ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「モンスターマザー」

2013-01-10 08:14:17 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「モンスターマザー」という本を読んだ。
著者は石川結貴という女性であるが、2007年の発行ということで、いささか賞味期限切れという感がしないでもない。
内容的には「今どきの若い者は!」という人類誕生以来から続いている普遍的な嘆き節という感がする。
人間の進化というのは、大昔から若い世代が古い規範を乗り越えてきたからこそ今日があるわけで、もしそういう起爆剤が存在していなかったとしたらアマゾンの奥地に住んでいると言われている原住民と何等変わるものではない。
10年前も、50年前も、100年前も、千年前も、万年前も、年老いた者はいつもいつも、「今どきの若者はなげかわしい」と言いつつ、歴史を積みあげてきたに違いない。
その中で、アジアの一部の地域では、儒教思想が人々の精神を司どっていたので、この思想においては「老幼の長」が重んじられて、若者は年長者を差し置いて前に出ることが許されなかった。
それ故に、近代化に立ち遅れたということがあった。
この儒教思想は日本でも太平洋戦争で敗北するまでは生きていたので、この時代を知っている年長者の立場からすると当然「昔の方が良かった」という言葉になる。
儒教思想に裏打ちされた封建制度というのは、完全に男にとって有利なシステムであって、女性の犠牲の上に成り立っていたことは言うまでもない。
しかし、それは今日的な視点から眺めた場合の発想であって、当時の時代状況であってみれば、逆に女性保護の目的があったかもしれない。
当時は、当然のこと身分に応じた生き方が当たり前であって、農民が都会に出て一旗揚げて故郷に錦を飾るという発想は無かったに違いない。
女性は女性の分に応じた生き方をしている限り今のようにストレスを感じることもなかったに違いない。
分に応じた生き方というのは、代々親の職業を継承するという事であって、親が農民であれば子供はそれを継ぐという事が既定の事実として決まっておれば、それから抜け出す努力というのはしなくても済む。
いわゆるそれをストレスと感じなくても済むと言う事だ。
その中で女性の立場というのは明らかに子供を産む機械であって、子供を産まない、産めない女性に何の価値もなかったわけだ。
封建主義、封建制度というのも、今の価値観から考えれば、随分とひどい時代遅れの考え方のように見えるが、あれはあれで人類が生き残るための究極の選択だったと思う。
婚姻制度の確立というのは随分と後世になってからのことで、それまでは人間と言えども犬や猫と同じ様なもので、パワーを持っているものがハーレムを築くことも可能であったわけで、女性の立場などというものは有り得なかったに違いない。
封建制度の元では男子がすべてを決していたので、女性の出る幕は有り得なかったが、明治維新以降、女性のパワ-というものが見直されてきたことは確かである。
しかし、人の在り様、人の作る社会で、人間の数のおおよそ半分は女性であることを考えると、女性の力を無視する、考慮に入れないという選択は、非常に不合理だと思う。
封建制の元では女性にはもともと教育の機会が与えられていなかったので、無知な女性が多かったことは確かであるが、女性でも男と同じように教育を施せば、男と同等の能力がもともと備わっていると思う。
だがしかし、それは何でもかんでも同じかと言うと、それは極論であって、外形を比べたただけでもその相違は歴然としているわけで、「男も女も全く差別するな」という話とは次元が異なっている。
明治維新以降の近代化のなかで、女性に対する教育も徐々にではあるが浸透してきて、それが戦後になると一気に花開くことになったが、その中で新しい社会体制というか、新しいシステムの中で、新しい価値観の中で、男性も女性もそれに如何に対応すべきか指針を見つけ出せれなかった。
だから何でもかんでも男女平等と言う事が大手を振って罷り通ってしまったが、それはただ単に古い価値観を壊すだけの事であって、新しい価値観を考えるものではなかった。
戦後の教育では、アメリカ軍による占領政策として教育改革がなされたが、その目的は封建主義の破戒であって、それに関連してこれも占領政策の一環としての政治犯の釈放、つまり日本共産党の容認ということがあった。
この二つの大きなインパクトによって、戦前の古い考え方は一網打尽に排除された。
そして教育界、教育の現場が日本共産党員と同意語、同義語の日教組の支配するところとなった。
封建性の中にも時代の推移に合わせて改めなければならないところも多々あることは承知の上であるが、全否定すべきものでもないと思う。
「戦争に負けたのだから戦前のものは全て否定すべし」という発想は、そのまま戦前の軍国主義の蔓延と軌を一にするものであって、ある種の時流に迎合する姿である。
こういう傾向に対しては、本来、知識人と言われるオピニオン・リーダーたるべき人が警鐘を鳴らすべきであるが、そういう人たちが真っ先に時流の先頭になって籏振りをするから、世の中の軌道があさっての方向に進んでしまうのである。
モンスターマザーというのは、そういう日教組の先生方に教わった新しい世代なわけで、そういう戦後の教育が「個の尊重」ということを過度に教え込んだので、個人の我儘と個性の尊重の見分けが判らないまま、それらを混同してこういう事態を招いているのである。
今の世代は戦後世代の3世代目であって、戦後の最初の教育を受けた世代はすでに爺婆になっている。
戦後の一番最初に民主教育を受けた世代が爺婆になって、民主化教育の2代目、3代目に当たるのが今の親とその子供である。
第1世代はまだ戦前の価値観を持っていたが、戦後の民主教育ではその価値観が全否定されたので、この爺婆の世代が、自分たちの子供に対して人としての規範を教えることに自信喪失してしまった。
