今日も損切り!徒然なる列車

損切続きの人生ですが、そんな事は忘れて鉄道旅や鉄道模型とかの話、日常生活での発見や思い浮かんだ話とか書いてみます。

急行電車男 後編1 下り急行「とも3号」

2020-06-28 18:28:17 | 鉄道旅行

 中学2年生終了後の春休みを利用して初めて父の実家への一人旅をすることになりました。元々は父と行く予定になっていたのですが、物理の補講と追試に引っ掛かってしまい、父の帰りと入れ違いに出発することになりました。そこまでして行こうとしたのには訳がありました。

 当時、全国的に電化やディーゼル化が進められて蒸気機関車の活躍が終焉を迎えようとしていて、山陽路でもこの年の10月には呉線の電化が完成する予定になっていました。呉線にはC59やC62とかの大型蒸気機関車が活躍していて、中でもヘッドマークを付けたSL牽引の急行「安芸」は何とか見てみたいと思っていました。

 

弘済出版社の時刻表です。中学生の小遣いでは大版の交通公社製が買いづらかったのと弘済出版製ではSL牽引列車に印が付けられていました。

 今回は京都13時38分発の快速上郡行で旅を始めました。新大阪では乗り換えのためいつものように18番線に向かいました。ホームでは先発の急行「鷲羽7号」が発車を待っているところでした。「鷲羽」とこれから乗る「とも」とは多分同じ12両編成だというのはわかっていましたので、「鷲羽」の入り口ドア付近に立って急行「とも3号」を待ちました。

 「とも3号」はヨンサントオの大改正でそれまでの「びんご」を「とも」に改称の上増発された上下4本の内の1本でした。私なりに思うに、京都発広島行客車鈍行が昭和41年10月改正で電車化(たぶん80系)されて大阪始発に変更されましたが、その列車の格上げという形で増発されたのではと推定しています。

 この列車は結構空いていて大阪や神戸でもう少し乗ってくるかと思いましたが、最大でも乗車率50%に届かなかったようです。おそらく大阪発車の29分前に「ながと2号」が発車し、12分前には「鷲羽7号」が、16分後には「しろやま」が発車しているので利用者が分散されたように思います。

 ところで、時刻表の画像をご覧になるとお分かりかと思いますが、この急行は、私が京都から乗った快速(明石から各駅停車)上郡行を最後まで追い越すことができません。とりわけ姫路からは普通列車以下の速度でノロノロと上郡行の後に付いて行きます。そのため、退屈感と物足りなさが次第に湧き上がって来ました。「この前乗った時はこんなのではなっかったよなぁ」「何だろうこの物足りなさは」と自問自答しながら何気なく車内のドアの斜め上を見た時です。そこに「サハ153」と書かれているのが目に留まりました。ひょっとしてこの物足りなさはこの電車のモーターの音から来ているのかもしれないと気づいたのです。この旅の少し前に小学生の頃の雑誌「学習」を読み返していた時に、電車にはサハとかクハとかモハ等の種類があって、モハは音がうるさいので眠たい時はサハとかクハが静かなのでよく眠れると書いてあったのを思い出しました。それならサハでも良いかと思いましたが、以前に「関門」とかこのタイプの電車に乗った時はうるさいどころか逆に眠りを誘うような心地良さがありました。そんな事で帰りはモハに乗ることを心に決めました。

 もっとも、その時の物足りなさは単に電車のモーターの音だけではなかったようです。姫路までスピードが出ていた時はそんな事一度も感じなかったのですが、ノロノロと走り出してからレールのジョイント音がほとんどしないことに気づきました。ロングレール化されたせいでしょうが、ジョイント音だけでもあればまた気持ちは変わっていたかもしれません。その他にも駅に到着する直前の車内放送で「玉島、玉島です。降り口は左側で短い30秒停車です。」と小さな停車駅でも停車時間の案内をする細かい車内アナウンスや、駅を発車する際に駅員が「次はひめじー、次はひめじー」とマイクで案内する姿も無くなってしまいました。また、車窓風景でも「東」と言う漢字に似た通称ハエタタキと呼ばれた通信ケーブルもずたずたに切られて無残な姿を晒していました。国鉄の合理化、近代化とは言え小さい時から慣れ親しんだ鉄道の光景が消えて行くのを寂しく思った旅でもありました。


