立山黒部旅行 5
夜行列車での寝不足のせいで室堂からの帰りのバスでは居眠りをしていて弥陀ヶ原辺りしか記憶にありません。
ケーブルカーでは中間付近のトンネルを抜けると高所恐怖症からかホッとした気分になったのを覚えています。
千寿ケ原からは一旦富山に戻るのかと思ったら宇奈月行きの直通電車に乗り換えました。冬期運休の季節運転とは言え、現在までに多くの地方鉄道が縮小、廃止されてきた中で現在でも引き続き運行されている事にいささかの驚きと運行会社に対して敬意を感じます。
車両は朝乗ったようなシルヘッダーのある旧型車でしたが、座席はロングシートではなく4人掛けのボックス席になっていました。
この後、また居眠りをしていたようであまり記憶に残っていません。ただ、上市がスイッチバック駅で「なんでこんなところで方向転換するんだろう」と言う疑問はつい最近まで持ち続けていました。複雑な経緯があったのですが、ここでは省略します。それと、これも後年になってわかったのですが、寺田でも方向転換していたようです。
「今昔マップ」より転載
そんな事もあって上市はその後も記憶に残る駅名の一つになりました。他にも電鉄魚津とか電鉄桜井とか頭に電鉄が付く駅名も関西では馴染みがなく新鮮に聞こえました。
宇奈月での今夜の宿は河内屋旅館でした。最初に入った時は感じなかったのですが、大浴場とか夕食の宴会場へはエレベーターで上り下りするほどの大きな旅館であることに気が付きました。10階建てのビル位の高さだったのではないでしょうか。黒部川の河原近くから建てられていて川の土手の高さあたりに入り口があったようです。
翌朝朝食を済ませて旅館を後にして関西電力黒部鉄道の宇奈月駅に向かいました。
参考画像です。当時のシートはもっと薄っぺらな感じだったようですが・・・
乗り込んだ車両は遊園地で乗ったことのあるようないわゆるトロッコ車両でした。列車はそれほど混んではなく、3~4人が掛けられるシートに1~2人と言ったところでした。最初は物珍しさもあって右側に黒部川の峡谷を見ながらの景色を楽しんでいたのですが、同じような景色の連続で他に興味を引くものもなく、まだ小学5年生には次第に退屈なものになってきました。おまけにシートも硬く、元は工事関係者用に作られた簡素な車両のためレールからの振動がじかに体に響くので乗り心地が悪くて尻も痛くなってきました。
もうトロッコ列車なんてどうでもええわと思っていたら、「突然降りるぞ」と言われた所が鐘釣温泉でした。私たち一行は、駅から河原へ向かう道を下って行きました。こんなところで下車して何があるのかと思ったら河原の露天風呂が目当てでした。確かに今と違って河原の露天風呂は当時は珍しかったのかもしれません。私はと言うと別に興味もないし昼食も食べないうちから風呂に入るのもいやだったので、駅からの道沿いでカブトムシやクワガタがいないか探して時間をつぶしました。結局成果はありませんでしたが。
昼食は、露天風呂近くの休憩所で取ったのか昨夜泊まった旅館が握り飯を用意したのかもう記憶に残っていませんが、食事を済ませた後、再び列車に乗り込んで終点の欅平へ向かいました。
列車は、欅平からさらに先へ進んで行きますが、当時も今も関電及びその工事関係者以外の乗客は欅平が終点になっています。当時は今と違って何にもない所で、降りたらすぐに折り返しの列車に乗って帰ると言うような所でした。
私たちは、今夜は欅平にある旅館に泊まることになっていました。ところが、まわりを見渡しても旅館どころか一軒の民家すらありません。誰かが駅の人に聞いたのでしょうか、旅館は今来た方向に戻って行けばあるとの事です。ところが、戻ると言っても列車がトンネルで抜けてきた山の尾根を越えたところまで行かねばなりません。一行は細い山道をふうふう言いながら登って行きました。祖父はその頃ちょうど70歳になった頃で、祖父の知人も同年齢の人が多かったと思います。恐らく軽装だったとは思いますが革靴を履いての暫しの山歩きは大変だったと思います。お天気が良かったのは幸いですが、これが雨とかだったらどうしていた事か今でも思いめぐらすことがあります。