31年、真宗大谷派の総長が、寺院の現状を嘆き、
何とかしなければならないという思いを宗門白書で述
べています。
しかし、それから56年が経過した今、真宗大谷派は
どうなったでしょう?
当時の総長の予想を遥かに上回る、憂うべき状況にあ
るように思われます。


■ 昭和31年4月3日 宗務総長 宮谷法含

ー、宗門の実情

いまの宗門は、5年後に宗祖聖人の七百回御遠忌を
迎えようとしている。しかも、御遠忌を迎えて、われ
らは一体何を為すべきかの一 途が明らかでない。

宗門全体が足なみをそろえて進むべき態勢が整うて
いるとは思われない。このままでは御遠忌が却って
聖人の御恩徳を汚しはせぬかとの声をも聞き胸をも
打たれる次第である。

この憂うべき宗門の混迷は、どこに原因するのか。
宗門が仏道を求める真剣さを失い、如来の教法を自他
に明らかにする本務に、あまりにも怠慢であるからで
はないか。

今日宗門はながい間の仏教的因習によつて、その
形態を保つているにすぎない現状である。

寺院には青年の参詣は少なく、従って青壮年との溝
は日に日に深められてきているではないか。

厳しく思想が対立し、政治的経済的な不安のうずま
く実際社会に、教化者は、決然として真宗の教法を
伝道する仏法者としての自信を喪失しているではない
か。

寺院経済は逼迫し、あやしげな新興宗教は、門信徒
の中に容赦なくその手をのばしてきている。

教田の荒廃してゆく様は、まさに一目瞭然であるが、
われらは果してこの実情を、本当に憂慮し、反省して
いるであろうか。

まだ何とかなるという安易をむさぼる惰性に腰かけ
ているのではないか。

大谷派に一万の寺院、百万の門信徒があるといいな
がら、しかも真の仏法者を見つけ出すことに困難を
覚える宗門になつてきているのである。

極言するならば、われわれ、宗門人は七百年間、
宗祖上人の遺徳の上に安逸をむさぼつて来たのである。

いまや御遠忌を迎えんとしてわれら宗門人は、全身
を挙げて深い懺悔をもたねばならない。

単に御遠忌のにぎにぎしさを夢みることによつて、
この現状を糊塗するようなことがあるならば、宗門は
疑いもなく、歴史から冷やかに嘲笑を浴びるであろう。

宗門は今や厳粛な懺悔に基づく自己批判から再出発
すべき関頭にきている。懺悔の基礎となるものは仏道
を求めてやまぬ菩提心である。

混迷に沈む宗門現下の実情を打破し、生々溌溂たる
真宗教団の形成を可能にするものは、この懺悔と求道
の実践よりほかにない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これが56年前の宗務総長の反省、ならびに警鐘です。

しかし、この20年後には、あの「お東騒動」がおき
ています。

ためしに「お東騒動」でググッてみましょう。
いかに大谷派の坊主が、難しい理屈を振り回し、御門徒の
教化そっちのけで、権力闘争をやってきたかが分かります。
それでも大谷派の坊主が言うには、〃大谷家を権力の座
から追い落とした栄光の歴史〃なのだそうです。
狐と狸の化かし合いとは、決して考えないようです。

私たちからすれば、
〃栄光〃でも〃化かし合い〃でも、どっちでもいいですが、
坊主たちが覇権を争っている間、馬鹿を見たのは100万
の御門徒でしょう。

物心両面で寺を支えてきたのに、一体、何を教えてもらっ
たのか?教えてもらったとして、それは『御文章』の教え
どおりだったのか?
後生を不問とした近代教学を独自に立て、一貫して後生の
一大事の解決を説く『御文章』を、所依の聖教からはずす
くらい嫌ったのですから、いわずもがなです。
「後の世を 渡す橋とぞ 思いしに
     世渡る僧と なるぞかなしき」
まさに、源信僧都の母君のお嘆きのとおり、
御門徒こそ、いい面の皮だったのではないでしょうか。

そんな浄土真宗の流れを変えようと奮闘している親鸞学徒
を、カルトとしか見ない、件の坊主(大谷派では重宝され
ているようである。あちら側からすれば利用価値は高いだ
ろうから)が、親鸞学徒に、

「今救うという本願に気づいていない」

などと説教するに至っては、もう返す言葉も無い。
言いたい放題。ここは「先に言ったもの勝ち」の世界なの
だろうか?と思う。

今救う、今救うと、何とかの一つ覚えみたいに言うが、
仏願の生起本末に疑心の無くなったのが、聞即信の一念で
あろう。疑い晴れる一念の前に、そもそも仏願の生起とは
何か、この坊主は分かってのことなのだろうか?