急行電車男 前編23(最終回)

2020-06-23 18:05:11 | 鉄道旅行

下り急行「第2関門」2回目と上り急行「びんご3号」  その2

 

 海水浴に行った翌日、祖母が隣町の松永にある親戚の家へ行くと言うので私たち3人も一緒に同行することになりました。恐らく母は、この祖母の親戚の誰かと相識の間だったのかもしれません。

祖母の親戚の家には私たち兄妹と同じ年齢の兄妹がいました。私たちはすぐに打ち解けて近くの小川で蟹を捕ったりして遊びました。周囲には田畑が広がり遠くに山陽本線の列車が望める長閑な農村地帯でした。

 帰りはバスで福山に引き返すのかと思ったら逆方向の尾道に向かいました。何やら母が千光寺公園に行きたいと言うのです。

バスを降りてから坂道を上って公園とを結ぶロープウェイ乗り場に着いたらちょうど最終便が出た後でした。仕方なく今来た坂道を下って駅に向かう事にしました。山陽本線のガードを潜り抜けたところで下り急行「みずしま2号」が頭上を通過して行きましたので午後6時を回っていました。祖母の親戚宅に長居をしすぎたようです。

 今回は珍しく父の実家から2カ所も足を延ばしましたが、私が中学1年生で妹が小学4年生になっていて、もうこれからは3人そろって福山に行くことはないかもしれないと母は感じていたのかもしれません。実際に私と妹とが一緒に旅行したのはこれが最後になってしまいました。

 

 京都への帰りには糸崎発大阪行の臨時急行「びんご3号」を利用しました。糸崎へは福山12時09分発の岡山始発下関行き普通列車に乗りました。車両は湘南電車(80系)で結構車内は空いていました。

岡山以西の3本の優等列車は、左から特別急行「かもめ」、急行「第1つくし」、臨時急行「第2宮島」です。

 糸崎では切符の買い替えのために連絡橋を通って一旦改札口に向かいました。糸崎駅は島式ホームで改札のある所には乗降用のホームがありませんでした。私と妹は改札口を出ずに連絡橋の階段近くで母が戻ってくるのを待ちました。

画像にはありませんが、「びんご4号」の設定もありました。糸崎16時07分発、大阪20時25分着で8月15日~19日の運転でした。

 ホームに戻ってしばらくしたら「びんご3号」入線の構内アナウンスの後、下り線から朱色と黄色に塗り分けられた見慣れない電車がやって来ました。一目見てひょっとしたら修学旅行用電車かもしれないと頭に浮かびました。図鑑や小学生向けの「学習」とかの雑誌に載っていた写真で知ってはいましたが、まさかここで乗ることになるとは予想もしていませんでした。

 車内に乗り込むと、写真で見た通りの4人掛けと6人掛けのボックス座席で、網棚は窓上に長く設置してあるのとは違って枕木方向に座席の背ずりの上に設けられていて、しかも頭の上にあるのでかなり威圧感がありました。本来なら細長いテーブルも取り付けられているのですが、修学旅行用ではないためか取り外されていました。

 糸崎を発車した時は、連絡列車もなく糸崎自体も小さな町でしたので車内はガラガラでした。次の尾道以東で多数の乗客がありましたが、座席定員が多かった事や一等車のない12両編成だったこともあってか終始空席が見られました。

 画像の時刻表をご覧いただくとわかると思いますが、「びんご3号」は臨時と言う事もあって定期列車よりかなり所要時間が長くなっています。特に兵庫県内での鈍足が目につきます。加古川では後から来る赤穂線回りの急行「だいせん」に追い抜かれ、神戸でも特別急行「第2しおじ」の通過待ちをします。

