例によって図書館から借りてきた本で、『無国籍』という本を読んだ。
著者は陳天璽という横浜中華街生まれの女性ということである。
1971年生まれということで日本の年号で言えば昭和46年生まれで、我が息子よりも若い世代の女性であった。
この本の表紙を見ても判るように、『無国籍』というものを誇示するかのように、堂々と表舞台に立った印象を受けるが、これは無責任な思い上がりのように見えてならない。
この本は、著者である横浜中華街で生まれた女性が、成人して日本国籍を取るまでの自分史としては実によく書かれている。
無国籍になったのは本人の所為ではなく、両親の選択の結果であったが、私はこの両親の国籍に対する考え方が我慢ならない。
彼女の父親は元満州と言われた中国東北部の出身で、母親は中国の南の方の出身だそうだが、それが第2次世界大戦の終了の混乱の中で結ばれ、台湾に逃れた国民党政権とともに、一時台湾で生活していたが、その後、父親の日本留学に際して家族全員が日本に居ついたとなっている。
いわゆる華僑であるが、本人は日本の横浜中華街で生まれたと述べている。
本人が無国籍あった理由は、両親がそういう選択をした結果だ、と述べられているがこの両親の選択そのものが私には納得できるものではない。
戦後の混乱の中で、日本に渡って来た父親は、横浜で居を構え生活をし、それなりに家族を養っていたが、1949年、昭和24年、中華人民共和国がアジア大陸に誕生した。
同時に台湾は蒋介石の中華民国のままであったので、外国にいる中国人は、そのどちらかの国の国民として自分の意思を表明しなければならなかった。
その時もう一歩踏み込んで言えば、日本に住み日本で生活している以上、日本に帰化するという選択肢も彼らにはあったものと推察する。
この両親は、こういう状況下で、敢えて自己の意思で、無国籍を選択したわけで、彼女の父親というのは日本の大学にも留学したインテリ―であったので、無国籍とコスモポリタンを同一視していたのかもしれないが、これは独りよがりの思い上がりでしかない。
日本で生まれ、日本で育って、日本で生を全うしている純粋日本人からすれば、国籍などというものを真摯に考えたことはない。
そんなものは空気や水と同じで、どこにでもあって当たり前、国籍を持たない人間など想像だにできない。これは何処の国でも、どの民族でも同じだろうと思う。
自分の生まれた場所で、自分の周りの人々に育まれて成長し、自分が成人した暁にはそれらに何らかの貢献をする心つもりの人間にすれば、国籍などというものは、海外旅行をするときのパスポートの申請の時にいくらか意識の底に思い浮かべる程度のものでしかない。
そもそも自分の国籍を意識して生きるということ自体、自分の生き方が問われているわけで、その人の生き方がしっかりと足を地につけた生き方であれば、国籍が問われることはない。
この著者の父親が、無国籍を選択したという点が、私ども純粋日本人の視点からすれば、非常に不遜で、一人善がりで、独善的であり、国家というものを舐めた態度だと思う。
華僑という言葉の定義も、正確な解釈があるに違いなかろうが、私の無責任な認識では、中国の地を離れて海外で生きている中国人の総称と捉えている。
そういう人達は押しなべて商業を生業としているわけで、この本の著者の両親も、横浜中華街でレストランを経営している。
純粋日本人の価値観の中には、21世紀の今日においても、士農工商という価値観の順位は歴然と生きているわけで、古典的な日本人の思考からすると、商売というのは最も価値の低い生業である。
だが、生きんがためにはそんな綺麗ごとは通用しないわけで、他国から流れ着いた者が、てっとり早く生きる糧を得るためには、商いに精を出すことは当然の成り行きではあろう。
問題は、その商いが軌道に乗っても、自分が華僑であるという誇りを捨てずに、周囲に同化しようとしない思考にある。
周囲に同化することを潔しとしない思考の奥底には、漢民族固有の華夷秩序の思いが残っていて、自分たち以外の人間は下等な人間、という意識を払拭仕切れないので、それが日々の生活態度に反映されているものと推察する。
