今日も損切り!徒然なる列車

損切続きの人生ですが、そんな事は忘れて鉄道旅や鉄道模型とかの話、日常生活での発見や思い浮かんだ話とか書いてみます。

電車急行男(前編4)

2014-09-24 00:04:56 | 鉄道旅行
普通列車広島行2
 ほぼ6時間の旅は、レールの継ぎ目から伝わるリズミカルな客車列車特有の走行音とか車窓の風景だけでなく、いろいろな新しい発見もあって飽きることがありませんでした。
「かもがたー、かもがたー、到着の列車は普通列車広島行です」・・・「普通列車広島行の発車です。次はさとしょうー、さとしょうー」と言った具合に車内アナウンスだけでなく、各駅のホームで駅員がアナウンスしていました。
また、当時は貨物の引き込み線もあちらこちらの駅にあり、家並の中へと消えていく線路があったり、田んぼや木立の間へと消えてゆく線路は、「いったいどこに通じているのだろうか」と私の興味をかきたてました。
 福山駅から父の生家まではニコニコバスと言う変わった名前のバスに乗って30分ぐらいでしょうか。バスは国道から離れると川沿いの砂利道を進みます。途中、山陽本線の踏切では、車掌がバスから降りて先に線路を渡って安全確認した上でバスも踏切を渡ります。警報機もあるし見通しも悪くないのに「なんでかなー」と不思議に思ったものです。京都ではこんな光景を見たことがありませんでした。
 父の実家は、バスの終点から歩いて10分もかからない所にありました。ところが、暗いでこぼこの夜道にはとんでもない障害物があちらこちらに待ち受けていました。直径30センチほどもの太いわら縄をとぐろに巻いたような異臭を放つ物体が、柔らかいものから硬く乾燥したものまで多数ところ構わず落ちているのです。
 昭和40年代前半までは、この辺りの農家の大半が乳牛を数頭ずつ飼っていて、毎日近くの河川敷へ放牧の行き帰りにこの道を通り、途中で牛さんが催した物を落として行ったのです。

急行電車男(前編3)

2014-09-17 22:20:42 | 鉄道旅行
普通列車広島行1

 昭和36年(1961)10月ダイヤ改正後、京都発だった「宮島」のダイヤは、新設の名古屋発鹿児島行の「さつま」に置き換わりました。京都から「だいせん」を併結しますが、こちらは倉敷から伯備線に入ってしまい福山まで行きません。
夏休みとかの混雑期、名古屋発で九州行となると混み合うことも予想されたので、京都始発の普通列車の利用となったようです。尤も、少しでも長く列車に乗りたいと言う私の意向が働いたのかもしれません。
 三、四度利用したと思いますが、いずれも京都を14時前に発車して福山に20時少し前に到着する広島行でした。
乗り込んだ車両は、1ボックスに狭い2つの窓が並ぶタイプで、それまで乗った広い窓(標準なのですが)の車両と異なることに驚いたものです。
二度目に乗った時、天井に窓がないことに気が付きました。前回はダブルルーフ屋根の客車に乗ったようです。つい最近に至るまで32系客車の初期グループと思っていたのですが、どうやら違っていたようです。
と言うのは、何年か前に、多くの昭和30,40年代の列車や車両がアップされている「北総レール倶楽部」と言うホームページを見つけて、その中にこの広島行普通列車の写真があるのに気付きました。丸屋根の32系に交じってダブルルーフの客車が確かに繋がれており、写真の説明書きに32系以外の形式が載っていました。31系だったかなあと、もう一度このブログを書くにあたって確認しようとしたらホームページがありません。調べてみたらこのホームページの投稿者である里見氏が数年前に急逝されて引き継ぐ人がなく、自然消滅したらしいのです。形式写真風に個々の車両を写されたり、何より画像が綺麗だっただけに残念です。鉄道遺産と言って良いくらいに当時の多くの車両を紹介されていましたので、何とか有志の方で復活していただきたいものです。

急行電車男(前編2)

2014-09-06 23:08:45 | 鉄道旅行
 私の父の生家が広島県東部の福山市にあり、学生時代まで毎年のように両親の里帰りに付いて行ったものです。
当時は車なんかなかったので、いつも京都の我が家からは山陽本線の列車を利用していました。
 物心がついた頃から小学生の低学年までの旅の思い出となると、もう極めて断片的にしか覚えていません。
よく「宮島」号を利用していたこと、蒸気機関車の牽引区間が乗るたびに短くなっていったこと等くらいでしょうか。
 「宮島」については、昭和36年10月改正で大阪始発の気動車急行に変わるまでは、京都始発の客車列車で、準急列車だったようですが、時間帯も良かったのかよく利用していたようです。
 蒸気機関車牽引に関しては、上郡ー三石間と笠岡ー大門間の2か所のトンネルに列車が入る時に、車内に煤が入らないように窓を閉めたのを覚えています。上郡ー倉敷間が電化されたのが昭和35年(1960)10月のことですから、まだ私は5歳になっていなかったときです。
 次にこの区間を利用した時は、岡山で機関車を交換したので、トンネルで窓を閉めたのは笠岡ー大門間だけになり、さらに次の乗車時にはすべて電気機関車牽引に変わっていました。
 京都始発の「宮島」が無くなった後、米原始発の臨時急行で大分・長崎行に一度乗ったと思いますが、当時の時刻表を所持していないので詳しいことはわかりません。その後普通列車を何回か利用しましたが、その話は次回にしたいと思います。
 この当時の車窓風景など全く覚えていませんが、一か所だけ山崎ー高槻の間で、距離を置いて並走する阪急電車(当時は京阪神急行?)と青々とした水田が広がる美しい光景がなぜか今でも鮮明に記憶しています。