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DICASの協議内容は基本的にヴェトナム戦争での日本政府の役割と同じ

2024-06-14 23:25:57 | 自公政権

 アジア太平洋戦争敗戦まで日本を支配していた神聖天皇主権大日本帝国政府は、仏領インドシナ連邦(ヴェトナム王国はその一部)を1940年9月から45年8月までの5年間支配していたが、敗戦後に成立した日本国政府は戦後のヴェトナム(ラオスとカンボジアは1953年に仏領インドシナ連邦から完全独立)とどのように関わっていったのか?それはインドシナ戦争ヴェトナム戦争にどう関わっていったのかということでもあった。その時期の内閣の政策からその関わりを紹介したい。

岸信介内閣(1957.2.25~1960.7.15)

 神聖天皇主権大日本帝国政府軍が1940年9月北部仏領インドシナ連邦を侵略した事をきっかけに、1941年5月ホーチミンを指導者として結成されたヴェトミン(ヴェトナム独立同盟)独立闘争を開始した。1945年8月15日大日本帝国政府軍が降伏した2週間後の9月2日、ホーチミン大統領としてヴェトナム民主共和国を建国した。しかし、旧植民地宗主国であったフランスは独立を認めず、ヴェトナム南部にヴェトナム国を建国し、インドシナ戦争(1946年12月~54年7月)となった。これに対しアメリカフランスを援助(アメリカが戦費と武器、フランスは肉弾提供)したがフランスは敗北した。1954年7月18日ジュネーブ協定により、1956年に南北統一選挙の実施を定めた。しかし、アイゼンハワー米国大統領(任1953.1~61)はドミノ理論(もし、インドシナが共産政権に支配されるならば、タイ・ビルマなどの近隣諸国も、共産主義の手に落ちる事になるから、アメリカの安全のために実施可能なあらゆる措置を取る)を根拠に調印を拒否。1954年9月東南アジア条約機構(反共集団安全保障体制)を組織し、ヴェトナム南部に、協定に反対していたゴ・ジンジェム(任1955~63)大統領に擁立してヴェトナム共和国をつくり軍事援助し、北緯17度線での南北分断を固定化しようとした。54年10月にはアイゼンハワー大統領はゴ・ジンジェム政権の支持を表明した。

 第2次岸内閣(1958.6.12~1960.7.15)ゴ・ジンジェム政権を積極的に援助した。1959年5月13日「大東亜戦争(アジア太平洋戦争)」でヴェトナムに与えた損害を賠償するという事を口実にして、ヴェトナム共和国政府賠償・借款協定に調印し、同年12月23日批准強行採決した。1960年1月19日には新安保条約に調印、5月20日自民党は新安保条約を単独強行可決。6月19日安保反対闘争の混乱の中で新安保条約批准自然成立させた。6月23日には条約発効し、第2次岸内閣は総辞職(7月15日)を表明した。改定された新安保条約は、在日米軍が日本以外の「極東地域」の防衛に任ずる事を認めていたため、自民党政府は、アメリカのアジア戦略に組み込まれる事となった。

池田勇人内閣(1960.7.19 ~1964.11.9)

 1964年8月2日ジョンソン大統領(任1963.11~69)は捏造した「トンキン湾事件」を口実に、北爆(ヴェトナム民主共和国への直接爆撃)」を命じ、1965年2月7日から開始した。3月8日には大量の地上軍の派遣も開始し戦争を拡大した。自民党政府新安保条約の「極東地域」にヴェトナムも含まれると拡大解釈し、ヴェトナム戦争を正当化し、アメリカへの支持・協力を一貫して表明した。1964年8月11日第3次池田内閣(1963.12.9~1964.11.9)はアメリカの軍事介入を支持し、ヴェトナム共和国(サイゴン)政権へ緊急援助を決定した。又、「三矢研究」(1963年度総合防衛図上研究実施計画)では、第2の朝鮮戦争を想定し、「有事立法」による日本の戦時体制への転換、米軍への全面支援、自衛隊の海外派兵や日本の戦場化、日本を基地とする核攻撃も検討対象とした。1965年に国会(第1次佐藤栄作内閣)で明らかとなった。

佐藤栄作内閣(1964.11~1972.7)

 第1次佐藤内閣(1964.11~67.2)では、1965年1月訪米しジョンソン大統領と共同声明を発表。内容は「アジアの経済開発に対する日本の役割の増大」を強調したもの。アジア周辺諸国が兵力派遣でも経済面でも、ヴェトナム戦争を支える事ができるように、同時に、それらの国々の反共政権が安定して存続できるように、日本政府が経済上の役割を果たし、アメリカの負担を軽減ないし肩代わりする事を合意したというものである。1965年9月には、防衛庁防衛研究所小谷秀三郎がヴェトナム共和国政府へ赴き、「北爆」中の米軍機に搭乗した。1966年9月には、防衛庁は「北爆の効果や最新の通常兵器の効用、局地ゲリラ戦にどのような形で近代兵器が適用されるかを視察する」、としてヴェトナム共和国へ軍事視察団を派遣した。