「仏願の生起」の理解もあやしい坊主に、疑い晴れるの
晴れないのなど、問題になりようもなかろう。
幼稚園の女の子に、出産時の注意をしているような
ものである。
だとすれば、この坊主は、全くトンチンカンなことで
「今救われる本願」と言いまくっていることになる。

まるで闇夜に鉄砲ではないか。
どうせ何を言っても分かるまい、地獄なし、極楽なしと
タカをくくってのことだろうが、「語るに落ちる」とは
このことで、言えば言うほど、親鸞学徒なら、この坊主
の腹底が、信仰のほどが透けて見える。
気づかないのは哀れ、ご本人だけなのである。

その他、彼らの悪口雑言は、親鸞聖人の教えとは何の関係
もないので、スルーでいいだろう。彼らだけで盛り上がっ
ていればいいのである。

56年前の総長は、まだ
「宗門が仏道を求める真剣さを失い」とか、
「基礎となるものは仏道を求めてやまぬ菩提心」とか
「懺悔と求道の実践よりほかにない」
と、仏法者らしい矜持を持っていたようだが、
今日の坊主たちのように、善の勧めを不要と退け、
「自力」を廃したつもりで「無力」に陥り、
「今の救いです、今救われてください」
「ただです。そのままです。無条件です」
を、一つ覚えで繰り返すなら、宗務総長の危惧するとおり、
「宗門は内部から枯渇し、崩壊して、時代の前に無力無能
の形骸を曝すことになるであろう」
同感である。


報恩講 親鸞聖人の願われたこと

2012-09-11 14:54:19 | Weblog
報恩講の季節が近づいてきました。

報恩講とは、親鸞聖人のご恩徳をしのび、聖人の
ご命日に開かれるご法筵で、ご生誕をお祝いして
開かれる降誕会と並び、浄土真宗の二大行事の一つ
となっています。
親鸞聖人のご恩に報いるには、どうすればいいのか。
それは、聖人が最も願われていることを知り、その
とおり実行することでしょう。

昨年の報恩講は、全国の真宗寺院で聖人の750回忌
が勤められました。だがそれは、果たして聖人の願わ
れる報恩講になっていたでしょうか?

聖人が願っておられることとは、次の御和讃にも
明らかです。

「三朝浄土の大師等
哀愍摂受したまいて
真実信心すすめしめ
定聚の位に入らしめよ」(正像末和讃)


聖人が「三朝浄土の大師等」と呼びかけておられるのは、
印度、中国、日本の三国の高僧知識方(七高僧)のこと。
これらの方々に、どうか「真実信心すすめしめ、定聚の
位に入れしめよ」と哀願しておられるのである。
一切の人々に真実信心を勧め、往生一定の身(定聚の位)
に導いていただきたい。親鸞も全力挙げてはおりますが、
信心獲得する人が少ないので困っております。どうか力
をお貸しください、とお願いされているのである。


一人でも多く、一日も早く真実信心を獲得し、往生一定
の身になってほしい、それが聖人90年のご生涯、ただ一つ
願い続けられたことではなかったでしょうか。


残念ながら本願寺750回忌は、聖人讃仰の〃荘厳な〃
儀式はあっても、「真実信心」の勧めも、「定聚の位に
入らしめよ」の熱い叫びも聞かれませんでした。二時間
余りの法要中、10分程度「阿弥陀如来はいつでも、どこ
でも、照らし、呼び続け、包んでいてくださいます」と、
すでに皆助かっていると誤解させるに十分な話をしただけ
でした。


なぜ、聖人があれほど切実に願われているにもかかわら
ず、参拝した門徒に真実信心を勧め、定聚の位に入らし
めようとしないのでしょうか。

ちなみに、親鸞聖人の願われたこととして、本願寺が
750回忌のスローガンに掲げたのが、

「世の中安穏なれ」

でした。

お家安泰がいちばんの願いの、本願寺らしいスローガンとは
思いますが、親鸞聖人の真の願いから、遠ざかること甚だし
のではないでしょうか。


650回忌には100万人あった参拝者が、100年後の
750回忌には、40万に急落した最大原因は、「真実信心
すすめしめ、定聚の位に入らしめよ」の、親鸞聖人の真の願い
に背き続けてきたことにあるのではないでしょうか。
最初のボタンを掛け違えれば、すべてが狂ってしまいます。