ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「歴史としての戦後日本」

2008-03-19 20:31:20 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「歴史としての戦後日本」という本を読んだ。
アメリカの経済学者の論文を集めた本で、非常に難しかった。
日本の戦後という時期も、半世紀以上を経過して63年目に入っているわけで、この日本の復興というものは見る人が見るとまさしく驚異と写るのも無理からぬ事だと思う。
日本以外の地域、あるいは日本以外の民族から、日本というものを見ると不可解な国家、あるいは不可思議な民族と写るのも当然のことだろうと思う。
明治維新以降の日本および日本民族の発展を、今の我々の同胞は、アジアに対する負の遺産という感覚で受け取りがちであるが、こういう自虐史観というのはある意味で奢りの裏向きの現象ではないかと思う。
功なり名を挙げた人間が奢り高ぶって傲慢な態度を取るというのは、名実ともに浅はかさの象徴に見えるが、自分を限りなく悪人に見立てて卑下し、その対局として相手を誉めそやすというのも手の込んだ奢りであって、心の内ではその言葉と裏腹に相手をあざ笑っているということではなかろうか。
身の程知らずの奢りも人間の品格としては見下げたものであるが、自分を限りなく卑下して相手を誉めそやすという態度も、人間の尊厳をあざ笑う、品格に欠けた行為だと思う。
今、品格という言葉を入れた題名の本が巷には広範に出回っているが、人間にはそれぞれの個人にその人に応じた品格というものがついていると思う。
それは同時に国家の存立にも、個々の人間と同じように品格というものがついていると思う。
例えば、スイスなどという国は小さな国だけれども、永世中立を国是にした以上、如何なる周囲の状況に照らしてもそれを守リ通すということは、品格の備わった国だと認めざるを得ない。
戦後の我々もスイスを見習おうということで不戦の決意を新たにしたが、我々の理念とは裏腹に外圧によって自己の存立の軸足をあちらに寄ったりこちらに寄ったりと自信を持って確立しなかった。
スイスとは置かれた状況が違うというのは、後知恵としての言い訳にすぎず、要は我々の側にそれだけの勇気と信念がなかったという事に尽きる。
戦後のある時期において、日米安保論争華やかりしころ、東洋のスイスたることを目指そうという時期があったが、その時点では我々の側にスイスが如何に自衛、つまり自分の国を外敵から守ることに努力しているかということを知らなかった。
それが判ると、東洋のスイス足らんとすれば自衛の武力、自衛力を持ち、祖国を守るためには血を流すこともいとわない、という国民的な合意を持たなければならないということになり、言葉のうえでの綺麗事の理念とは矛盾してしまうわけで、東洋のスイスという概念も尻すぼみになってしまった。
この本はアメリカの経済学者が日本の戦後の復興について詳しく論じたものであるが、アメリカのみならず世界から日本を見るとどういう風に写っているのであろう。
我々の国は、昔も今も余所からは胡散臭い目で見られ続けているということを肝に銘じておかねばならない。
マルコ・ポーロの黄金の国というのも、この時点では伝聞にすぎなかったが、それ以降の西洋人の日本来航は伝聞の確認でもあったわけで、キリスト教の布教という命題が彼らの本命ではあったとはいえ、そういう人々によって日本の存在というものは西洋に広がったと見なしていいと思う。
日本の情報は細々と彼らによって伝わったが、この情報に接することができる人はきわめて限られたごく少数の人間でしかなかったというのも歴然とした事実であろうと思う。
結局、日本という国あるいは民族の存在というのは、彼らにしてみれば未知の存在で、西洋でも大勢の人々は日本について何も知らないというのが本当のところだと思う。
我々は自分の知らないところに行けば、大なり小なり旅行記、紀行文、見聞録というようなものを書く。そして他の人々がその書かれたものを読む。そのことによって未知のことが広範な人々に知れ渡っていく。
民族全体として未知のこと、体験したこと、見たこと聞いたことを書く、そしてその書かれたことを読むという行為は、その民族の文化のレベルを大きく向上させるものと考える。
我々の民族は自ら意識していないが、そのことが普遍化している民族であって、そういう民族はこの地球上ではきわめて限られた人々だろうと思う。
この地球上の人間の生き様というのは、ごく限られた選民、あるいは高等教育を受けたエリート、あるいは専制君主として権力を握った少数の人間が無知蒙昧な大衆を統治するというのが普遍的な姿であると思う。ところが我々の場合、大衆は無知蒙昧ではないわけで、誰でもが安易に統治者になりうる能力と知識を持っており、その意味で一億總政治家でもあるわけだ。
それだからこそ一度統治者の椅子に座っても、権力に固執するわけでもなく、私腹を肥やすわけでもなく、ほんとに些細な舌禍で権力の座を降りてしまうのである。
聖徳太子の遺訓ではないが、「和をもって尊し」としているわけで、ある意味で民族的な合議制で政治が回っていると思わなければならない。
ところが、我々の民族性に富んだ政治手法も良い面ばかりではなく、他民族との折衝の場では内側だけの論理では事が収まらないわけで、ここに我々の島国の住人としての民族性が露呈して、「葦の随から天覗く」という思考に陥ってしまう。
20世紀初頭から日本が軍国主義にはまりこんでいったのは、明治維新以降の西洋列強に追いつき追い越せの国民的な願望の延長線上のことで、そのための最短コースが軍事的な力の誇示だと思い違いをしたところにあると思う。
ここで思い違いをすること自体が、国家の品格の欠如だと思う。
昔の俚諺で「武士は食わねど高楊枝」という戯れ言葉があるが、あれは武士たるものの矜持を示した言葉だと私は思う。
武士というのは人々を統治する立場だから、いくら貧乏をしても、賄賂や公金などには手を出さず、襟を正してさも十分に食っている振りをするものだ、という風に解釈したいところであるが、現実には私腹を肥やす才覚のない者を揶揄する意味でとられている。