 母は、いつもの通り神戸で快速に乗り換えるつもりで到着の少し前から降りる準備をしていました。ところが、列車は「第1しおじ」をやり過ごすためにいつも乗り換えているホームではなく山側にある一面だけの1番線に着きました。これでは島式になっている同じホームの反対側で快速に乗り換える事ができません。母は一瞬どうしようか考えて間が空きましたが、結局神戸で乗り換えることになりました。私も神戸駅にこのようなホームがある事に初めて気が付きました。時刻表が好きでしょっちゅう見ていましたが、神戸で優等列車の通過を待つような列車を見た事がありませんでした。それに1番線の存在すら記憶にありませんでした。このため、「びんご3号」は明石ー神戸間のどこかに運転停車して特急待ちするのだろうと思っていました。

 そのような事もあって乗り換えのために地下道へ降りて行く階段の薄暗さが今でも記憶の片隅に残っています。それでも結果的には神戸で乗り換えた方が良かったようで、神戸始発17時16分発の快速に乗れました。ヨンサントオ(昭和43年10月)ダイヤ改正までは神戸を終着、始発にする快速の設定が結構ありました。

 

 今回で「急行電車男 前編」は終了します。前編では家族旅行の話が多くなってしまいましたが、国鉄の急行電車に乗る機会が次第に増えて行き「急行電車男」の基礎が出来上がる時でもありました。後編では一人旅が多くなり急行電車に乗る機会もさらに増えて行きます。そんなエピソードの中から幾つかを選んでお話ししたいと思います。

 

 


急行電車男 前編22

2020-06-20 17:48:03 | 鉄道旅行

下り急行「第2関門」2回目と上り「びんご3号」 その1

 昭和42年(1967年)にも8月の盆を過ぎてから母と妹と3人で父の実家へ行きました。その時には京都発の普通列車広島行は無くなっていて、前回と同じ新大阪発の急行に乗ることに黙って従うしかありませんでした。

 前回と同じく京都9時44分発の快速に乗りました。この時もボックス席に座ったように思います。新大阪で乗り換えのため18番線に行くとこだま型の特急電車の「第1しおかぜ」が停まっていました。前回見た「みどり」は前年の10月ダイヤ改正で登場した寝台電車581系に置き換えられて新大阪の発車時刻も1時間繰り上げられ、逆に「しおかぜ」が1時間繰り下げられました。また、私たちが乗る「第1関門」の新大阪発も4分繰り上がっています。

 この時、ホームのアナウンスで特急列車の自由席の設定がなく全て指定席であることを案内していました。「第1関門」の車内アナウンスでも特急の自由席券は車内で払い戻しする事を言っていました。しかしながら、時刻表にはその旨の案内表示がなく、また、実際に自由席券が販売されて、隣のボックス席に座った女性客が車掌にクレームを言って払い戻しを受けていたので、内外部への連絡ミスがあったように思います。この全車両指定席への変更は、夏休み期間中限定の処置だったようです。

この時の時刻表は臨時列車満載で大好きでした。そんな事で書き込みもあちらこちらに入っています。

 

 この列車は、ちょうどお昼の時間帯を走るため駅弁を買う必要がありました。前回、今回とも姫路か岡山で買う事になったと思います。しかし、急行は停車時間が短く、1分とかの停車時間だとタイミング良くホームの売り子が座席近くに居れば良いのですが、離れたところだと諦めなければなりません。岡山の3分停車の間にホームに母が買いに出た時には乗り遅れたりしないだろうかと子供心に不安な気持ちになりました。これが普通列車ならこれらの駅に10分くらい停車するのでホームに出てゆっくりと買ってくることもできたのですが。いつも幕の内弁当ばかりでしたが駅弁は私たち子どもにとっても旅の楽しみの一つでした。それと夏の旅行には赤い網袋に4つか5つ入った冷たくて甘い冷凍みかんも懐かしい思い出です。

