ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「真相」

2008-03-16 20:35:35 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「真相」という本を読んだ。
分厚くて重厚な体裁の本で、読み通すのが難しそうに見えたけれど、読み始めたら吸い込まれるようにのめり込んでしまった。
元リトアニアの領事館員としてユダヤ人約6千名の命を救ったといわれている杉原千畝の伝記である。
この杉原千畝という人は戦後しばらくは無名の人であったように記憶している。
私自身が杉原千畝なる人物を最初に認知したのが何時だったかは定かに記憶にないが、ユダヤ人の難民、約6千名の命を救ったという事実は由とするも、それが本省の命令違反であって、出先機関の独断専行であったことにいささかの疑念を抱いていたことは事実である。
命令違反という部分に、あの戦争中に独断専行した陸軍の若手将校の行為と同じものを感じ、理由に整合性があれば上の命令を無視しても許されるのか、結果さえよければ命令違反をしても許されるのか、という危惧を持っていたことは確かだ。
人の世の価値観というのは、時代と共に変化するから、なにが真の善か?という問題はきわめて難しい。
時代と、場所と、状況によって、価値観がめまぐるしく変わってしまうわけで、杉原千畝がユダヤ人を救済しようと本省の訓令を無視してビザを発行し続けたことに対して、外務省の本省としては快く思っていないことは無理からぬことだと思う。
自分たちが「駄目だ!」と言ったことを無視しておいて、戦後は「好いことをした」といって評価を高めたとすれば、外務省本省としてはおもしろく思うはずがない。
外務省にすれば当時のドイツとの関係もあって、そうそう人道的という綺麗事を振りかざすわけにも行かなかった事実も勘案しなければならない。
にもかかわらず、それを戦後の価値観で、彼の行為を人道的見地から褒め称えるというのも、価値観の変化の顕著な例であって、これもよくよく深く考えなければならないことだと思う。
結果が良ければすべてオーライ、ということがあり得るのも確かだ。
とはいうものの、自分のしたことが50年後になって始めて「結果、オーライ」になるということは実に素晴らしいことだと思う。
人たるものは、すべてこのような行為をしておかなければならないと思う。
目先のことよりも50年後100年後に評価される足跡を残せるように自分の行いを律しなければならないと思う。
杉原千畝の行為はそれを見事に実証しているわけで、彼が人道的にと思って執った処置が50年後、戦後という時期になって始めて評価されたわけで、そういう意味でも彼の行いは実に見上げたものだといわなければない。
それに引き替え、その都度その都度、本省、あるいは上層部の指示の通りに動くということは、こういう実績には通じないわけで、ならば「組織とは一体なんぞや」という原点に降りかかってきてしまう。
戦争責任を語るとき、上司の指示の通り行動した挙げ句、戦犯に問われた人が洋の東西を問わずあまりにも多くいたではないか。
日本があの戦争にはまりこんでいった根本的な理由は、陸軍の若手将校たちが軍の上層部、あるいは政府の意向を無視して、どんどん戦線を拡大していったことがその理由として挙げられているが、これは結果が敗戦・敗北であったが故に、その若い人々の独断専行を止められなかった指導者層に糾弾の声が集中している。
その反対に明治維新の時は、若い人の独断専行が功を奏して、結果として全てがオーライであったので、そのすべての過程において、論理的に整合性が成り立たったということになっている。
あの時期、戦時中という時期においては、我々の同胞の全部が全部、軍国主義一色であったにもかかわらず、結果が敗戦・敗北であったので、我々のした行為は全てが悪で、侵略行為であったということになってしまったではないか。
世間というのは実に無責任な存在だとつくづく思う。
