ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

『日本人はなぜ戦争へと向かったのか 上』

2013-01-05 17:36:47 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で『日本人はなぜ戦争へと向かったのか 上』という本を読んだ。
NHKが太平洋演戦争に入って70周年を迎えるにあたって、その原因究明をすべく総力を結集して取り組んだ番組の記述である。
このテーマに関しては、私も私なりに考えていたことでもあるので非常に興味を持って読んだが、いくら後世のものが英知を集めて考察しても、答えはありえないような気がしてならない。
NHKにしても、大学の近現代史を研究している機関にしても、歴史を学問として捉えている限り、答えはありえないように思う。
人間の生き様、人間の在り様というのは、学問では計り切れないのではないかと思う。
ゲルマン民族の大移動とか、モンゴル人のヨーロッパ席巻という動きを、学問ではその原因究明はしきれていないと思う。
歴史というのは事実の後追いでしかなく、事実の列記ではあっても、その事実がなぜ起きたかという、その原因の究明には至っていないと思う。
この本は日本が太平洋戦争に嵌り込む前の段階の日中戦争の段階を解きほぐそうとしているが、大雑把に言って、やはり昭和の初期の時代の一連の動きは、起きるべくして起きたと思える。
その前にやはりこれは我々日本人の組織論に行き着くと思う。
明治維新の前の江戸時代においては、人々は士農工商という身分制度の元で分に応じた生き方を強いられていたが、明治維新によってそれが全否定されたことによって、我々の価値観が逆転してしまったことに根源的な原因があるように思う。
江戸時代においては人々を統治する階層、いわゆる武士階級は全人口の7%ぐらいだったと言われているが、明治維新を経て近代国家になってみると、今まではそれぞれの地方で藩に仕えていた人たちがいきなり国全体の吏員となったので、統治される側の心理としては、立派に出世した成果という風に映ったに違いない。
統治される側の人々は全体の90%以上もいたが、その身分制度が否定されれば、その中から頭の良い連中は、統治する側に身を置きたいと熱望するのは自然の流れだと思う。
それと合わせて、近代においては独立国といえども絶海の孤島にただ一人で屹立しているわけではなく、周囲との関係性の中で存立しているわけで、周囲との関係を蔑にすることは致命的な過誤を招くことになる。
それは大河の流れの中の浮草と同じで、大きな時流に翻弄されながら、あっちの岸辺に寄ったり、こっちの岸辺に寄ったり、と浮動しているのである。
その中で昭和の初期のころの我々同胞の在り様を眺めてみると、周囲の状況には非常に敏感に反応していることが伺えるが、逆に言うと周囲の状況に悪のりした部分があって、その悪のりした部分に周囲からの批判が集まったという面もある。
こういう状況になってみれば、あっちに寄ったりこっちに寄ったりという状況が変えられないものであるとするならば、相手をとことん探究して、盲点を探り、自己が不利益をこうむらないように計らねばならないが、それは究極のグローバリズムの実践ということになる。
ところが我々の側にはそういう自覚は無かったように見受けられる。
というのも、我々と他の西洋先進国とでは物事に対するモノの見方が発想の段階から違っているわけで、我々のモノの見方は、その基底の部分に儒教思想が脈々と流れていたのだが、先進国との接触の頻度が増してくると、この儒教思想を持った担当者は時代遅れというレッテルを貼られて疎まれるようになり、変わって下賤な出自のものがそういう場で大きな顔をするようになっててきた。
もっと掘り下げて言うと、日本社会全体に下剋上の風潮が吹き荒れて、統治の心得のないものがそのポジションを占めたのが最大の理由といえる。
明治維新というのは押しも押されもせぬ革命・リボルーションであったわけで、ここで価値観が完全にひっくり返った。
だが、この時の革命というのが共産主義革命ではなかったので、我々は革命とは気が付かずに「維新」と称していたのである。