ここに人間の品格が現れていると思う。
個々の人間の品格というのは、本来ならばそれぞれの個人が成育の過程で習得して得るものだと思うが、この成育の過程というのが案外大問題のはずだ。
武士というのは、生まれ落ちたときから武士という家庭環境の中で生育するわけで、その過程を経ることによって武士としての矜持を身につけるものと想像する。
ところが明治維新の四民平等で身分制度が否定され、明治政府は広く人材を求めることが急務で、官吏登用に大きく門戸を開き、たった一回のペーパーチェックで官吏としての登用をするようになった。
そこに武士以外の諸々の階層から、その時点では優秀といわれた人材が集合したが、これらの人たちはその成育の過程で品格を身につけるチャンスに恵まれていなかった。
農工商の身分のものが官吏に登用されると、官吏としての立身出世を至上のものと思い違いをするのも無理ない話で、それは当然のこと「武士は食わねど高楊枝」という官吏の矜持とはほど遠い存在で、官吏の品格も同時に喪失するということになったわけである。
此処でいう官吏の中には当然陸海軍の軍人も入っているわけで、今でいえば公務員が公僕に徹するという官吏としての基本を見失ってしまったということである。
明治維新の四民平等という政策は、今の価値観でいえばきわめて民主的な制度改革だとされているが、確かに言葉はきれいだが玉石混淆という面も併せ持っているわけで、そのよって立つ精神が玉石混淆なるが故に品格もなくしてしまったということである。
国家のことを思う矜持を持たない者が、ただただ立身出世の免罪符として学歴というものに固執し、高等教育に群がってしまったので、高等教育の場でモラルの向上というものが期待できなくなってしまった。
教育の向上ということは、地球規模で見てこれを否定することはできないわけで、如何なる国家、如何なる民族においても教育を高めるということは「善」として認められている。
未開の後進国が近代化をなそうとすれば、まず最初に教育の向上をはかって人材の育成があるわけで、教育を向上させて底辺の底上げをし、それを経て近代化に向かうというのが普遍的なコースだと思う。
教育が向上すれば、当然、自我に目覚める人も多くなるわけで、それは必然的に私利私欲を満たそうという願望にすり替わる。
極端な話、金儲けがなぜ悪い、豊かさを求めてなぜ悪い、競争社会ならば格差は当然ではないか、という思考が容認されるようになる。
此処で問題は、自我と全体とのバランスである。
個人の欲望の充実と、自らの属する社会に対して如何に貢献するか、というバランスの問題が浮上してくる。我々、日本人というのは極めて真面目だと思う。
その真面目さゆえに、自らの属する社会への貢献と、自我をオーバーラップさせてしまって、自分のしている行為は全体のためにもなっていると思いこんでいるが、この部分が我々の奢りだと思う。
つまり自己中心主義で、相手のことが眼中に入らないまま、相手の思惑を無視したまま、自分は全体のために、あるいは祖国のために良いことをしていると思いこんでいる。
本来の教養知性というのは、こういう思いこみを自省する方向に作用しなければならないと思うが、我々の場合はそういう方向に高等教育の効果が現れていない。
無理もない話で、我々の場合、高等教育というのは自我の欲望追求の免罪符なわけで、そこには人のため、人類のため、地球のためという思考は最初から欠落しており、この部分が日本人以外の視点で見るとどう写るかが大きな問題だと思う。
この本はそういう視点で書かれた論文であるが、外国人が我々のことをどう見ているか、と気にするところが極めて日本的だと思う。
19世紀から20世紀を経て21世紀になると、この地球上では主権国家の主権そのものが、すでに意味をなさなくなってきていると思う。
好むと好まざると今の世界というのはグローバル化されているわけで、人、物、金は国境を越えて行き来しており、国境という垣根は極めて低くなっているので、その中で一国だけをピックアップして論ずることは意味をなさなくなってきていると思う。
アメリカの経済学者が1945年以降の日本をことさら論点に晒そうとしても、それは地球規模の動きと連動しているわけで、鎖国状態の日本を論ずるわけにはいかないと思う。
アメリカがくしゃみをすると日本が風邪を引くと言われて久しいが、まさしくそれが21世紀の地球なわけで、アメリカの影響力というのは地球規模で浸透しているが、これからはヨーロッパがEUとして一枚岩になるとアメリカのパワーにも少なからず影響が出てくると思う。
その中で日本は如何に振る舞うかというのは我々に課せられた大きな課題だろうと思うが、我々の過去の歴史を見れば我々は世界の動きに極めて素直に順応してきているが、ただただ第2次世界大戦のみはその順応に失敗した例である。
戦後の日本はその失敗をも63年を費やして結局は克服したと言える。
この失敗の克服から、日本はアジアでのリーダーシップが期待されているが、これは安易におだてに乗ってはならないと私は考える。
同胞の自虐史観の人々が言うように、アジアには日本に対する嫌悪感というのが有史以来続いているわけで、それを無視するわけにはいかない。
日本以外の人は、そういう事情を斟酌することなく、普通の人の普通の思考として、有能な者がその立場を全うすればいいと考えるかもしれないが、人は理性や知性のみで動くのではなく、大きく感情に左右されるので、この感情を斟酌すれば我々はアジアでリーダーシップを発揮すべきではなく、その部分では白人をたてるべきである。
そういう場面で白人をたてなければうまく回らない点がアジアの後進性そのもので、アジアの人々は紅毛碧眼の白人には無条件で従うが、黄色人種同士では我が優先するように思える。
恐らくこういう深層心理はアメリカ人やヨーロッパ人には理解不可能ではないかと思う。

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