だからこういう時にこそ、普通ならば高等教育を受けた知識人と言われる人たちが、人の生き方の模範というか、基本的な倫理を説き、偏向した思考の軌道修正すべきであったが、こういう階層が全て時流に迎合して、共産主義に媚を売ったというわけだ。
戦前の「バスに乗り遅れるな」という発想と同じ構図そのもので、戦前のバスは軍国主義であったが、戦後のバスは共産主義であったわけだ。
それは戦前において、沈黙することで軍国主義に消極的とはいえ迎合した構図と同じであって、戦後はそれが逆向きのベクトルとして、声高に反政府・反体制を叫ぶことで時流に迎合していたと言う事に繋がる。
戦後の最初のころに、GHQの命じるままに新しい民主教育で教育を受けた世代は、過去のモノの考え方が全否定されたことによって、我が子に対してどういう指針で育てればいいのか判らないまま放置していた。
その前に、自分自身、明日食うコメもない状況下で、子供の事に構っていられないということも有ったであろうが、そういう中で成人に達した人たちが、古い価値観に戻るわけが無い。
新しい民主教育で自由を教えられれば、それを我儘の礼賛ととらえても誰も咎める者はいないわけで、それを知識階層がフォローするに至っては、もう従来の倫理は無いも同然である。
そういう環境下で育った子が、親となって育てた子や孫が今の若者であって、この時代になると日本がアメリカと戦争したことさえ知らない世代なわけで、政府は自分たちに金をばら撒く存在でしかないと思っている。
そう思われても仕方がない面は確かにある。
子供手当、高校無料化、生活保護、幼稚園や保育園の増設等々の施策を見れば、政府は自分達に金をばら撒いてくれる存在と思うのも無理からぬことだと思う。
民主党政権はこういう風に国民に金をばら撒く政策、いわゆるマニフェストで人気を博して一旦は政権を取ってはみたが、所詮、国家を統治という事はアイドルの人気投票とは訳が違うわけで、陽ならずして馬脚を現したということだ。
この世に生れ出てきた人間にとって、教育は無いよりは有った方が良い事は歴然としているが、教育というのもただで出来るものではないし、誰でも彼でも有れば良いというものではない。
世の中には勉強の嫌いな子もいるわけで、学校だけがすべてではないが、世の中で成功した人は基本的には勉強でも頑張った人で、勉強で頑張るという態度が何事にも通じている、ということだ。
「何かに頑張る」という部分が大事なのであるが、世の立派な方々はそういうアプローチをせず、学校の成績だけを見て一喜一憂しているのである。
江戸時代、明治時代、大正時代、昭和時代、平成時代という変遷の中で、常に新しい体制を作ってきたのは若い世代なわけで、大成した年寄りが嘆く世が、次世代の常態となる。
その意味からすると、日本の今後の在り様は、国家の消滅、民族の昇華しかありえず、日本列島から日本人はいなくなると考えねばならない。
そのことは必ずしも日本列島が無人島になるという意味ではなく、日本人もどき、あるいは日本民族の退化した人間が生き残ってはいると思われる。
2009年に民主党政権が出来た時、時の総理大臣・鳩山由紀夫は「宇宙人」と呼称されたが、ああいう人間ばかりになっているのではないかと思う。
小学生の親が給食費を払わないとか、理屈の通らないクレームを学校側に突き付けるなどと言う事は、もう社会そのものが破壊されているわけで、今さら修復の仕様もないと思う。
小学生の親の道徳教育、モラルの向上をどうしたら図られるか、答えがあるわけが無いではないか。
裕福ならば裕福の中で若い世代が堕落し、貧乏ならば貧乏のまま自堕落に陥り、まともに生きる気が最初からないわけで、気のない者にいくら説得を試みたって効果は期待できない。
それと合わせて世の中が至極合理的になったので、昔のような生活スタイルはどこを探しても見当たらず、人々は時代に合わせて生活をせざるを得ず、3度の食事を手作りするまでもなく、コンビニ弁当をチンして済ませられるのである。
今時の住宅事情で、3度3度の食事を家で作ると言う事は究極の贅沢であって、それこそ金があり余るほどなければし得ないことである。
そして情報化の時代でもあるわけで、この本の中にも登場しているが、10年程前には援助交際という言葉があったが、これも情報の発達がもたらした社会現象なわけで、情報が無ければ成り立たないことで、それが今ではケイタイやスマホに進化している。
人間が独りでは生きられないということは自然の摂理であって、お互いに助け合いながら生きるものであるが、その中でその助け合いに協力しない人、それを拒む人、それを拒否する人は、自然の摂理に任せるべきだと思う。
ところが今は福祉ということが声高に叫ばれているので、そういう人たちを自然の摂理のままに放置するわけにもいかず、仲間に引き込もうとして行政やボランテイアグループがあの手この手を弄しているが、どうしてそういうお節介に価値を見出しているのであろう。
一人のホームレス、昔の言葉で言えば乞食であるが、それを目にすると善意の人々は「あの気の毒なホームレスに温かい食事を」という発想に突き動かされて、「救済しなければ」ということを言いだす。
彼らは好きでホームレスをしているわけで、ホームレスの生活が嫌ならば、そこから脱出する手段や方法はいくらでもあるが、彼らはそういうシステムに従属することが嫌だから、自由気儘なホームレスという生き方を選択しているのである。
それが証拠に、乞食というのは何時の時代にも、どこの地域にも、いかなる国家にも居たわけで、人間の在り様の一つの形態なのである。
普通の人からは見下げられているが、その分、普通の人よりも自由を満喫して、自由気儘な生き方を選択しているわけで、何の束縛からも綺麗に解放されている。
ああいう人を救けなければという発想は、疑似文化人の奢り以外の何ものでもない。
自分自身が良い子ぶりたいだけの虚栄心でしかない。


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