ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

『教育を問う』

2013-01-18 17:07:03 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で『教育を問う』という本を読んだ。
日本経済新聞社が2000年10月から紙面に掲載した記事の集大成であった。
今から13年も前の事でいささか時代がマッチしていない部分もあるが、総じて今日でもそのまま通用するテーマである。
そもそも教育問題というのは期限があるはずのものではなく、人間が生きている限りついて回る永遠不滅のテーマではないかと思う。
日本の教育の低落はこの頃から話題にはなっていたように思うが、それはある種の錯覚にすぎず、教育に対する問題意識は尽きることが無い。
この本では制度の不具合と、文科省のガバナンスの問題が大きく取り扱われているが、それには抜け落ちた部分があって、それは日本教職員組合に対する視点である。
学校の在り方や先生の在り方には鋭く突っ込んでいるが、その中にある日教組の在り方については、いささかも記述が無いわけで、これも日本経済新聞というメデイアが大きく左に傾いているという証左である。
日本の教育の荒廃は、日教組の存在に大きく左右されているという実態を、報道しないという行為でもって、日教組の存在を擁護し、それをフォローしているということだ。
報道しないということが、「問題が無い」と同義語化しているわけで、この状況は学校当局がイジメがあっても公表しないことによってそれが無かったと認識する構図と同じであって、実に由々しき問題である。
そもそも公立の学校で、入学式や卒業式という式典で、国旗掲揚や国歌斉唱を拒むような先生の存在そのものが破廉恥なことで、その先生に教えられている生徒は尚のこと可哀想ではないか。
自分の祖国に、敬愛の情を示すことを咎める教育などというものがこの世に存在すること自体が考えられないことではないか。
少なくとも主権国家で、その国民が、自国の国旗や国歌に敬意を払わないことが許される国は無い。
普通の国ならば、そういう人間に対して、国旗や国歌を敬い、敬意を表すべく教えるのが初等教育の眼目になっているはずである。
確かに、不特定多数の国民の中には、自国の政府に対する不満や、反発や、反抗心を抱え込んだ人々の存在は認めざるを得ないが、それはそれで自分達の納得する政府が出来れば、敬意の対象がそちらに移って自分の納得する政府には敬意を表するということは有って当然である。
然れども、人は自分の祖国を選択して生まれ出てくるものではなく、たまたま生まれ落ちた土地が自分の気に入らない国だったとしても、成長の過程においてはその気に入らない国の恩恵に浴すからには、少なからぬ仁義はあった当然だと思う。
自分の祖国の象徴としての国旗と国歌に敬意を払わない行為が許される国というのはありえない。
日本の国公立の教育機関には、自分の祖国の国旗と国歌に敬意を表すると、それが軍国主義に繋がると思い込んで、「そうしてはならない」と説く先生がいるわけで、これでは教育を語る以前の問題でしかない。
主権国家において国家が国民を教育するについて、国家の望むような国民を作る、という国家の作為というのはあって当然である。
国が「自分たちの将来はこういう理念の国であってほしい、その為にはある指針を確立して、その指針に沿って子供の教育をしよう」という国家の意思はあって当然である。
戦前の我々の教育は、それが軍国主義の一辺倒であって、結果として我々は奈落の底に転がり落ちたけれど、戦後はその反省にたって、軍国主義は否定しなければならないが、自分の国を愛しようという祖国愛まで全否定する必要はない。
小中学校の先生は誰が何と言おうと、やはり聖職者であるべきだと思う。
しかし、聖職者だからと言って、全てが清廉潔白な存在であると思うのも一種の早とちりで、聖職者であっても過ちを犯す人もいるわけで、教育現場にイデオロギーを持ち込む行為も、その過ちの一つである。
本人は教育熱心のあまりかもしれないが、その部分の峻別が理解しきれないという部分に戦後教育の荒廃があり、日教組のイデオロギー戦略が見え隠れしている。
今更言う事でもないが日本の教育は明治維新以降、西洋列強に追いつき追い越せという国家指針の元で、義務教育が布告され、日本全国一律に小学校が設立され、中学校が整備され、そこで学んだ人たちが日本の近代化に大きく貢献したことは言うまでもない。
そもそも未開な国が近代化を目指そうとすれば、ある程度は開発独裁でないことには旧弊から脱皮できないはずで、その為には国家の指針を初等教育の現場で強力に刷り込まなければ、近代化への脱皮はおぼつかない。
だから国家が初等教育に大きく関わりを持つということも充分にありうる話である。
