今日も損切り!徒然なる列車

損切続きの人生ですが、そんな事は忘れて鉄道旅や鉄道模型とかの話、日常生活での発見や思い浮かんだ話とか書いてみます。

急行電車男 前編14

2019-08-11 21:54:50 | 鉄道旅行

立山黒部旅行2

 

 お暑うございます。全国的に連日うだるような暑さが続いています。このブログを書いていて、当時の夏の暑さが今と比べてどのようなものだったのかちょっと調べてみました。ネット検索で「過去の気温」と打ち込めば気象庁の各観測地点の開設からのデータを見る事が出来ます。この旅行の1966年(昭和41年)8月の京都の気温を見ると、結構暑い8月だったようです。特に6日から13日にかけて最高気温が連日35度以上の酷暑日が続き、37度台が3日、36度台が2日もありました。今の感覚で言えば40度近い日が続いたようなものでしょうか。もっとも最低気温は26.8度を頭に3日熱帯夜を記録しただけで、21度台とか23度台とかもありました。他にも最高気温が30度に届かない日や最低気温が19度台の日もありました。今年も含めて近年は最高気温も最低気温も連日同じような温度で高止まりしているように思います。当時は太平洋高気圧に覆われて暑いと言っても割と周期的な変化があったようです。北からの寒冷前線の尻尾の先がかすっただけでも寒気が入って夕立がして一気に涼しくなった日もありました。最近はそんなことが少なくなりましたね。京都市域の場合、その後エアコンの普及による廃熱や市電の外周より外側は田畑がまだ多く残っていたのがほとんど宅地化されたりとかありました。それを割り引いても近年の暑さは異常ですね。

 旅行をした21日以降25~26度台の熱帯夜が3日程続いていました。それでもこの旅行中、それほど暑かったという記憶がありません。行きの「つるぎ」の車内では窓を全開にはしていなかったと思います。道中の彦根や富山は熱帯夜になっていませんでしたので、少しだけ窓を開けた状態で暑さがしのげたのかも知れません。

 さて、急行「つるぎ」は東海道線をトロトロと走って米原に到着。20分ほどの停車時間にホームに降り立って売店や立ち食いそば屋に行く人などで車内が急に騒々しくなりました。確かそば屋はやってなかったと記憶しているのですが。この時間を利用して前の車両にいた次男の叔父がこちらの車両にやってきました。わたしの指定席を申し込むのが遅れたので1名分別の車両になってしまったのですが、私一人別の車両にやるのはかわいそうだと言って席を代わってくれたのでした。叔父の話では、4人掛けボックス席の他の3人は若い女性のグループだそうで、長男の叔父や他の参加者とにこにこして話してるのを見て子供ながらに内心ホッとした気持ちになったのを覚えています。

 米原を出発しても相変わらず列車はトロトロと走っていましたが、私の方もようやくウトウトと居眠り出しました。ふと気が付くと、どこかの駅に停まっています。あたりは駅の照明以外は真っ暗で山の中のようです。照明に照らし出された駅名標を見ると「しんひきた」と書いてありました。かなり長い時間、10分位は停まっていたでしょうか。反対方向からこの列車と同じ塗装の列車がやって来て通過して行きました。おそらくこの先単線のため待ち合わせをしていたのでしょう。そう思っていました。つい最近まで。新疋田ー敦賀間のループ線を経由する上り線は1963年(昭和38年)10月に完成していたのです。従って新疋田で上り「つるぎ」を待つ必要なんかなかったのです。理由はわかりませんが、単線時代の「つるぎ」の前身の「第2加賀」のダイヤを複線化後も踏襲していたようです。漸くこの旅行の2~3か月後のダイヤ改正で新疋田での運転停車はなくなりました。ただ、今度は敦賀で上下の「つるぎ」が出会うようになりました。

 

 

 


急行電車男 前編13

2019-08-08 19:48:16 | 鉄道旅行

立山、黒部旅行 その1

 

 私の母方の祖父は京友禅の型紙彫り職人をしていました。今では絶滅寸前のような職業ですが、当時は職人とは言え私の叔父に当たる長男、次男と他に2人の職人を置き、さらに市内や三重県にも下職を抱えてかなり羽振りが良く、たまに祇園の方にも遊びに行っていたようです。また、年に一度職人、下職、知人を集めて慰安旅行を行ったり、夫婦でも年に2度ほど旅行に出かけていました。

 8月に入ってその年も慰安旅行の日が近づいて来ましたが、今回の旅行先は立山、黒部方面で、いろいろな鉄道に乗る予定があるので鉄道好きの私にもお誘いがありました。多分、鉄道好きの叔父(長男)が取り次いでくれたのだと思います。

 地蔵盆も終わった8月20日過ぎだったでしょうか。往路は夜行列車なので、早めに夕食を取ってバスで祖父の家へ向かいました。着くとすぐに、「列車の中では十分に寝られないから今のうちに寝とけ」と言われて玄関脇の小部屋の畳の上にごろ寝させられました。旅行を前にして興奮状態で寝られるわけもありません。

  横になって2時間ほど経った午後10時過ぎに起こされて、近くにあった営業所から呼んだタクシーに乗せられて京都駅に向かいました。

23時頃に京都駅に着き、他の参加者と合流して1番線でこれから乗る急行[つるぎ]を待ちました。23:30頃にピンクとクリームに塗り分けられた[つるぎ]がホームに入って来て乗り込みましたが、2等の座席指定を取ってあった ので全員ほどなく着席できました。

 席に就いて車内を見渡すと、この車両の内装がこれまで福山からの帰りに乗った[宮島][関門][びんご]と全く同じなのに気が付きました。けれども、何で車体の色が違うのかまではその時は十分に理解できていませんでした。

初めての夜行列車は、途中で車内放送を止めたり、車内の蛍光灯が減光されたり、警察官のような服装の公安官が見回ったりと新しい発見が幾つもありましたが、車窓からの風景は、照明に照らされた通過して行く駅や、時折街頭に映し出された家並以外は漆黒の闇で退屈なものでした。それでも寝付けないので車窓を眺めていたら、「眠れんでも目を閉じとき。自然に眠れるから。」と叔父に言われて仕方なく眠れもしないのに目を閉じる事になってしまいました。