ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

『学問』

2012-12-30 11:25:18 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で『学問』という本を読んだ。
著者は西部邁氏であるが、その内容の難しい事といったらない。
彼は田原総一郎の「朝まで生テレビ」にもよく出ていたので、その意味ではよく知った顔であるが、テレビの場面でも彼のものの言い方は回りくどい持って回ったような言い方で、それがそのまま文章に表れている。
彼は全学連の運動が華やかりし頃、学生運動の闘士でもあり、その方面でも大いに活躍したようだが、学生運動の現状に何か意に沿わないものがあったに違いなく、転向してしまった。
私はこういう若者の精神の葛藤は、極めて健全なことだと考えている、むしろ転向しない方が異常だとさえ思う。
だけれど彼と私は同世代であって、彼が全学連の闘士として、ヘルメットを被って角棒を振り舞わして警察官と渡り合っている時、私は自衛隊員の一人として地べたを這いまわっていた。
1960年代において、彼も学生運動の闘士として各地から集まって来た学生を引き連れてデモに参加して英雄気取りでいたであろうが、それに対峙していた警察官も、彼と同じ世代の若者であった。
一方は革命熱に浮かれて社会秩序の破戒に現を抜かしていたが、その対極には同じ若者でありながら、社会人として社会の秩序を守るべく、血を流す覚悟をしてデモと対峙した世代がいたのである。
60年代の安保闘争や、学園紛争、成田闘争で、デモをした側の人間、デモに参加した側の若者のその時の心情というのは一体何であったのだろう。
あの時、私は社会人として、社会のメカニズムの中に埋没していたので、デモを見に行ったり参加する余裕はなっかたため正確には判らないが、聞くところによると、デモの参加者には日当が出たという話も聞くが、その日当の出どころは一体どこなのであろう。
私は大学に進学していないので、僻み根性ではあるが、同じ若者でも体制側に身を置く若者は、デモ隊の若者と同世代でありながら額に汗して労働をしている。
だが、デモ隊で我がもの顔で道路を占拠して角棒を振り回している若者は、親からの仕送りで暖衣飽食の環境にいるということである。
学生運動の矛盾に直面して、西部邁氏はそれ嫌気がさして転向したのであろうが、それこそ健全な精神の生育であろうと思う。
若くして純な心の内は社会の矛盾は一刻も早く是正しなければならない、と思うのが当然で、その為には現行のシステムを清算して、新しいシステムを構築しなければならない、と思い込むのも無理からぬことである。
だがその方法論となるといくつもの方法があって、どれが最適かわからないわけで、その間に時が流れ、環境も、状況も変化してしまうので、世直しの情熱も覚めてしまうというのが普通の人の普通の思考遍歴である。
それはそれとしてこの本は実に難解で、まさしく現代の哲学書であるが、私は哲学なるものを認めない。
あんなものは知の遊戯でしかなく、「ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う」式の言葉の遊び以外の何ものでもない。
哲学者が凡人に物事を説くのであれば、凡人にも判る平易な凡人語でもって説くべきであって、高遠な学識経験者仲間の内でしか理解しあえないようなこ難しい言語で以て説かれても我々には理解できない。
学会誌にでも投稿する論文ならば、その文章は難解であればあるほど価値が生じるであろうが、凡人に自己の思考を説くのであれば、平易な文章でなければ読んでもらえないと思う。
この意味でこの本は読むには読んだが内容はさっぱり理解できなかった。
時間の浪費でしかなかった。


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