 相生を過ぎると山が迫って来て、いつも妹と二人でトンネルはまだかなと呟いていました。 午後の昼下がり眠気を誘うような心地の良い急行電車の走る音にまどろみかけながらもトンネルに入るまで何とか寝入らずにいました。ようやくトンネルまでやって来ました。ところが、入る直前辺りから列車が速度を目いっぱいに上げたために、トンネルに入った途端に開けていた窓から強風が吹き込み、母からブラインドを降ろすように指示されました。おかげで眠気も吹っ飛んでしまいました。

 この時の旅行では近場ですが2カ所父の実家を基点に足を延ばしました。その一つが仙酔島への海水浴でした。これまで何度も父の実家へ行きましたが、初めての海水浴でした。

 その日は鞆の浦行きのバスが出る福山駅前の鞆鉄道バスの乗り場には朝から大勢の人が押し寄せていました。大半が海水浴客です。バス会社も増発していたようで、次から次へとバスがやって来ましたが、2~3台乗り過ごして押し合い圧し合いの末やっと乗り込みました。

 終点の鞆の浦から仙酔島に渡る船の乗り場は、バス停から僅かばかり歩いたところにありました。船に乗り換えると言うのでもう少し大きな船だと思っていたら数十人乗れば一杯になるような小さなものでした。それでも鞆の浦で満員のバスの乗客も周辺の海水浴場へと分散したのか駅前のような混雑はありませんでした。


我が鉄道模型製作の現状をお話しします

2020-06-15 16:29:43 | 鉄道模型

製作ペースが遅い言い訳をたらたらと申し訳ありません

 ブログを復活して1年になります。その間少しずつですが読者の方も増えてきて大変感謝しています。

 今年の正月のブログで、勤め先を変え、勤務日数も減らしたいようなことを書きましたが、今の勤務会社との話し合いで5月以降かなり勤務日数を減らして続けることになりました。そのためにこれまでよりは自由な時間が増えたわけですが、その時間をすべて鉄道模型の製作に当てると言う訳にも行きません。

 ここしばらくキハ82やEF58の製作ブログがストップしていますが、少しずつですが進行はしています。ただ、どちらもハンダを盛ってヤスリによる整形を繰り返しているために時間が掛かっています。尤も、集中してやれば数日でできるのかもしれませんが。

 その代わりにこの3週間ほど「急行電車男」と題したブログを集中的に公開しています。こちらも長い間溜めていたネタを鉄道模型製作の停滞の間に出しているのですが、この先画像も増やしたり派生ネタも出番を待っています。

 私にとって鉄道模型は中断期間があったとは言え一番長く、一番好きな趣味でもあります。けれども、他にもやりたい事、やらなければならないことがあります。その一つがヤフーオークション出品です。身の回りの不用品もありますが、これまで自営業をやっていた時に知り合いになった人からいろいろと我楽多を買わされて、それが大き目の段ボール箱10個分くらいになって部屋を占拠しています。こいつを何とか処分しなくてはなりません。我楽多とは言え珍しい物もありますので売れる事は売れるのですが、商品の下調べや説明書き、売れたら梱包作業とか数十円の利益の物も数万円の利益の物も同じくらいの手間暇がかかってしまいます。さらに、ここ2年ほど多忙で中断していますが、アメリカのEbayにも出品していたことがあります。日本ではあまり売れないものがアメリカだけでなくロシア、ヨーロッパの方が買ってくれたりしました。コロナの影響が無くなればこちらも出品を再開したいと思っています。

 

 他にもあまり言いたくはないのですが6年前からFXにも手を出しています。時間がそれ程なかったこともあって取引回数は多くありませんが、これまで大負けもせずに何とかプラスマイナス0近く(マイナスですが)に留まっています。今後はもう少しそのための勉強もやりながら本腰を入れて取り組むつもりですのでこれまた時間が取られてしまいます。

 それ以外にも国土地理院の地図蒐集とかがあり、廃止や付け替えられた鉄道路線と合わせたデータベース化も行っています。

 また、自営をしていて不要になった物をどうしようかと思案していたら、最近引っ越しの話が持ち上って家の中にある物の整理や処分をどうするのかと言う事も加わって、やるべきことが山積した状態になっています。当分落ち着いて製作に取り組む余裕が無くなりつつあります。