彼らの生業が、周囲よりも一段を低い生活様式であろうとも、意識の中では「自分達は周囲の日本人よりも気高い存在だ」という意識を持っているので、ある意味で孤高でいられるのである。
そこに持ってきて、彼らの価値観では、自分の親兄弟、一族郎党が幸せならばそれで万々歳なわけで、他者に対する気配りとか思いやりというのはありえず、文字通り生き馬の目を抜く処世術を身につけなければならなかったのである。
我々のような純粋日本人であれば、国籍などというものは全く意識せずに日々暮らしているが、自分の国の外に出て、外国人の立場になってみれば、その国の法律を順守することは当然のことである。
そういう立場に身を置いてみれば、自分の国籍という意識は、寝ても覚めついて回るのが普通であって、パスポートは自分の祖国が本人の身分を保証するものである。
本人が無国籍であるということは、どこの国でも、どこに行っても、国家としても、行政としても、救済の手を指しのべる術が無いということになる。
彼女の父親は、そういう選択を自らの意思で行ったわけで、その上母親に至っては、日本国籍を嫌悪している風にも描かれているが、こうい思考だからこそ中国人は世界から嫌われるのである。
母親が日本を嫌悪する根底には、戦時中に日本軍が大陸であこぎなことをしたということが理由になっているらしいが、ならば日本におらずに中国に帰ればいいではないか、という想いに至るのは私だけの事であろうか。
この本の著者は、この母親の娘であるが、その娘が日本国籍をとる、いわゆる日本に帰化するについては大反対であったと言うのだから驚く。
この母親の思考は、中国人の思考、漢民族の潜在意識、華僑の生き様を如実に表していると思う。
つまり、人が生きるということは、自分一人が得をすればすべて良し、世界は自分一人の為にある、という思考で他者との共存共栄を信じていないということである。
世の中は、人と人が助け合って成り立っていることに思いが行っていないわけで、この母親の信念である中国人のアイデンテイテイーは、日本人は何処までいっても敵国人で、まさしく華夷秩序の刷り込みから抜け切れていなかったということだ。
戦後の復興期を経た横浜中華街の繁栄の中で、商いに精を出しておれば、自分の国籍について思い煩う暇もなかったかもしれない。
だが、その家の商売が繁盛するということは、日本の政治がきちんとしていたからに他ならず、この一家の故郷では革命があり、飢饉があり、文化大革命があったではないか。
そういう事が我が日本の戦後には何もなかったので、この一家は成功をおさめ、豊かな生活が出来ているのであって、それはまるまる個人の努力だけではなく、社会のシステムとしての成果でもあったことを忘れてはならない。
ところがこの母親はそれを理解しようとせず、娘が日本国籍を取ることを、旧敵国に身を委ねるという想いを描いているので、それに対して不快感を示したということだ。
日本が戦後復興に成功して、高度経済成長を驀進していた頃、日本の労働力不足を補うため、あるいはただ単なる金稼ぎのために諸外国から大勢の人間が入ってきたが、そのなかには当然、昔の女衒という類の人に騙されて日本に来た人も大勢いるに違いない。
人に騙されるような人だから教育程度も低く、そういう女性が日本で子供を産み、無知なるが故に正規の手続きもしない、出来ないまま、無国籍の子供が増え続けるわけで、我々の認識からすれば無国籍者と言えば、こういう人間をイメージする。
だから無国籍者ということは、犬か猫ぐらいのものでしかないわけで、人の形をしていても人と見なされない。
だから何処の国でも、受け入れを断り、援助の手の差し出しようもないわけで、一人路上をさまようということになる。
人間は自分の国を選択してこの世に出てくるわけではなく、たまたま生まれ落ちたところで正規の手続きを踏んで、それが承認されて自分の祖国として国籍が付与される。
しかしそうであっても、そういう手続き、いわゆる正規の手続きというものは人為的なものであって、時の情勢でどういう風にも変わってしまうので絶対的なものではないが、一応今の世界では既存の政府の発行した書類で以て個人の国籍を示すものとして通用している。