戦前・戦中を通して、我々の同胞の大部分が大なり小なり軍国主義差者であったにもかかわらず、戦後になるとそのことをきれいさっぱり忘れて、我々はアジアに対する侵略者であって、大いなる迷惑をかけたと言って憚らない同胞に対して、我々はどう考えればいいのだろう。
特に、我々のように「葦の随から天覗く」ような了見の狭い人々の間では、人の話を聞く時にはよほど注意が肝要である。
この無責任を膨張させるのが図らずもメディアで、人の本質、あるいは事の善悪を、時代や、場所や、状況によって、価値観をあっちに寄せたりこっちに引き寄せたりするのがメディアであるということを我々は肝に銘じて知っておかねばならない。
人の話に左右されたり、メディアに踊らされることのないように、自分の信念をふらつかせない覚悟が我々には必要だということである。
その意味で彼、杉原千畝は本人自身の博愛精神、人道主義的な見地として揺るぎないものを持っていたからこそ、自らの信念を貫き通すことができたのであろう。
それが戦後という価値観が逆転した時代に改めて評価されたと見るべきである。
彼の伝記を読んでいて、きわめて興味深い点は、彼が徹底的な軍人嫌いであったというくだりである。
彼は旧満州国の官僚に出向中に、旧ソビエット連邦と東清鉄道の売買交渉に携わったが、それが終了するとあわてて本省に帰ってきてしまっている。
その理由は定かに判らないが、恐らく満州における日本陸軍の軍人たちの立ち居振る舞いが鼻持ちならないと考えていた節があるし、同時にこのころ彼の奥さんがロシア人であったが故に、防諜という点からして軍部との軋轢が鬱陶しく感じていたとも考えられる。
官僚として満州に派遣されるということならば、普通のものならばそこで勇躍するに違いなかろうと思う。奥さんのことで満州に居づらくなるというのも、何とも人間くさくておもしろい部分だ。
彼はこの時代においてすでにロシア、つまり旧ソビエット連邦に関するエキスパートであったにもかかわらず、そういう場面では登用されなかったという点で、外務省としての組織の腐敗が如実に表れていたということであろう。
これは外務省ばかりではなく、いわゆる日本の官僚というのは実績を上げるとその実績がその本人にとってマイナスに作用するという点に組織疲労の元があるようだ。
このことは旧の日本の軍隊の中でも見事に貫かれているわけで、個人が組織の中で大きな実績を上げると、その実績がマイナスに作用して、周りから足を引っ張られる方向に作用するようだ。
結局、組織の中では目立った実績を上げないように振る舞い、大きな実績を残さず、居るか居ないかわからないような陰の薄い存在であれば、いづれ年功序列でお鉢が回ってくるというシステムのようだ。
組織の中で積極果敢に事に当たって実績を上げると、今度はその実績が足かせとなってしまうということだ。
それを一言でいえば、同僚の妬みということになるわけで、功績を挙げた人物を皆でよってたかって褒め称えるのではなく、その功績がねたましく思えて、結果として足を引っ張る方向に作用するものと考えざる意を得ない。
これはある意味で生きた人間として当然の心理だと思うが、問題は、その感情を国益よりも優先させてしまうところに人間の弱さ、つまり官僚としての堕落が表れていると思う。
個人の感情と国益を秤にかけると、国益をさしおいて個人の感情が優先されて、そんなことは生のままでは口にできないので、そのために様々な口実が入用になり、その口実が政治とか、外交とか、交渉の理由付けにされてしまうから、問題の本質がぼやけてしまうのである。
彼、杉原千畝も、自分の管理しているリトアニアの領事館の建物の前に押し寄せてきた大勢の避難民、難民の姿を見てさぞかし驚いたであろう。
さぞかし困ったことだと思ったであろう。
当然、自分の置かれた立場から本省に問い合わせることもしたであろうが、したところで帰ってくる答えは決まっていたに違いない。
そこで、最後は自分の決断しかなかったものと思う。
ここで、妻の意見を聞いてみると「助けましょう」という言葉が彼の背中を前に押したに違いない。
この場面で彼の博愛精神と人道主義が輝いたわけだが、その輝きは約半世紀の間、我々同胞からは無視され続けたわけである。
