へんないきもの日記

今日も等身大で…生きてます😁

「25年」という歳月...

2020-01-18 06:33:54 | 日々雑感


【25年、という歳月は長いか?短いか...】
 昨日は阪神淡路大震災から25年でした。
25年...というと四半世紀

 果たして長いか?短いか...

 でも、私たちは確実にナニかを学んで来たハズ...だ、この25年で。



【25年前の"あの日"】
 25年前の"あの日"...
私は埼玉県朝霞市と東京都練馬区大泉学園町にまたがる陸上自衛隊朝霞駐屯地で勤務していた。

 当時の私は30歳になる少し前で、3等陸曹として教育隊で班長をしていた。
まだ駐屯地の外で暮らすコトを許可されておらず(^_^)⬅独身者は30歳以上、という縛りがあったため、事務室くらいの広さの部屋で同僚の班長と3人部屋だった。

 早起きした一人が、テレビをつけて、途端に呻き声を出す...
どーしたの?ナニ、コレ...

 午前6時前...朝食の仕度の時間と重なったのだろう、火を使用していたが為に、神戸の町は、あちこちで火の手が上がっていた。

 ちなみに、この数年後に起きた福岡県西方沖地震では、地元の西部ガスは止まった。
コレも、阪神淡路大震災を"教訓"として、一定の揺れが続いた場合は、自動的にガスの供給が止まる...という措置を施したがため、だ。

 

【ナニもカニもが"お粗末"だった25年前】
 今思えば、ナニもカニもが"お粗末"だった。
当時、今くらいの情報網が発達していたら、スマホやGoogleが機能していたら...
亡くならなくて済んだ命もあったと思う。

 でも、それを嘆いても始まらない。
少なくとも、私たちは25年前の教訓を生かして、今日まで歩んできたのだ、そう思いたい。

 ナニがお粗末だったか...

① メディア(主にテレビ)は一ヶ所の避難所しか中継しないのでボランティアがそこに集中
② 市役所は情報錯綜どころか、機能せず
③ スマホはおろか、携帯も普及しておらず、情報の入手は困難
④ 派出所も被災して交通整理をする警察官が居ない
⑤ 全国から駆けつけた車両で道路は大渋滞、緊急車両に支障をきたす
⑥ 寒すぎる避難所
⑦ 仮設トイレがパンク
⑧ 避難所以外の人への物資は無い
⑨ 支援物資の保管場所の問題

 等、挙げればキリが無いのだが...
一番の問題は...

 自衛隊の支援を断ったコトだ❗
ナント、あれだけの被害を出しておきながら、自衛隊の支援を断った...

 それは、もともと反自衛隊...という土地柄だから仕方がない、では済まされない。
この後、自衛隊は県からの災害派遣要請が無いまま、自主派遣するのだが...
県は自衛隊どころか、在日米軍やフランスやスイスの救助犬の要請も断っている...


 要するに、自分たちだけの力でなんとかしよう、としたのである。
コレがそもそもの"間違い"だった...
決して自分たちの力だけで何とかなる、そんな規模では無かったのに...


 要請を断られた自衛隊は、仕方なく地元の駐屯地から人員を派遣し、私が勤務していた朝霞駐屯地の教育隊は水トレーラーを差し出した。
そして在日米軍からは毛布が山ほど送られてきた。



【被災地にて...】
 連日のテレビの報道を見ているうちに居ても立ってもいられない。
確か、震災が起きたのは一週間の始まりの朝で...その週末は初めてのフルマラソンを石垣島で走る計画だった。

 飛行機も宿も手配していたので、ゴメンナサイで日本最南端のフルマラソン、石垣島マラソン(当時は八重山マラソン)をおっかなびっくり(^_^)、それでも4時間45分で完走し、翌週、土日を利用して一人で神戸へ向かった。

 朝イチの飛行機で羽田から伊丹に降り立ち、神戸市内まで電車で行き...
そこから先は歩いた。

 とりあえず、市役所を目指して。
市役所に行けば、情報がある🎵
そう信じていた。

 が、情報は錯綜どころか、ナニも無かった...
仕方なく、あてもなく国道を歩くコト半日...