この本の著者の父親は、無国籍がコスモポリタンの理念に一案近いと思ったから、無国籍という選択をしたのであろうが、それは高度な教育を受けた人の発想としては最も狡い思考である。
自分が無国籍のままこの日本で生きるということは、世間一般の恩恵は最大限に享受し、それに対する見返り、いわゆる義務は、無国籍を理由に免れようという思考だと思われる。
一例を挙げれば、在日韓国人で韓国籍を持っておれば兵役の義務がついて回ると思うが、日本籍あるいは無国籍あれば、兵役という義務は追っかけてこないと思う。
それと同じように、この日本の繁栄の中で、すべての利便を最大限享受しておきながら、社会に対して何かを還元しなければとなった時、「私には国籍がありませんから」と言って逃げ口上に利用することが考えられる。
我々純粋日本人ならば、改めて自分の国籍について考えることもないであろうが、日本に住む外国人からすると、日本国籍というのは非常に価値の高いモノらしい。
ソフトバンクの孫正義氏も、金美齢女史も、ドナルド・キーン氏も、日本国籍を得た時の嬉しさを素直に表明されていたが、その感覚は我々のような純粋日本人には理解し難い物のようだ。
この著者は、自分が無国籍であったものだから、自分以外の無国籍者についての関心が膨らんで、自分の研究テーマとしているが、こういう人が問題提起したことによって、無国籍者が急に脚光を浴びるようになった。
だが、そういう人は今まで社会の隅で細々と生きてきたのではないかと思う。
この著者の両親は無国籍でありながら、横浜の中華街で堂々とレストランを経営していたわけで、娘がその真実を暴露しなければ、誰もその事に注意を払う者はいなかったにちがいない。
国籍が有ろうが無かろうが、それを要求される機会が無ければ、そのまま済んでしまうことであって、それが要求される機会というのは、大きな責任を伴う場合に限られている。
つまり、これを別の視点から見ると、大きな仕事、大事な仕事を任せるについては、身元のしっかりした、いわゆる国籍のはっきりした者でなければ任せられない、ということである。
それは、この本の中にも詳細に描かれているように、無国籍者では国連でも相手にされなかった、という事実が如実に示している。
無国籍がコスモポリタンと同意語、同義語と思う点からして間違っているわけで、国籍がないというだけで、人はその人を信用しないということである。
地球規模で見て、国籍が無い、どこの国もその人間を自国民として認識しない、何処の国でも認められない人間を信用するわけにはいかない、というのは極めて普遍的なことだと思う。
国連、国際連合というのは国家主権や国境線を否定する夢想社会を目指すものではなく、現実を素直に認識して、規定のルールの中でベストの答えを出す工夫をする場であって、その基底にある信念は、主権の尊重と法による統制であって、何でもかんでも感情論で説くものではない。
感情論の入り込むすきなど全くないわけで、轍頭轍尾、理詰めの議論をするところであって、国籍の無い人間が近寄れるような場ではなかったわけだ。
この世に生を受けた人間が、自分の祖国や行った先々の法律をきちんと順守しておれば、国籍を失うなどということは有り得ないはずで、この本のケースでも、父親が自分の意思で、どこの国の国籍をも否定したので、そういう状態を呈したということだ。
この父親の選択は非常に奢った思考の結果であって、無国籍であるということはコスモポリタンに一番近い存在と思えたかもしれないが、コスモポリタンであればこそ、どこの主権国家もそれを受け入れなかったのである。
世界の精神性はそこまで進化しておらず、この地球上の既存の国家は、従来通りの主権と国境の概念を捨てきれていなかったということだ。
地球人、コスモポリタンという考え方も、人間の知恵としては有り得るであろうが、仮に国境と国家主権が否定されたとしても、人々がいきなり地球規模で流動化することは考えられない。
昨今の人間の生き様は、如何なる国でも地方分権の要求が高まっているが、この地方分権を要求する根底には、自分たちの事は自分たちでコントロールしたいというもので、それを推し進めれば、再び新たな境界線と新たなローカル・ルールの確立ということに繋がり、既存の国家システムの再構築に過ぎないではないか。