我々の歴史の中では、個人と組織の問題は、解くのにきわめて困難な主題だと思う。
彼本人も言っているように、「外務省の人間としては違反行為であったかもしれないが、個人としては看過できなかった」という彼の言葉は彼の本音そのものだと思う。
このころの日本は地球規模で戦争をしていたが、本土から遠く離れた離島で敵と戦った様々な部隊で、それぞれに個人と組織の葛藤があったのではないかと思う。
全く勝ち目のないことが歴然としている戦闘において、最後まで戦うべきかそれとも降伏すべきかの選択で、司令官あるいは指揮者たるものは、それぞれにこの選択に悩み抜いたに違いない。
片一方には戦陣訓があり、もう一方には人の命が秤にかかっているわけで、そのどちらを選択するかで決断を迫られたものは大いに悩み抜いたものと思う。
ここで玉砕という選択をすれば、銃後の我々としては、「よく戦った」と賞賛を与えるかもしれないが、敵に降伏した場合、その評価は逆転したに違いない。
そういう場面で決断を迫られた司令官、あるいは指揮者は、恐らくそういうことが頭の中を走馬燈のように駆けめぐって、敵に降伏したとなれば家族や近所の人がどういう反応を示すかまで考え抜いたものと思う。
その結果として、玉砕の道を選択したものが多かったのではなかろうかと私は考える。
問題は、こういう場面で、玉砕したものを賛美し、降伏したものたちを糾弾する我が同胞の心理である。
戦陣訓の教えを将兵に強要した銃後の人々の心理である。
戦陣訓は東条英機が出したのだから、玉砕の責任をすべて東条英機に被せるのは、戦後の我が同胞のある種の責任転嫁に通じるものだと思う。
真の戦争の反省が上滑りなものになっている証拠だと思う。
戦争末期の沖縄戦でも、自決を望む地元住民に対して、若い指揮官が自決を思いとどまるように説得する場面があったにもかかわらず、戦後の進歩的知識人の中には軍人が強制的に自決を強いたように喧伝する輩がいるわけで、そういう知識人のさもしさを、あるいは売名行為をどう考えたらいいのであろう。
この本に語られている杉原千畝にしても、沖縄戦で地元民の自決を思い止まるように説得した若い指揮官にしても、自分の置かれた立場を弁解しないところが実にすがすがしく、男らしく思う。
世間が判ってくれるまでじっと耐えて待っている姿が実に男らしく思われる。
彼らに対する評価は、こういう人たちが助けた相手側から顕彰されて始めて、我々の知るところとなるわけで、我々の内側からは我が同胞が国際的に評価されているということすら認知しようとしない。
これは一体どういう事なのであろう。
杉原千畝の場合も、助けた相手がユダヤ人であり、ユダヤ人の国イスラエルが、日本政府に対して何らかのアクションを起こしたところで、我々にとってイスラエルという国はあまり縁のない国で、比重の置き方は実に軽いということだろうと思う。
これが中国やアメリカからのアクションならば直ちに行動を起こし、すべてに遺漏のないように振る舞うが、何しろ日本にとってはあまりにも縁遠い国なので、その扱いも疎遠になるのであろう。
そういう意味でも我々の国際感覚というのは相当に鈍いもののような気がしてならない。
我々とユダヤ人の関係というのは日露戦争の時からあるわけだが、こういう目に見えない部分には、我々は全く無頓着である。
目に見えるところ、日の当たる場所には過剰に反応するにもかかわらず、目の届かないところ、影響力の乏しそうなところには全く注意を払おうとしない。
これもメディアの責任であるが、日本のメディアはそのことにさえも自ら気がついておらず、ニュースバリューのあるところには洪水のように群がるが、自らニュースバリューを掘り起こそうという気はさらさら無い。
外交という面で、あまりにも国益重視というのも、えげつなさが浮きだってしまうが、人の付き合いとおなじで、見え透いた依怙贔屓というのは見苦しいものだと思う。
国と国の付き合いという点では、政府対政府という関係ばかりではなく、個人レベルの付き合い、国際交流というのも無視できないものがあるように思う。