「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
元亨元年(1321年)相模守北条高時が創建した金剛山宗寿寺は、此の地域にあった。
道興准后の記した廻国雑記の中に紅谷とあるのと、田代系図に拠って千葉の介の敷地としている別谷とは、共に辨谷に同じであるという説もあるが、はっきりとはしていない。
{参考}
崇寿寺
この碑の立っている地域には、北条高時が元享元年(1321年)に創建した金剛山崇寿寺があったという。
臨済宗に属し、元享3年に北条貞時の13回忌の供養が行われたときには、当寺から13人もの僧が参じていたというから、寺は、かなりの規模をもっていたと思われる。
この寺は、応永31年(1424年)まで存在していたことはわかっているが、その後いつ廃寺となったかは不明である。
廻国雑記
道興准后のものした「廻国雑記」には、「べにが谷をとをりて化はひ(粧)坂を越すとて、かほ(顔)にぬるべに(紅)がやつよりきて、はやくも越ゆるけはい坂かな」とある。
千葉介
「田代略図系図」によると、「別谷は千葉殿の敷地なり、介の唐名を別賀(駕)と言う間、別の谷と言う」と記されている。
千葉介は、ここに住んでいたと、碑は説明しているが、千葉介がここにいたとは考えられないことで、佐竹屋敷に近いところから、常陸介、上総介に付会したのであろうと、「鎌倉攪勝考」は反論している。
辨が谷、紅が谷、別が谷が、別が谷が、同一の地をさすものかどうかは、今も判然としていない。
などと言う記述がありましたので、投稿いたします。
(辨谷の碑)
(碑設置の街路)
元亨元年(1321年)相模守北条高時が創建した金剛山宗寿寺は、此の地域にあった。
道興准后の記した廻国雑記の中に紅谷とあるのと、田代系図に拠って千葉の介の敷地としている別谷とは、共に辨谷に同じであるという説もあるが、はっきりとはしていない。
{参考}
崇寿寺
この碑の立っている地域には、北条高時が元享元年(1321年)に創建した金剛山崇寿寺があったという。
臨済宗に属し、元享3年に北条貞時の13回忌の供養が行われたときには、当寺から13人もの僧が参じていたというから、寺は、かなりの規模をもっていたと思われる。
この寺は、応永31年(1424年)まで存在していたことはわかっているが、その後いつ廃寺となったかは不明である。
廻国雑記
道興准后のものした「廻国雑記」には、「べにが谷をとをりて化はひ(粧)坂を越すとて、かほ(顔)にぬるべに(紅)がやつよりきて、はやくも越ゆるけはい坂かな」とある。
千葉介
「田代略図系図」によると、「別谷は千葉殿の敷地なり、介の唐名を別賀(駕)と言う間、別の谷と言う」と記されている。
千葉介は、ここに住んでいたと、碑は説明しているが、千葉介がここにいたとは考えられないことで、佐竹屋敷に近いところから、常陸介、上総介に付会したのであろうと、「鎌倉攪勝考」は反論している。
辨が谷、紅が谷、別が谷が、別が谷が、同一の地をさすものかどうかは、今も判然としていない。
などと言う記述がありましたので、投稿いたします。
(辨谷の碑)
(碑設置の街路)