自分たちの事は自分たちで決める、というのが国家の基底にある精神性なわけで、それを主権と称している。
この著者の父親は、その部分を否定して、自分は何処の国の庇護も必要ない、自分の事は自分で決め処理すると決心したからであろうが、そういうロビンソン・クルーソーのような生活は、現代には有り得ないわけで、ただ単なるトラブルメーカーでしかない。
当時者でないからよくわからないが、仮に無国籍の者が役所に何かの申請に行った場合、無国籍なるが故に普通の人の2倍も3倍も余分な手続きを経ねばならず、本人もその煩雑さに閉口するに違いない。
この著者は、研究対象として無国籍の人とも接触をしてインタビューをしているが、国籍の無い人というのは、押しなべて棄民と同じなわけで、国家から捨てられた人々である。
国家から捨てられたという意味は、本人が必要な手続きをしなかったから救済の手が届かなくなった、という意味もあって、全て国家や行政が悪いとも限らない。
自分が裕福で恵まれた環境にいる人は、善意から「そういう気の毒な人を救済しなければ」というが、自らそういう環境から出る努力しない人に、どう説得すればいいのであろう。
アフリカ北部のナイジェリアの石油基地でテロ攻撃があって、日本人も少なからず犠牲になったようだが、こういう所から出てくる難民もきちんとした国籍など無いまま漂てくるのであろうが、こういう問題を如何にクリアーするかは大きな課題だと思う。
この本の著者のように高学歴であれば、自分で一つづつ関門をクリアーして前に進めるであろうが、難民として一括りされるような人たちは、きっと事務手続きなど自分でする才覚など持ち合わせていないと思う。
こういう人は社会の隅で細々と生き、誰にもみとられずに生を全うするであろうが、それがある意味で人間の自然の姿ではないかと思う。
大勢の親族に見守られて息を引き取る人もいるであろうが、そういう人の方が稀であって、生きとし生けるものは誰にもみとられずに自然死するのが自然の摂理だと思う。
著者は陳天璽という横浜中華街生まれの女性ということである。
1971年生まれということで日本の年号で言えば昭和46年生まれで、我が息子よりも若い世代の女性であった。
この本の表紙を見ても判るように、『無国籍』というものを誇示するかのように、堂々と表舞台に立った印象を受けるが、これは無責任な思い上がりのように見えてならない。
この本は、著者である横浜中華街で生まれた女性が、成人して日本国籍を取るまでの自分史としては実によく書かれている。
無国籍になったのは本人の所為ではなく、両親の選択の結果であったが、私はこの両親の国籍に対する考え方が我慢ならない。
彼女の父親は元満州と言われた中国東北部の出身で、母親は中国の南の方の出身だそうだが、それが第2次世界大戦の終了の混乱の中で結ばれ、台湾に逃れた国民党政権とともに、一時台湾で生活していたが、その後、父親の日本留学に際して家族全員が日本に居ついたとなっている。
いわゆる華僑であるが、本人は日本の横浜中華街で生まれたと述べている。
本人が無国籍あった理由は、両親がそういう選択をした結果だ、と述べられているがこの両親の選択そのものが私には納得できるものではない。
戦後の混乱の中で、日本に渡って来た父親は、横浜で居を構え生活をし、それなりに家族を養っていたが、1949年、昭和24年、中華人民共和国がアジア大陸に誕生した。
同時に台湾は蒋介石の中華民国のままであったので、外国にいる中国人は、そのどちらかの国の国民として自分の意思を表明しなければならなかった。
その時もう一歩踏み込んで言えば、日本に住み日本で生活している以上、日本に帰化するという選択肢も彼らにはあったものと推察する。
この両親は、こういう状況下で、敢えて自己の意思で、無国籍を選択したわけで、彼女の父親というのは日本の大学にも留学したインテリ―であったので、無国籍とコスモポリタンを同一視していたのかもしれないが、これは独りよがりの思い上がりでしかない。