 いったい私はナニをしに来たのだろう...
誰かを助けたいのに、誰かの役に立ちたいのに...どうしてイイかわからない(+_+)
次第に腹が減ってきた。
羽田を経つ時に被災地の人たちに配ろうと思って買ってきたパンを仕方なくかじった...

 歩道の瓦礫を乗り越え、ただひたすら歩く...
そうして偶然?というか奇跡的に、私は本山第三小学校の横に立っていた。


 Googleも無い時代、本当にあれは奇跡としか言いようがない。

 ああ、コレが本山第三小学校か❗
本当に"感動"した。変な言いかただけど(^_^)


 しかし...
校庭にある避難所の受付で私は絶句する...

 すでに私の前に並んでいた数名が、一人一人、名前を書いてボランティアとして登録し、その後は「男女別に」役割が振られていく。
女性は、新たに受付係りとして...


 ちょっと待った❗
私はワザワザ東京から半日以上かけて自力でココまで来ました。
その結果が、校庭の椅子に座ってボランティアの受付?
ボランティアの為のボランティア?はあ~💦


 そこで名案🎵というか迷案を思い付いた❗
ナント、私は名簿に自分の名前を書く際、末尾に「男」を付けて男性と偽って登録した(笑)
当時は今より更に短髪で(^_^)、東京から来た大学生、と偽った。
そんな私を誰も疑わなかった。

 それどころか、周りの男性ボランティアからは、「小さいのに力があるね~(^_^)」と誉められた(笑)


 男性として登録した私には、待望の?力仕事が待っていた(^ー^)💖
校庭に避難所として開設されたのは、陸上自衛隊が提供した6人用の天幕だ。
そこのストーブに給油したり、運ばれてきた物資は、同じく6人用の天幕に入れていく...

 トラックが横付けされ、そこからパンやおにぎり、毛布等を手で運んで、天幕に積み上げていく。

 背の低い天幕はたちまち毛布で山となる...
本当に重労働だ(^_^)


 私が入った時は、震災から既に2週間近くが経過していた。
全国各地から、連日のテレビの報道を見てボランティアが駆け付け、物資が送られてきた。
でも、炊き出しはほとんどなく、毎日決まった時間にパンやおにぎり、弁当を配布した。

 被災者からは、「温かいモノが食べたい」という要望が多数あった。
そして、近所の人が配給の列に並ぶと、学校の避難所で暮らす人たちから、非難の声が上がった。

 同じ被災者なのに、付近の自宅で暮らす人たちは、全国から寄せられた物資を受け取るコトを許されなかった。


 そんなコトも影響してか...
積み上げられた物資は、たびたび盗難にあった。
それは、人が寝静まった夜間に行われていた。

 だから、私たち男性?は...(^_^)
二人一組で寝ずの番をして、付近をパトロールした。

 校庭の仮設トイレも、2週間持たなかった。
溜まった汚物を処理出来ず、使用したトイレットペーパーは、仮設トイレ横の透明のビニール袋に入れられた。

 今思うと、とても不衛生だし、避難している人は、1月という一年で最も寒い時期に、本当に大変な思いをしていたと思う。

 そして忘れがちなのは...
避難所以外で暮らす人たち...

 実は本当に困っていたのは、誰からも見向きもされなかった、こうした人たちだったのかもしれない(+_+)



【25年という歳月を経て...】
 そんな中、避難所を仕切っていたのは地元の高校生たちだった。
非常に頼もしく、コレだけが唯一の"救い"のような気がした。

 あれから25年...
彼らはイイおやじ、になり、子供も居るだろう。
子供たちに当時の自分が経験したコトを語り聞かせているに違いない。


 そしてコレから25年後...
25年というと、私もちょうど80歳になる(^_^)
あまり考えたくないが...(^_^)

 でも、近ごろ出会った80-90歳はとても元気ダ🎵
私もあんな風になれるよう、しっかりと歳を重ねて生きたい🎵と思う。

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