 そのような事でなかなか鉄道模型の製作時間が増えないのです。本当は増やしたいところなのですが。画像にあるクハ86はつぼみ堂製のレストア中、スハネ16はしなのマイクロ製でレストア待ちです。ご覧の皆さまよりは少ないかもしれませんが他にも製作中や手を入れたい車両は数十両もあります。

このような状態でスローペースではありますが、これからも引き続きブログをご覧いただければ幸いです。

 


急行電車男 前編21

2020-06-11 20:08:27 | 鉄道旅行

下り急行「第1関門」1回目と2回目の上り「びんご2号」その2

 この時、父の実家で何をしたのかほとんど記憶がありません。小学生になってからも幾度か訪れた中で最も印象の薄い旅でした。それでも何とか記憶に残っているのが近くの芦田川でメダカを探したり、土手や河川敷でツクシやヨモギの葉っぱを母と採ったりしました。この頃になると辺りの農家にも変化が訪れていました。以前は夕方になると各農家で飼われていた牛を河川敷まで連れて行き暫しの間放牧をしていました。けれどもほとんどの家で牛を処分してしまいそんな光景も見られなくなくなってしまいました。叔父、叔母やこの地域の他の人たちも昼間働きに出るようになり、休日に田畑を耕す生活に変わったので牛の面倒を見られなくなったのかもしれません。そのおかげで土手や河川敷には牛の排せつ物がほとんど無くなったので安心して野草の採取ができたのでしょう。

 その頃の変化でもう一つ印象に残っているのが土手上の道が舗装されたことです。父の実家のある地区は駅とを結ぶバスの終点にありました。土手の上にあるバス停で折り返しのバスを待っていると、はるか向こうに砂煙が立ち上り、それが次第に大きくなってこちらに近づいていてくるのを見てバスがやってきたことがわかりました。 

 さて、帰りの列車はどうするかと言う事になり、上り急行「びんご2号」に始発の三原まで行って乗る事になりました。前回、前々回と満員列車に乗る事になりましたので、母一人ならともかく子供連れの配慮だったのでしょう。所要時間では普通列車の乗り継ぎの方が早かったのですが私もそこまでは気が付きませんでした。

 福山から三原まで行くのに今はほぼ20分間隔で普通列車が走っていますが、当時は1時間に1~2本しかありませんでした。上の時刻表の画像が途切れていますが、福山9時16分発嘉川行に乗りました。9時57分発がありますが糸崎止まりで、時間としては良いのですが糸崎での乗り換えを嫌ったのかバスの時刻の関係でしょうか。次の10時26分発広島行でも良いのですが三原到着の約3分後に折り返しの下り「びんご1号」がやって来ます。一旦改札を出て切符を買い直す事を考えると少しせわしないスケジュールです。

 私たちが乗った吉永発嘉川行は80系電車(と言っても当時は湘南電車としか理解していない)でした。車内は空いていて4人掛けボックス席に座れました。この列車の行き先である嘉川は時刻表があればどこにあるか直ぐにわかりますが、大方の乗客は「どこにあるの?」って感じだったでしょう。そのためか車掌の車内アナウンスも「この列車は普通列車の嘉川(かがわ)行きです。嘉川と言う駅は小郡の一つ次の駅です」と言った感じで停車駅を発車するたびに案内を繰り返していました。

 三原では「びんご」の発車時間まで1時間半ほどあったのでどこかに行こうかと駅にある観光案内地図を見たものの果たして歩いてどれくらいかかるのか見当が付きません。母が港でも行こうかと言っていましたが結局駅の待合室で時間を過ごすことになりました。そのうちに待合室の人も増え、「びんご」の発車するホームにも人が並びだしたので発車時刻の30分前にはホームに入ったようです。

 「びんご2号」は糸崎、尾道、松永と小刻みに停車して行き福山で満席になり、その後の停車駅からは立つ人が見られました。前回のような混雑ではありませんが福山からでは3人バラバラで座らなければならなかったと思います。