日本で生まれ、日本で育って、日本で生を全うしている純粋日本人からすれば、国籍などというものを真摯に考えたことはない。
そんなものは空気や水と同じで、どこにでもあって当たり前、国籍を持たない人間など想像だにできない。これは何処の国でも、どの民族でも同じだろうと思う。
自分の生まれた場所で、自分の周りの人々に育まれて成長し、自分が成人した暁にはそれらに何らかの貢献をする心つもりの人間にすれば、国籍などというものは、海外旅行をするときのパスポートの申請の時にいくらか意識の底に思い浮かべる程度のものでしかない。
そもそも自分の国籍を意識して生きるということ自体、自分の生き方が問われているわけで、その人の生き方がしっかりと足を地につけた生き方であれば、国籍が問われることはない。
この著者の父親が、無国籍を選択したという点が、私ども純粋日本人の視点からすれば、非常に不遜で、一人善がりで、独善的であり、国家というものを舐めた態度だと思う。
華僑という言葉の定義も、正確な解釈があるに違いなかろうが、私の無責任な認識では、中国の地を離れて海外で生きている中国人の総称と捉えている。
そういう人達は押しなべて商業を生業としているわけで、この本の著者の両親も、横浜中華街でレストランを経営している。
純粋日本人の価値観の中には、21世紀の今日においても、士農工商という価値観の順位は歴然と生きているわけで、古典的な日本人の思考からすると、商売というのは最も価値の低い生業である。
だが、生きんがためにはそんな綺麗ごとは通用しないわけで、他国から流れ着いた者が、てっとり早く生きる糧を得るためには、商いに精を出すことは当然の成り行きではあろう。
問題は、その商いが軌道に乗っても、自分が華僑であるという誇りを捨てずに、周囲に同化しようとしない思考にある。
周囲に同化することを潔しとしない思考の奥底には、漢民族固有の華夷秩序の思いが残っていて、自分たち以外の人間は下等な人間、という意識を払拭仕切れないので、それが日々の生活態度に反映されているものと推察する。
彼らの生業が、周囲よりも一段を低い生活様式であろうとも、意識の中では「自分達は周囲の日本人よりも気高い存在だ」という意識を持っているので、ある意味で孤高でいられるのである。
そこに持ってきて、彼らの価値観では、自分の親兄弟、一族郎党が幸せならばそれで万々歳なわけで、他者に対する気配りとか思いやりというのはありえず、文字通り生き馬の目を抜く処世術を身につけなければならなかったのである。
我々のような純粋日本人であれば、国籍などというものは全く意識せずに日々暮らしているが、自分の国の外に出て、外国人の立場になってみれば、その国の法律を順守することは当然のことである。
そういう立場に身を置いてみれば、自分の国籍という意識は、寝ても覚めついて回るのが普通であって、パスポートは自分の祖国が本人の身分を保証するものである。
本人が無国籍であるということは、どこの国でも、どこに行っても、国家としても、行政としても、救済の手を指しのべる術が無いということになる。
彼女の父親は、そういう選択を自らの意思で行ったわけで、その上母親に至っては、日本国籍を嫌悪している風にも描かれているが、こうい思考だからこそ中国人は世界から嫌われるのである。
母親が日本を嫌悪する根底には、戦時中に日本軍が大陸であこぎなことをしたということが理由になっているらしいが、ならば日本におらずに中国に帰ればいいではないか、という想いに至るのは私だけの事であろうか。
この本の著者は、この母親の娘であるが、その娘が日本国籍をとる、いわゆる日本に帰化するについては大反対であったと言うのだから驚く。
この母親の思考は、中国人の思考、漢民族の潜在意識、華僑の生き様を如実に表していると思う。
つまり、人が生きるということは、自分一人が得をすればすべて良し、世界は自分一人の為にある、という思考で他者との共存共栄を信じていないということである。
世の中は、人と人が助け合って成り立っていることに思いが行っていないわけで、この母親の信念である中国人のアイデンテイテイーは、日本人は何処までいっても敵国人で、まさしく華夷秩序の刷り込みから抜け切れていなかったということだ。
