ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「近代日本の転機」

2008-03-22 07:48:46 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「近代日本の転機」という本を読んだ。
日本の近現代史の教科書のような内容の本であったが、昭和初期の日本人、我々の先輩諸氏は確かに精神的に異常な雰囲気の中の置かれていたように見える。
人間の持つ価値観というのは、時と場所そして時代状況で、その機軸があっちにいったりこっちにいったりと定まらないのはある面で天命というか、人為的には如何ともしえないものがあるのかもしれないが、人が人としてあるべき姿というのは、普遍性をも併せ持っているのも事実ではなかろうか。
例えば「人を殺してはならない」というのは、時、場所、時空を超えて普遍的なことだと思う。
ところが此処に人間としての感情、特に憎しみの要素が介在すると、その普遍性が崩れ、してもよいことになりかねないわけで、いわゆる価値観の機軸がぶれたことになり、その整合性を強調せんがために、ありとあらゆる言説が登場して、その整合性を語り、それが歴史として記述されることになる。
原始の人類、人間はそれぞれの部族単位で平和に暮らしていたと思う。
ところがここで天変地変が起きてその部族の中の平和の均衡が崩れると、それは確実に従来の秩序を揺るがしてしまう。
例えば、天候不順で作物が不作になって部族ごとに移動を開始したとすれば、それは他の平和的に暮らしている部族にも連鎖反応を起こすわけで、結果として人間同士の殺し合いを招くということになる。
人類、あるいは人間の歴史というのはこの連続だと思う。
部族の中では当然のこと仕事の役割分担において階層的な社会になるのも必然的なことであって、統治するものとされるもの、作物を作るものとか戦闘に駆り出されるもの等々という風に専門的な職能別の階層はごく自然にできあがるものと思う。
この延長線上に近代があると思うが、近代は原始社会と比べるとその人口は極めて多くなっている。
それは食料生産の効率化に成功した結果であって、人々は歴史の教訓として、食料生産の効率化を上手に克服したので、その余剰生産物を如何に管理するかで、貧富の差が生じてきた。
この貧富の差というのは、同じ部族同士の間だけの勝ち組と負け組の問題であったものが、ここに人間の欲望というものがそれに輪をかけたわけで、富めるものはますます富を収奪しようと考えた。
富を限りなく大きくしようとすると、それは人々を如何に管理するかという統治の問題に行き着き、最終的には政治の問題となる。
原始から近代に至る過程で、交通手段の発達と情報伝達の手段の発達が相まって、富めるものあるいは統治するものは、この両方を手中に収めることで富の拡大がますます容易になると考えられた。
ところが、これらの文化文明の進化というのは、富めるものみならず、統治する側のみならず、普通の人々もその一端に接することができるようになってくると、富の収奪願望というのは下層部分にも広範に広がった。
近代に至って、本来ならば社会の上層部しか接しれなかった情報に、下層階級のものも接することが可能になると、人々はこぞってそのチャンスに群がったわけである。
豊かになりたい、安逸な生活がしたい、楽して儲けたいというのは万人に共通する願望であるが、情報が豊富になると、人々の願望も多義にわたるようになり、単純に楽な生活を望むだけでは言い切れなくなってしまったのである。
明治維新を経た我々の先輩諸氏の心の中というのは、こういう潜在意識に満ちていたのではなかろうか。
明治維新の当初のころは、西洋の進んだ文化というのは人づてに聞いて知るのみであったが、日清、日露の戦役で日本の兵隊がアジア、特に中国に地に足を踏み入れてみると、そこには我々以下の生活があったわけで、上を見ればきりがなく下を見てもきりがないということを悟り、ここに庶民レベルのアジア蔑視の概念が醸成されたのではないかと私は考える。
ここでいう兵隊というのは、日本の民衆・大衆・庶民という風に言い換えることできるのではなかろうか。明治初期の段階で、日本から海の向こうを知るというのは極めて限られた人でしかなかったが、従軍という立場にしろ、日本の大衆が海の向こうを知ったということは、その後の日本の人のアジアを見る目に大きな影響を与えたのではなかろうか。
このことが昭和初期の段階で我々の先輩諸氏がアジア、特に中国や朝鮮や台湾を蔑視した元凶ではないかと想像する。
歴史、統治、政治という概念は、基本的に知識人の専有物で、それを語るときは政治家や、統治者や、知識人の動向に目を奪われがちであるが、世の中の動きはその伏流水として大衆、民衆、庶民の潜在意識がそういうものに反映されていると思う。
歴史を語るとき、ともすると政治家や統治者あるいは軍人の言説が大きなウエイトを占めているが、その根本のところには、大衆の潜在意識が大きく作用していると思う。
我々の昭和史をひもといてみると、昭和の初期の段階で関東軍の独断専横が諸悪の根元であったことは論を待たないが、今戦後63年を経た時点で考えてみると、なぜあの軍人の命令違反、独断専横を糾弾し、諫めることができなかったのだろう。
あれは明らかに犯罪行為に等しいことではないか。法律違反そのものであったではないか。テロ行為そのものではないか。
私は東京裁判史観を由とするものではないが、我々の同胞の犯したテロ行為に対して、我々の同胞の中からそれを糾弾する声が出てこなかったことが不思議でならない。
しかし、それを糾弾する声はあった。あったが、当人、つまり関東軍がそれを無視したので政府としてはそれを追認するほかなかったということは言えていると思う。
この状況を俯瞰的視点で眺めてみると、この当時の大日本帝国陸軍というのは完全に組織破壊していたということに他ならない。
組織のトップがモラルハザードを起こしていたということに尽きる。