そのとき、普通の主権国家であれば、自分たちの国の将来を担う若者の教育に大きな期待を寄せることは当然で、その為には自分たちの国はこういう価値観を追い求めるのだ、という指針をはっきりさせて、その目的達成に沿う教育を施すのは当然の帰結である。
教育ということを素直に考えた場合、教育が有った方が良いか、無い方が良いかと問うたとき、有った方が良い事は当然で、その方がより良い生活に身を委ねるチャンスが大きいことは当たり前と思われる。
つまり教育があった方が、この世を生き抜くのに有利だということは歴然としている。
文字が全く読めない者よりは、読み書きそろばんが出来る者の方が良い仕事にありつけることは確かであろう。
今の世ならば、英語のできるできないの違いに匹敵することであろうが、人々は少しでも良い条件の仕事にありつけるように学校の門を叩くようになった。
ところがこういう学問、いわゆる仕事に有利になる学問、仕事のための学問、就職に有利な学科というのは、本来ならば本当の意味の学問ではないはずである。
明治維新以降の日本の近代化の過程の中で、学問の本義が誤解されてしまって、帝国大学で学ぶ学問が就職のため、あるいは立身出世のツールと見なされてしまった。
就職の為であったり、立身出世のツールとしての知識の習得であるとするならば、それは職業訓練校か技術専門学校の職域でガバナンスすべきものであるが、我々の先輩諸氏はそういう発想に至らなかった。
戦前の日本には海軍兵学校と陸軍士官学校があった。
共に日本の海軍や陸軍の高級幹部を養成する機関であったが、此処に入学できるのはいずれも優秀な若者であったと言われていたが、その優秀であるべき高級軍人、高級将校が、政治に嘴を入れて、結果として日本を焼野原と化し、奈落の底に突き落としたわけで、優秀と言われた評価は嘘だったということだ。
昭和初期の我々の同胞は、海兵も陸士も、帝国大学と同じような『学問の府』と勘違いして認識しており、そこが軍人の為の職業訓練校という認識には至っていなかった。
学問などというものは人間の生存にとって何の役にも立っていない虚業そのものだ。
古代ギリシャやローマでは、貴族の若者がコロッセオの中でのデス・マッチ、いわゆる殺人ゲームに飽きて、ああでもないこうでもない、ああ言えばこう言うこう言えばああ言うと、弁舌による討論をゲーム化して打ち興じていたのが哲学であって、これこそが真の学問であった。
『我思う、故に我あり』という言葉に如何ほどの価値があるのだと言いたい。
こんな寝言の様な文言に、大の大人が何故に思い悩んで呻吟しなければならないのだ。
その間に釘の一本でも作り、畝の一本でも耕せと私は言いたい。
だから学問などというものは普通の人間には何の価値もないものであるが、それを吹聴してまわると、周囲の無学文盲の大衆は「あの人は立派なことを言う」と崇め奉って、こぞって喜捨をするので、似非学者としては額に汗して働くこともなく、楽して左団扇で生きていけたわけだ。
その意味では、哲学も生きんが為の方便の一つであって、雲を掴むようないい加減な話で人を誑かして、弄することなく糊口を得る手段であった。
大学・ユニバーシテーなどというものは、基本的にはギルド・同業者組合かサロンのようなもので、人にモノを教えるという機能は無かったに違いない。
その組合に属する者が遠くの地に行って、学問らしきモノを吹聴して歩くなかで、「あなたのその知識はどこで重ねられたのですか?」と問われたときに、名乗った程度のもので、そもそも大学にはモノを教える機能は無かったのではないか思う。
しかし、モノを教えるについてタダ・無料・無報酬ということはおかしいと思う。
教えを乞うには、それだけの報酬というか対価があって当然だと思う。
この地球上の大部分の国では、子供の初等教育は無料であろうが、父兄の経済負担がゼロであっても、先生の報酬がゼロではないわけで、それは国税で賄われているのが普通であろう。
この本は、日本の教育が他の国に追い抜かれるのではないか、ということを非常に危惧しているが、教育などというものは競争ではないのだから、そんなことを心配する必要は全くないと思う。
主権国家同士の知の比較においてノーベル賞受賞者の数が話題になるが、これはある意味では無意味な比較であろうが、それでも素朴な疑問は私にはある。
と言うのは、中国の受賞者が極端に少ないが、中国は人口では世界でもトップの地位を占めているのに、ノーベル賞の授賞者が極端に少ないということは、社会の体制の所為なのであろうか。
最近は中国人が大挙してアメリカの大学に留学していると聞くが、こんなことは今に始まったことではなく昔からそうであったわけで、ならば中国系のアメリカ人の受賞者が出てきても良さそうに思う。
この本の書かれた頃から、中国人やインド人の教育への関心はトミに上がったと言われているが、その割には彼らが世界的な市場に打って出たという話は聞かない。
近代化以前の封建主義の時代には、女性への教育は機会が無かったので、女性の識字率が低いのは致し方ないが、人間の能力としては男女の格差は殆ど無いと考えていいと思う。