戦後の復興期を経た横浜中華街の繁栄の中で、商いに精を出しておれば、自分の国籍について思い煩う暇もなかったかもしれない。
だが、その家の商売が繁盛するということは、日本の政治がきちんとしていたからに他ならず、この一家の故郷では革命があり、飢饉があり、文化大革命があったではないか。
そういう事が我が日本の戦後には何もなかったので、この一家は成功をおさめ、豊かな生活が出来ているのであって、それはまるまる個人の努力だけではなく、社会のシステムとしての成果でもあったことを忘れてはならない。
ところがこの母親はそれを理解しようとせず、娘が日本国籍を取ることを、旧敵国に身を委ねるという想いを描いているので、それに対して不快感を示したということだ。
日本が戦後復興に成功して、高度経済成長を驀進していた頃、日本の労働力不足を補うため、あるいはただ単なる金稼ぎのために諸外国から大勢の人間が入ってきたが、そのなかには当然、昔の女衒という類の人に騙されて日本に来た人も大勢いるに違いない。
人に騙されるような人だから教育程度も低く、そういう女性が日本で子供を産み、無知なるが故に正規の手続きもしない、出来ないまま、無国籍の子供が増え続けるわけで、我々の認識からすれば無国籍者と言えば、こういう人間をイメージする。
だから無国籍者ということは、犬か猫ぐらいのものでしかないわけで、人の形をしていても人と見なされない。
だから何処の国でも、受け入れを断り、援助の手の差し出しようもないわけで、一人路上をさまようということになる。
人間は自分の国を選択してこの世に出てくるわけではなく、たまたま生まれ落ちたところで正規の手続きを踏んで、それが承認されて自分の祖国として国籍が付与される。
しかしそうであっても、そういう手続き、いわゆる正規の手続きというものは人為的なものであって、時の情勢でどういう風にも変わってしまうので絶対的なものではないが、一応今の世界では既存の政府の発行した書類で以て個人の国籍を示すものとして通用している。
この本の著者の父親は、無国籍がコスモポリタンの理念に一案近いと思ったから、無国籍という選択をしたのであろうが、それは高度な教育を受けた人の発想としては最も狡い思考である。
自分が無国籍のままこの日本で生きるということは、世間一般の恩恵は最大限に享受し、それに対する見返り、いわゆる義務は、無国籍を理由に免れようという思考だと思われる。
一例を挙げれば、在日韓国人で韓国籍を持っておれば兵役の義務がついて回ると思うが、日本籍あるいは無国籍あれば、兵役という義務は追っかけてこないと思う。
それと同じように、この日本の繁栄の中で、すべての利便を最大限享受しておきながら、社会に対して何かを還元しなければとなった時、「私には国籍がありませんから」と言って逃げ口上に利用することが考えられる。
我々純粋日本人ならば、改めて自分の国籍について考えることもないであろうが、日本に住む外国人からすると、日本国籍というのは非常に価値の高いモノらしい。
ソフトバンクの孫正義氏も、金美齢女史も、ドナルド・キーン氏も、日本国籍を得た時の嬉しさを素直に表明されていたが、その感覚は我々のような純粋日本人には理解し難い物のようだ。
この著者は、自分が無国籍であったものだから、自分以外の無国籍者についての関心が膨らんで、自分の研究テーマとしているが、こういう人が問題提起したことによって、無国籍者が急に脚光を浴びるようになった。
だが、そういう人は今まで社会の隅で細々と生きてきたのではないかと思う。
この著者の両親は無国籍でありながら、横浜の中華街で堂々とレストランを経営していたわけで、娘がその真実を暴露しなければ、誰もその事に注意を払う者はいなかったにちがいない。
国籍が有ろうが無かろうが、それを要求される機会が無ければ、そのまま済んでしまうことであって、それが要求される機会というのは、大きな責任を伴う場合に限られている。
つまり、これを別の視点から見ると、大きな仕事、大事な仕事を任せるについては、身元のしっかりした、いわゆる国籍のはっきりした者でなければ任せられない、ということである。