この革命に生き残った人々は、前の時代を知っているので、その人々にはまだまだ儒教思想の残滓を引きづっていたが、それが大正時代ともなると完全に世代交代していて、統治することに対するノブレ・オブリージが喪失してしまっていたのである。
日露戦争の時の英雄・乃木希典は、旅順港の203高地を攻めあぐねて大勢の兵士を死なしたことに悔悟の念を表明していた。
日本海海海戦の東郷平八郎は、戦いが終わって連合艦隊を解散する時、「勝って兜の緒を締めよ」と訓示した。
こういう言葉が出るということは、前の時代の精神的影響が残っていたれっきとした証であって、だからこそノブレス・オブリージの表明としてこういう言葉となったわけで、その部分が昭和の軍人と大いに異なる点である。
先に、我々と西洋列強の国々ではモノの考え方が発想の段階から違うと述べたがその一例が、武士階級の存在である。
武士階級というのは戦う集団であると同時に政治集団でもあったわけで、その二つを同時に合わせ持って人々を統治してきたので、政治と軍事を分けて考えることに慣れていなかった。
だが、近代国家では軍人と政治家はきちんと分離された集団であるべきが、我々の場合、昭和の初期になってそれが再び合体してしまったので、それらが絡み合って共に奈落の底に転がり落ちたに違いない。
その上、天皇を自分たちの上に押し頂いて、その下に陸軍と海軍を設け、それらが日清・日露と大活躍をしたので、こういう軍部に対する信頼が一気に醸成されて、国民は軍隊に対して過剰な期待をするようになった。
しかし、我々の同胞としての国民という人間の集団は、極めて自分勝手な存在であって、「こっちの水は甘いぞ、あっちの水は苦いぞ」と言われるとふらふらとよろめいてしまって、確とした定見を持たないのである。
これはどこの国の国民もそうであって、我々のみの特異な傾向ではないが、政治家はそれを組み込んで物事を考えねばならない。
江戸時代は人々は、それぞれに分に応じた生活をしておればよかったが、近代化に目覚めると世界は大いにグローバル化していて、余所の芝生が限りなく綺麗に見えて、自分もそう成りたいと望むようになってきた。
ここで個人の出自が大きくモノをいうわけで、もともと心の豊かな人間は、他者の立ち居振る舞いを見てコンプレックスに陥ることはないが、心の貧しい者は、他者の持っているものが欲しくて欲しくて、是が非でも自分のものにしたい欲望に駆られる。
それをそのまま実践に移したのが、明治以降の我々の国の在り様であったわけで、西洋列強の在り様を見て、彼らに追いつき追い越せという願望が潜在意識として我々の心の奥底に沈殿してしまった、とみなしていいと思う。
ここで従来の武士階級のようにノブレス・オブリージがきちんと機能しておれば、相手を武力によって押さえ込むという西洋列強の手法とは違う方法も有り得たが、相手も相手で、日本の言う事を頭から蔑視していたので、力でしか解決の方法がなかったということになる。
こういう成り行きは人間の織り成す自然の営為行為であって、それ自体は自然の摂理に則った人間の普遍的な営みであるが、問題は近代国家としてそれに失敗して、国民に多大な迷惑をかけた責任追及と同時に、再び同じ轍を踏まないための原因の追求である。
大昔ならば、自然の摂理の一環として事実の列記だけで済むかもしれないが、今日ならば歴史の教訓として、過去の失敗から大いに学ぶべく事例の研究ということは避けて通れない道である。
昭和の初期の時代に軍人や軍部が独断専行した背景には私は政治家の堕落があったと思う。
その前に、ワシントン軍縮で日本は軍縮を迫られ、シベリア出兵の撤退など軍縮ムードになった時、メデイアや国民の軍に対する対応が、日清・日露の戦いの時の対応と掌を返したような扱いであったので、その意味からしても軍が国民に対して不信感を募らせたことは否めない。
我々の民族の民族性かもしれないが、時のムードがある方向を指し示すと、洪水のように皆が一斉にそちらの方向を目指して雪崩れ込むという風潮は時がいくら経過しても直るものではなさそうだ。