封建制度は男性にとっては有利な制度であったが、その裏をかく女性も皆無ではなく、表向きは男性を建ておいて、裏で操縦する女性も少なからずいた筈である。
それはそれぞれの人間の個性であって、それぞれの才覚でもあり、そういう特異な人間は何時の世にも存在するものであるが、この世の女性をすべてそういう風にしなければならない、という発想は余りにも独善的な思考である。
日本が戦争に負けたことによって、封建制度の名残も一気に雲散霧消して、占領軍による民主教育の元、男女同権にもなり、女性も男と同じ教育を受けるようになると、人間の基本的な権利として、教育を受ける権利というものが確立した。
人々が教育を受けることが権利として認識されると、権利であるからには人々が求めるモノは全て上から授けられて当然、という発想に至ったわけで、それが個人の我儘を容認するようになってしまった。
こういう風潮を諌めるべきが本来ならば教養知性に富んだ、文化人であり、教養人であり、学識経験者と言われる知識階層であれねばならないが、明治維新以降、帝国大学の「象牙の塔」の中で研鑽に励んだこういう人達は、こういう新しい風潮を煽る方向に働いた。
子供の教育を心配するより前に、子供の親の在り方を再検討する必要の方が優先度が高いように思う。
これは我々日本人という狭い枠内の話ではなく、アメリカにおいても子供の教育は親の再教育と大きく関連があるように思える。
それを私のいい加減で無責任な推測によると、世間一般に豊かな社会になったので、人々のモラルが後退したということで、貧しい時は少ない食べ物を分け合う気持ちがあったが、豊かな社会が実現したので、欲しいものは何でも自由に手に入るようになり、人の事に気を使う必要がなくなった。
他人の事に思い煩うこともなく、自分のことは自分の思う通りにできるようになったので、それを社会の上から俯瞰して眺めると、人々の個々の振る舞いが個人の我儘と映るのである。
これをオピニオン・リーダーと言われるような人々が、個の自立とか、個の尊重とか、自我の確立とか、プラスのイメージで煽るので収取が付かなくなっているのである。
豊かな社会の中で、自分の才覚で自分の道を自分で切り開き、右肩上がりに登れる人は何も問題ないが、豊かな社会の中で好き勝手なことをしておいて、落後してしまった人をどうするかということが最大の問題である。
そういう人が、人の子の親となったのが現状なわけで、自分の子供を車の中に閉じ込めて、自分はパチンコに興じている親を、どういう風に指導すればいいのだと言いたい。
こういう親にも、当然、そういう人間に育てた親がいるわけで、一人の子供がパチンコ屋の駐車場の車の中に放置されていたことに対して、その親と、その親を育てた親が密接に関連していると思う。
仮に3歳の子が車の中に放置されたと仮定すれば、その親の年は20代前半と想像され、又その親の世代となると40代後半から50代前半と考えられる。
典型的な戦後世代であって、この現実は日本の戦後教育の集大成とみなさなければならない。.
私は1940年昭和15生まれで、今年73歳になるが、私の頭の中にある母親のイメージというのは、子供を背負って髪を振り乱して働きまわっている姿であって、そういう母親の姿を見て、こういう苦労をしている母を何とか楽にしてやりたい、という想いで自分自身を律して生きてきた。
我々の世代のものは、その大部分がこういうイメージで母親というものを見ていたと思うが、それが世の中が豊かになるにつれて、そういう想いをどこかに忘れてきてしまったに違いない。
我々の世代が戦後の第2の世代ではないかと思う。
小学校で教科書に墨を塗ったという経験はないが、民主教育という意味では最先端の教育であったに違いない。
だが、それが真に普及するまでには少なからずタイムラグがあって、その中間の位置にあったのではないかと思う。
ところが戦後の復興が本格化してくると、世の母親が髪を振り乱して働くという姿がなくなってしまった。
家庭電化製品が普及したことによって生活の合理化が進んできたが、そうなるとその合理化された生活を維持するために、新たな金策に走り廻らなければならなくなった。
こうなると欲望と金策のメリーゴーランドになってしまって、卵が先か鶏が先かの論議に嵌ってしまい、子供の教育や躾けが疎かになってしまったということだ。
その風潮を後押ししたのが戦後の民主教育であって、戦前の価値観を全否定して、人足るもの自己の我儘を押し通すことこそ新しい生き方だと説いたものだから、世の中は混乱の極みに至ったのである。
今、73歳の老人は、車の中に3歳児を置いたままパチンコに興じている若い母親をどう考えたらいいのであろう。
教育の問題を超越して、日本人の在り方そのものが問われているということではなかろうか。
経済的な発展の行き着いた先ということであろうか。



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