それは、この本の中にも詳細に描かれているように、無国籍者では国連でも相手にされなかった、という事実が如実に示している。
無国籍がコスモポリタンと同意語、同義語と思う点からして間違っているわけで、国籍がないというだけで、人はその人を信用しないということである。
地球規模で見て、国籍が無い、どこの国もその人間を自国民として認識しない、何処の国でも認められない人間を信用するわけにはいかない、というのは極めて普遍的なことだと思う。
国連、国際連合というのは国家主権や国境線を否定する夢想社会を目指すものではなく、現実を素直に認識して、規定のルールの中でベストの答えを出す工夫をする場であって、その基底にある信念は、主権の尊重と法による統制であって、何でもかんでも感情論で説くものではない。
感情論の入り込むすきなど全くないわけで、轍頭轍尾、理詰めの議論をするところであって、国籍の無い人間が近寄れるような場ではなかったわけだ。
この世に生を受けた人間が、自分の祖国や行った先々の法律をきちんと順守しておれば、国籍を失うなどということは有り得ないはずで、この本のケースでも、父親が自分の意思で、どこの国の国籍をも否定したので、そういう状態を呈したということだ。
この父親の選択は非常に奢った思考の結果であって、無国籍であるということはコスモポリタンに一番近い存在と思えたかもしれないが、コスモポリタンであればこそ、どこの主権国家もそれを受け入れなかったのである。
世界の精神性はそこまで進化しておらず、この地球上の既存の国家は、従来通りの主権と国境の概念を捨てきれていなかったということだ。
地球人、コスモポリタンという考え方も、人間の知恵としては有り得るであろうが、仮に国境と国家主権が否定されたとしても、人々がいきなり地球規模で流動化することは考えられない。
昨今の人間の生き様は、如何なる国でも地方分権の要求が高まっているが、この地方分権を要求する根底には、自分たちの事は自分たちでコントロールしたいというもので、それを推し進めれば、再び新たな境界線と新たなローカル・ルールの確立ということに繋がり、既存の国家システムの再構築に過ぎないではないか。
自分たちの事は自分たちで決める、というのが国家の基底にある精神性なわけで、それを主権と称している。
この著者の父親は、その部分を否定して、自分は何処の国の庇護も必要ない、自分の事は自分で決め処理すると決心したからであろうが、そういうロビンソン・クルーソーのような生活は、現代には有り得ないわけで、ただ単なるトラブルメーカーでしかない。
当時者でないからよくわからないが、仮に無国籍の者が役所に何かの申請に行った場合、無国籍なるが故に普通の人の2倍も3倍も余分な手続きを経ねばならず、本人もその煩雑さに閉口するに違いない。
この著者は、研究対象として無国籍の人とも接触をしてインタビューをしているが、国籍の無い人というのは、押しなべて棄民と同じなわけで、国家から捨てられた人々である。
国家から捨てられたという意味は、本人が必要な手続きをしなかったから救済の手が届かなくなった、という意味もあって、全て国家や行政が悪いとも限らない。
自分が裕福で恵まれた環境にいる人は、善意から「そういう気の毒な人を救済しなければ」というが、自らそういう環境から出る努力しない人に、どう説得すればいいのであろう。
アフリカ北部のナイジェリアの石油基地でテロ攻撃があって、日本人も少なからず犠牲になったようだが、こういう所から出てくる難民もきちんとした国籍など無いまま漂てくるのであろうが、こういう問題を如何にクリアーするかは大きな課題だと思う。
この本の著者のように高学歴であれば、自分で一つづつ関門をクリアーして前に進めるであろうが、難民として一括りされるような人たちは、きっと事務手続きなど自分でする才覚など持ち合わせていないと思う。
こういう人は社会の隅で細々と生き、誰にもみとられずに生を全うするであろうが、それがある意味で人間の自然の姿ではないかと思う。
大勢の親族に見守られて息を引き取る人もいるであろうが、そういう人の方が稀であって、生きとし生けるものは誰にもみとられずに自然死するのが自然の摂理だと思う。