今日も損切り!徒然なる列車

損切続きの人生ですが、そんな事は忘れて鉄道旅や鉄道模型とかの話、日常生活での発見や思い浮かんだ話とか書いてみます。

急行電車男(前篇9)

2015-08-08 13:08:02 | 鉄道旅行
宮島小旅行4-恐怖の快速電車ー

 終着大阪まで急行「関門」で行くものと思っていたら、神戸の近くになって母が、突然「次で降りる」と言い出しました。理由を聞くと、大阪で京都方面の快速に乗るためには階段を上り下りしてホームを移動する必要があるけれど、神戸では同じホームで乗り換えられるからとのことでした。
渋々下車して同じホームの反対側で快速を待ちました。ホームに入ってきた電車は、先ほどまで乗っていた急行と同じオレンジとグリーンに塗り分けられていましたが、大きなドアが片側3ヶ所あり4人掛け座席も少なく、急行に比べて見劣りするのがはっきりわかりました。
 車内は満員で立たなければなりませんでした。神戸を出ると元町、三ノ宮と駅間距離も短いので徐行運転です。降車客は少なく相変わらず立ったままでした。
 三ノ宮を出ると次の芦屋まで少し距離があるので、電車は目いっぱい加速して行きます。初めのうちは、急行電車と比べて低くて重苦しいモーターの音だなと思い巡らす余裕がありました。ところが、電車が最高速度に達すると「ギャー」という阿鼻叫喚の悲鳴のような音の連続に変わり、時折大きな揺れを伴って小刻みに上下に左右に揺れ続け、床下からも絶え間なくゴトゴトと突き上げるような音と振動が伝わってきて、今にも車両が分解するのではないかという恐怖心に襲われ、「早く停まってくれ」と何度も心の中で念じていました。
 大阪で漸く座ることができて少しは恐怖心が薄らぎましたが、これがトラウマとなってかこの車両(113系)はつい最近まで好きにはなれませんでした。
 余談になりますが、この時に乗った113系は関西地区に新製配備されて間なしの頃でしたので 余程酷使されていたのでしょうか。113系もその後に新製された車両は多少の改良が施されたり、冷房化で窓を開けることもなくなったせいか、晩年はそれほど音や振動が気になることも少なくなくなりました。


急行電車男(全編8)

2015-08-05 00:12:00 | 鉄道旅行
宮島小旅行3

 帰路は、宮島口14時過ぎに発車する下関発大阪行「関門」に乗車しました。
往路の「山陽」もそうですが列車の時刻は推定です。この当時の時刻表は、時刻表ばかり見て勉強しないと言う理由で両親に没収されて現存しません。そのため、かつての優等列車の編成と時刻を掲載してくれていたwebサイトがあり唯一の頼りにしていたのですが、最近閉鎖されたらしくこちらも見ることができなくなってしまいました。先に述べました「北総レールクラブ」もそうですが、鉄道ファンにとって貴重な資料を手軽に見られなくなるのは残念な事です。
 話が少し逸れましたが、「関門」はオレンジとグリーンに塗り分けられた電車急行でした。乗車して直ぐに座れたのか次の広島でだったかは覚えていませんが、「山陽」のような不快な目には遭わなくて済みました。
 この列車では、岡山に停車中にホームの売り子から母が白桃を買って妹と私に食べさせてくれたのを今でも覚えています。岡山の駅売りの白桃と言えば今ではお土産用の高級品になっているのではと思いますが、倹約家の母のことですから当時はそれほど高いものでもなかったのかもしれません。今と違って自販機などで簡単に飲料が買えなかった時代、冷えてなくても適度に水分があり甘くてうまかったです。
 私の向かいの席には、両親の実家のある下関から一人旅の男の子が座っていました。私より一つ年上の小学5年生でした。彼にも母が白桃を勧めていましたが、遠慮してか桃が苦手なのか断られました。その彼が姫路での2分の停車時間に「席を見ていてください」と言ってホームに降り立って行きました。そして発車間際にプラスチックの鉢に入った駅そばを手に持って戻ってきました。姫路の駅そばは今でも有名ですが、当時から人気があったのでしょう。それにしても彼は、母だけでなく子供の私から見ても旅慣れてるように見えました。

急行電車男(前編7)

2015-08-01 22:51:34 | 日記
宮島小旅行(その2)

 宮島口に降り立つと、すぐ目の前に乗船場が見えました。
私達は、列車の続きで国鉄の連絡船に乗りましたが、国鉄の船着き場のすぐ隣では民間会社の船への呼び込みがマイクで盛んに行われていました。国鉄の船は飾り気のない白い船体でしたが民間船の方は朱色の派手な装飾がしてありました。
国鉄はJRに変わりましたが、半世紀経った今でも両者の戦いは続いているようです。
 宮島には10時半ごろに着いたようです。辺りを散策した後、実家で用意してくれたおにぎりをほお張りました。ちょうどこの時間は干潮にあたり、普段は海の中に立っている大鳥居の近くで何人もの人が潮干狩りをしているのが見えました。
 昼食後、私たちも大鳥居に向かって干潟を歩いて行き、潮干狩りをしようとしましたが、道具も何も持っていなかったので小さなものが僅かばかり採れただけでした。
そのうちに少しずつ潮が満ちだして、帰りの列車の時間も迫ってきましたので陸に引き揚げて帰り支度を始めました。