 第2次佐藤内閣(1967.2~1970.1)では、1967年4月21日の衆議院予算委員会では佐藤首相は「武器・兵器の輸出は、防衛・自衛のためなら差し支えない」と答弁。日本の軍需産業界から強い要望があり、防衛懇話会経団連会長石坂泰三会長)や防衛生産委員会防衛装備国産化懇談会(元防衛庁長官船田中会長)などでは兵器輸出を公然と語っていた。豊和工業はヴェトナム共和国へ派兵していたタイ小銃1万丁を輸出した。太平オーバーシーズは フィリピンマルコス政権と弾丸製造設備(旭精機製)の買い付け契約を締結した。三井物産マルコス政権と火薬製造設備の買い付け契約を締結した。1967年10月21日佐藤首相はヴェトナム共和国政府を訪問。11月15日佐藤首相は訪米して日米共同声明を発表した。

ヴェトナム報道に対する政治的干渉

 1965年10月ライシャワー駐日大使は、朝日の秦正流外報部長と毎日の大森実外信部長を名指しで「日本の新聞はヴェトナム情勢について均整のとれた報道をしていない」と批判。自民党政府は「放送人政治懇談会」を発足し、テレビ番組や新聞記事を細かくチェックし、放送中止や記事を差し替えさせた。1965年5月9日放映の日本TVノンフィクション劇場「ヴェトナム海兵大隊戦記・第1部」は、南ヴェトナムでのアメリカ軍による虐殺行為を報道したため、放送直後、橋本登美三郎官房長官アメリカ大使館から申し入れがあり、再放送と第2、3部の放送を中止した。TBSラジオの「奥さま十時です」は、スポンサーから「ヴェトナムの話題はやめてほしい」という注文により、67年5月26日の放送内容を一部カットした。

 秋篠宮夫妻は、上記のようなヴェトナムに対する自民党政府の対応について、どのような認識をもって訪問したのであろうか?また、メディアは、例えば「日本は最大の援助国としてヴェトナムの発展を支え、ヴェトナムは右肩上がりの成長を続けてきた」とか「日本とヴェトナムは開発や投資で成長を遂げ、関係を深めて来た」などとしか報道していない。このような報道では一人一人の国民が互いに大切にし合うために理解を深めるには役立たないであろう。

○日本政府・企業がアメリカ軍に提供した物資は、

 弾除け用砂袋、緊急飛行場滑走路の鉄板下に敷くシート、基地建物用のプレハブ・ハウス、迷彩服、軍靴、有刺鉄線、防虫網、ダイナマイト、釘、木材、セメントなどである。ヴェトナム共和国の米軍基地販売所には、カメラ、時計、ラジオ、テープレコーダー、装飾品、陶磁器など、ソニー、ナショナル、ヤシカ、セイコー、ノリタケチャイナなどの製品が並び、大商社、大小メーカー高島屋大丸などのデパートが関わっていた。自動車部品トヨタ自動車が関わり、石油業界はジェット燃料JP4を供給した。

 米軍機の修理には、三菱重工川崎航空機(空軍)、日本飛行機新明和工業(海軍)、富士重工(海兵隊ヘリコプター)などが関わった。軍艦船の修理には、佐世保横須賀の米軍ドッグで日本人作業員が行った。野戦病院の建設には、大成建設・間組などが関わった。米軍関係のトラック・バス輸送など及び整備士派遣国際興業株式会社が関わった。

 武器生産には、火薬・油脂メーカーがナパーム弾の製造(92%は日本製)に関わった。

 野戦病院(傷病兵の治療)には、陸軍では埼玉県朝霞市米軍基地内野戦病院、埼玉県入間郡ジョンソン基地内第七野戦病院、神奈川県相模原座間病院、横浜市根岸第106総合病院、東京都北区米陸軍極東地図局跡地王子野戦病院、海軍では横須賀基地海軍病院、空軍では立川基地空軍病院などを建設し、地元の中小建設業者から大手では大成建設・間組などが参加した。それらの病院では、多くの日本人の医師・看護師・検査員・雑役夫などが働き、米軍には日本の会社が様々な薬品医療機材を納入した。

 農産物の調達には、米軍が農協からカリフラワーなどの野菜や卵などを直接買い付けた。

内地や沖縄の米軍関係のトラック・バス輸送の最大請負業者は国際興業株式会社(社長・小佐野賢二)。

(2023年10月6日投稿)

 

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