戦後の反戦平和の運動もそうであって、昨年の震災後の原子力発電反対の運動もそうであるが、ある一つの理念が良さそうだと思うと、見境もなくそこに突っ込んでいく愚は何とかしなければならない。
ところが、そういう風潮に警告を発すべきは、本来ならば知性と理性に裏打ちされた知識人の知見であって、それを伝えるべきメデイアにことの善し悪し、倫理に叶っているかどうかを検証する能力があればいいが、そのメデイアが大衆に迎合する方向に世論をリードするのである。
こういう機会に政治家が軍を押さえ込む方策を考えればよかったが、政治家が政党政治に不慣れで、お互いの足の引っ張り合いに終始していたので、その間隙を軍部に突かれたという形になってしまった。
まあ「統帥権の独立」という憲法上の制約がある限り、政治家にはそれを乗り越える知恵はありそうもないが、しかし人間としての資質という点からすれば、軍人を欺く知恵を持った政治家も居そうな気がしてならない。
だが、政治家が軍人を監視する前に、政治家同士で足の引っ張り合いを演じている限り、軍部を抑えることなど到底望むべくもない。
日中戦争をリードしたのは陸軍のエリート集団として名高い人たちばかりであったが、そういうエリートが取り組んでどうして収集できなかったかと問えば、エリートと言われていた連中が蓋を開けてみたらエリートではなかったということだ。
こういう人達の経歴を調べてみれば、14、5歳で幼年学校から陸軍士官学校を経て、その後陸軍大学を出て将官になっているが、これは明らかに軍隊における純粋培養の過程であって、いかなる生き物も、いかなる組織も、純粋培養されたものが良い訳が無いではないか。
純血ほど生命力が弱いのは自然界の鉄則ではないか。
14、5歳で幼年学校に入る時点では優秀であったとしても、それから成人になる過程で、精神の試練を乗り越えて、精神的な脱皮を経て大人に成るのが普通だが、それを純粋培養の器の中だけに蛹になったものが並みの思考を持った普通の大人になるわけ無いではないか。
余所の国の士官は、普通の大学で一般教養を積んだのち、士官学校に来るのだが、我々の場合はそういうコースもあるにはあったが、純粋培養のコースの方が組織内で羽振りを効かせていたわけで、それが帝国陸軍と帝国海軍の縦割りのシステムとして、その両者が消滅するまで自分たちの欠陥に気が付かないまま消え去ったというわけだ。
そして組織内の官僚主義というのも、組織が解体されるまでその欠陥に気が付いていなかったのはどうした訳であろう。
官僚主義というのは一体どういう心境から生まれでるものなのであろう。
我々が日常的に認知している官僚の特質というのは、「休まず、働かず、遅刻せず」という風に聞き及んでいるが、これは戦後の共産主義の跋扈による無責任体制の比喩であって、事業体が決して倒産することが無い事を見越した一種のサボタージュであった。
ところが、軍国主義下の官僚化というのはそれともいささか意味合いが違っていると思う。
しかし、一度成ってしまえば、如何なる勤務態度でも決して馘首されることはない、という部分では全く同じなわけで、それがミニマムの共通認識であるというのが公務員の生き様として語り継がれている。
軍人の官僚主義という場合、これとはいささかニュアンンスが違うような気がして、陸軍の場合、皇道派と統制派、海軍の場合、艦隊派と条約派というグループ分けは一体どういう事なのであろう。
そもそも海軍でも陸軍でも組織のトップは、いずれも組織内で純粋培養された自分たちの仲間であり、同じ学校を出た同窓生であり、先輩、同輩、後輩で繋がっているわけで、誰かが大きな失敗しても、お互いにその尻拭いをしあって、責任の所在を曖昧にしてしまうということがある。
人の為すことには失敗はついて回るわけで、その失敗を教訓としてそこから新しいアイデアをひねり出し、半歩ずつ一歩ずつ前進するわけで、その為には失敗したリーダーは更迭しなければ失敗から教訓を得ることにはならない。
我々の場合、大きな失敗をした人を更迭すると、そこで失敗をしたリーダーの全人格を否定する思考が働くから、組織としては失敗を隠すという動きになる。
この辺りの微妙なさじ加減はそれこそ人事の妙であって、失敗したリーダーを更迭して、その後をどうするのかという問題は、官僚制の問題と、組織論の問題が複雑に錯綜しているわけで、この部分になると明らかに政治の問題とも関連してくる。
