生きる力になれば

ペンネーム良寛地蔵。70代のブログです。言葉で生きる力になればと綴って15年が過ぎました。

心の眼

2018-08-10 22:54:11 | 日々の暮らし
いわゆる頭のいい人は、いわば脚の速い旅人のようなものである。

人より先のまだ行かないところへ行き着くことができるかわりに、

途中の道程、或いはちょっとした脇道にある、
肝心なものを見落とす恐れがある。
(寺田寅彦)

「本当に賢い人とは」

愚者は己を賢いと思うが、
賢者は己が愚かなことを知っている。
(シェークスピア)

「頭も良すぎると」

競走馬というのは、あまり頭が良すぎるとダメだ。

少し良いくらいがいい。
頭の良い馬は、戦況を自分で判断し、

レースを途中で投げてしまうからだ。

人間の世界も、これに似た点がある。
(競馬評論家・井崎修五郎)

「頭ではなく心で感じる」

絵画を見て「これ高いの?」と聞きたがる。

「有名な人の作品?」と聞く人もいる。

なんで、心で感じないの。

欲の皮が突っ張ると、頭でばかり考え、

心で感じることができないのかなあ。

虚飾にごまかされて生きている人は、

本当の人生を生きていないんだよ。

もっと心の眼を養わなくちゃ。
(老子)

本当に頭が良い人とは

道草しながら

四季を楽しむゆとりがあって

心で感じる眼を

持っている人なのだと

思いました。

しくじる位が

いいのです。


のびしろがあるから。

内の施設のお年寄りを見て、小学校しか出てない人がたくさんいます。


背伸びして皆と合わせようと無理しないで、

自分の生きてきたことに自信を持って欲しいと思います。

心の眼が大切なのだから。

合掌

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砂の上の足跡

2018-08-10 00:50:35 | 日々の暮らし
一人の男が夢を見ました。

主イエスと砂浜を歩いていた。

二組の足跡が記されていました。

彼が歩いてきた人生が映し出された。

彼が苦しんでいた時に限って、足跡は一組だけだった。

どうして主イエスよ私が一番必要とした時に、私をお離れになったのですか。

イエスは答えた。

「愛しい我が子よ、
私は片時もお前の側を離れたことはない。

お前が見た一組の足跡は私のもの。

私はその時、お前を腕の中に抱いていたのだ。」

(砂の上の足跡という詩。シスター渡辺和子)

若い時、神よあなたは

私を見捨てたのか!

と叫んだ時がありました。

その時、実は神は私を抱いて下さっていたのですね。

砂の上の足跡に

感謝しています。


皆様も一番苦しい時は

神様の腕の中にいるのです。

アーメン。
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