軍人精神のメルトダウンが起きていたということだ。
内側に泥棒を飼っていたようなものだ。
このモラルハザードこそ日清・日露の戦役で日本の将兵、日本の大衆として将兵、徴兵制の下で日本全国からかり集められた若者、日本人がマスとしてアジアの人々を眺めた結果としてのアジア蔑視の概念であったものと推察する。
関東軍の好き勝手な行動に対して効果的な処置を講じることができなかった原因は、やはり同じ皇軍としての武力集団であって、泣く子と地頭には勝てぬというものであったろうと思うが、ここで問題になるのが関東軍の高級参謀としてのモラルハザードである。
このときのモラルハザードを判りやすい例にたとえると、日本占領中のマッカァサーがトルーマン大統領のいうことを無視して朝鮮戦争に原爆を使うようなもので、これと同じことを我々の同胞の関東軍がしたのに等しい。
トルーマン大統領はマッカァサーを解任することで彼の意図を封じ込めたが、我々はその独断専横を許し追認してしまったわけである。
この違いを我々はどう考えたらいいのであろう。
この時点ではそういう認識は軍部にも政府にも国民にも爪の垢ほども存在していなかったろうと思う。
ここで再びメディアの責任が問われる。
関東軍の行動を国民、大衆の側に立って「勝った!勝った!」といって褒めそやし、報道でもって国威掲揚につなげた責任はメディアの側にあるはずだ。
政府あるいは軍首脳、参謀本部の意向を、非戦を目指すものと決めつけ、戦争回避の努力を優柔不断と決めつけ、弱腰外交と糾弾して、それをメディアが煽りに煽って好戦的な雰囲気が増幅されたわけで、国民は上から下まで軍国主義一色の塗り替えられてしまったのである。
その意味で昭和初期の日本の民衆、大衆、庶民はそのことごとくが軍国主義者あるいは帝国主義者になってしまったわけで、その責はひとえにメデイアに帰すると思う。
昭和の我々の政治をよくよく見てみると、日本の政府は天皇も含めて常に非戦、戦争を回避する努力を重ねていたにもかかわらず、国民の方はすべからくイケイケドンドンであったわけで、その意味でも草の根の軍国主義であったわけである。
日本の軍部のある部分が暴走して、それを政府としてあるいは軍の上部の組織として止められなかったということは、それを国民がメディアにリードされてフォローした面があるにしても、基本的に明治憲法に欠陥があったわけで、その欠陥とはいうまでもなく統帥権というものであった。
これは敗戦という外圧でなければその欠陥を是正する権能がどこにもなかったわけで、そうなるべくして落ち着くところに落ち着いたということかもしれない。
しかし、その結果としての戦後の政治も、悔しいかな、マッカァサーのいう「12歳の子供の政治」の域を出るものではない。
物事を決める。あっちいくかこっちにいくか、あの道を選ぶかこの道を選ぶか、取るか取らないか、するかしないかという二者択一を迫られたとき、人が複数いれば意見がわかれるのは当然のことである。
議会制民主主義のなかで与党と野党があるのは至極当然のことであるが、その両方が同じ民族、あるいは同じ国の国民であるとするならば、求めるものは一つであるのが当然だと思う。
与党と野党の違いは、目的は同じだがその方法手段の相違でなければならないはずであるが、戦後の日本の政治状況というのは、そういう大局的な政治目標というのは存在せずに、目標がないのに綺麗事の公約のみが氾濫しているので、意見の集約ということが成り立たない。
敗戦によって打ちのめされた状況から再建を果たそう、日本が占領から脱して独立しようかというときに、「独立しなくても良い。占領のままの方が良いんだ」という、当時の日本の知識人の思考をどう考えたらいいのであろう。
戦後の同胞の知識階層は、戦勝国の占領下のままでおれば、再び血を見ることはなかろうという、奴隷根性にさいなまれた自虐的な思考に対して、民族の誇りと自主性を説くには如何なる方法があるのであろう。
この思考が生のままで政治の場に現れるわけで、これでは政治・外交の目標そのものが最初から存在していないのと同じで、政治が政治たりえていないと思う。
結果として日本の野党というのは、ただただ意味もなく与党の足を引っ張るだけに徹しきっているわけで、政治の混迷を沸き立たせているにすぎない。
これは今日の政治状況でも何ら変わることはないわけで、民主党の日銀総裁選出に対する拒否などにも、見事に現れている。
海上自衛隊のイージス艦が漁船と衝突した際、救難活動をしている最中から、防衛大臣の責任を追及し更迭を言い出すなんことは、物事が如何にわかっていないかということを如実に表している。
ただただ反対するだけの存在で、国益のことも眼中になければ、政治とは如何なるものかということも判らず、ただただ政府あるいは自民党を困らせるだけのもので、それが政治だと思い違いをしているだけのことで、ある意味で政治の私物化である。
「自民党がいきなり総裁人事を提出した」といって抵抗しているが、日銀総裁の交代など前々から判っているわけで、ならば民主党もそれに対する準備として人選をしておけばいいわけで、それをせずにおいて自民党のみを責めるというのは、得手勝手というものである。
こういう面からも「12歳の子供の政治」と言われる所以である。
この政治の体質というのは、昭和の初期においても今と大して変わっていなかったと想像する。
こういう政治体制だったからこそ、軍人に政治の場を奪還されてしまって、政治家としての発言が封じ込まれてしまったものと考える。
政治というものはバランス感覚だと思う。
大勢の人々の利害得失を如何にバランスさせるかということだと思うが、我々の政治、議会制民主政治というのは、バランス調整する前に足の引っ張り合いになってしまうので、暗礁に乗り上げてしまう。
暗礁に乗り上げたところで、結果としては落ち着くところに落ち着き、行きつくところに行き着くので、解決したような気でいるが、実際は何も解決していないのである。
解決しないまま時が流れるとそれが歴史となって定着してしまう。