日中戦争の泥沼に足を取られる過程において、日本の陸軍の独断専行は確かに陸軍の責任であるが、あの時代状況の中でも、自分たちのしていることの善し悪しがきちんと判っている人もいたに違いなかろうと思うだが、そういう人は一体何をしていたのであろう。
普通の社会にも優秀と言われた人は大勢いたはずで、そういう人達が自分たちのしている事の善し悪しが判っていない人は一人も居ないと思うが、なのに泥沼に足を踏み入れることを阻止できなかったということはどういう事なのであろう。
やはりこの部分には論理的に解明のできない得体のしれない空気が漂っていたということなのであろうか。
よく言われる戦争の反省として、日中戦争には大義が無かったという言葉があるが、確かにそうだと言える。
私の解釈では、あの時代の日本人には貧乏からの脱出願望があって、アジア大陸、満州の荒野をフロンティアと同一視し、そこを目指して渡り、一旗揚げて故郷に錦を飾るというのが、人々の希望の星だったと考えられる。
これが当時の人々の潜在的な深層心理の中の願望であったと思うが、それを実現するためには具体的な政治活動としてのプロモートが必要であったわけで、単純な言葉で言い表せば、開発独裁が必要であったということになる。
満州国の建国はその線に沿った動きであったが、それは他の国々の視点に立てば、日本だけがアジアの富み、満州の富みを独占するように見えたわけで、最終的にはABCD包囲網ということになったわけだ。
昭和の初期の時代においても日本の政治の状況というのは議会制民主主義はきちんと機能していたと思われる。
治安維持法があって、あたかも暗黒時代であるかのように喧伝されているが、共産主義者にとっては暗黒であったかもしれないが、普通の市民からすれば、軍国主義者が肩で風切っていたことはあっても、まずまず普通の市民生活がなされていた。
問題は、こういう状況下においてメデイアは何をどう報道したかということである。
民主化が進めば進むほどメデイアの市民生活に対する欲求は高まるわけで、メデイアが世論を左右することは充分ありうることで、それは当然と言えば当然のことである。
市民が統治者の意向を知る手段はメデイアしかないわけで、その意味でメデイアを制するものは国を制すと言っても過言ではない。
それで昭和初期の時代のメデイアはどうであったか問い直してみると、これが軍国主義の吹聴一点張りで、反戦平和というフレーズは一言もない。
普通に民主化された普通の社会の人々は、メデイアの報道で自分の考えを固定化させると思うが、その時にこのメデイアの報ずる内容が偏向しているとすれば、人々の考えもその偏向の線に沿ったものに自然となると思われる。
戦前の我々が軍国主義に陥ったのもメデイアの報道により、戦後、そのベクトルが逆向きになったのも、メデイアの報道によるわけで、国を治めるということはメデイアを如何に制するかということになる。
ところが日本では国営放送というのは無いわけで、一番国営放送に近い存在がNHKであるが、そのNHKが不偏不党を旗印にしている限り毒にも薬にもならない存在である。
NHKが市民からの視聴料で成り立っている以上、不偏不党にならざるを得ず、だからこそ国家政策のPRさえもできないのも無理からぬことではある。
だが戦前は政府のちょうちん持ちのニュースを流し続け、結果的に国民にウソの情報を流して騙したことになったので、その反省からも不偏不党を貫き通そうと努力している。
しかし、これからの世の中は、時流・トレンドというものはメデイアによって導かられることには間違いないわけで、その意味からしてもメデイアは完全に自由化して如何なる主義主張もオープンにすべきである。
こういう主張をすると必ず公序良俗に反する過激な意見が出てきて秩序を乱すことになるので、ここで再び規制の網を掛けざるを得なくなる。
この部分が非常に民主化の未熟な部分であって、知性の劣化が如実に露呈しているということだ。

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