飯岡幸吉の碑が掃部山(かもんやま)公園に建立されているので行ってきました。さて、飯岡幸吉の碑について、「掃部山飯岡幸吉翁追歌碑建設記念発行飯岡幸吉歌碑建設委員会」によれば、飯岡幸吉は、横浜市花咲町(現在の西区花咲町4-25)に明治31年6月29日父藤蔵、母セイの長男として誕生しました。
氏は、横浜商業学校(現在のY校)に入学して、同校の講師橋田にすすめられ「珊瑚礁」会員となった。卒業後横浜正金銀行横浜本店に入行し「覇王樹」の創刊同人となり、銀行員として勤め、方や短歌の活動にも打ち込む所謂二刀流。
昭和2年29歳で小倉美代子女史と結婚2児の父親となり、昭和3年アララギ(正岡子規の短歌論を信奉派)に入会して、昭和9年11月アララギに萬葉集百選を発表。昭和11年の22.6事件に危うく巻き込まれることなく、新橋駅から終列車にて帰宅することが出来た。
昭和16年11月満州大連支店に転勤するも、日本は、同年12月に太平洋戦争へと突入し、時々休暇を得て帰国し、短歌の同僚達の宅や同僚の部隊を訪問する傍ら、疎開先の葉山の母の健康を気使って訪問するなどしていたが、没し、昭和19年家族3人を大連に呼び寄せる。ところが、昭和20年8月終戦となり、銀行はソ連のダル・バンクに吸収されて、嘱託となる。
昭和22年1月引上げのため、ダル・バンクを退職、3月博多に帰還し、6月には閉鎖機関横浜正金銀行整理部勤務となるが、昭和24年2月横浜正金銀行整理部を退職し、池田木工株式会社の監査役に就任したが、その後、横浜歌話会委員長など就任し、池田木工株式会社を辞職する。 昭和32年には、東京銀行に嘱託とし入行し、昭和35年同行を62歳で退職し、短歌一筋にまい進し、昭和43年には、「久木」の編集兼発行人となる。また、「港の丘」やエッセ・短歌集「横浜在住70年」を出版するなど歌人として、短歌にかける一代であった。
大連での終戦時の詩「港の風」より、抄出
* 自動機関銃砲へ銀行を占拠せる兵が最初に煙草ねだれり
* したたかに街に乱るるソ連兵を捕ふる古豪の少年憲兵
* 円標示ソ連軍票市(まち)に見えややほがらかになりし東洋人
* 呼び歩き日本紙幣を売る彼等マーケットの中を行きつ戻つ
これらの詩を妻美代子女史が回想し、”思い出遥か”と題し、久木に投稿、当時の横浜正金銀行は、世界に百を超える支店を持ち、為替を扱う特殊な銀行であったが、終戦当時を夫が詠んだ短歌集「港の風」で、大連での貨幣価値が市場では、朝鮮、満州中央、ソ連の真赤な軍票に日本銀行券と四種類の紙幣を使い分ける時代陥った。
それは、朝鮮からお米が入港すると朝鮮券の値上がり、日本から迎えの船が来ると日銀券の値があが上る始末。また、満人が卵を売る振りをして「満州紙幣買います」と呼びかける。これは、後の昭和56年の正月に、NHKで経済小説作家「城山三郎」の作で、昭和初期の「浜口内閣」時代の経済恐慌を書いた「男子の本懐」と云うドラマを視ていた妻美代子が、テレビで放映した映像それは、大連の過渡期を思いわせ、妻は、感激深いものがありました。と結んでいる。
飯岡一家は、銀行員でありながら、満州と云う地で終戦を迎え、金券に惑わせられる一時期を体験さられ、これを短歌として一句を詠み、また、家族がそれを回想する。真に人生を感じさせられました。
なお、碑には、
まちなかに 緑をたもつ 掃部山 ましてや虫を 聴く夜たのしき 幸吉 と刻まれていた。
(掃部山公園日本庭園への路)
(日本庭園の一角に建てられた飯岡幸吉の碑)
(日本庭園)
(日本庭園)
(庭園あずまや)
(珍客赤トンボ)
(公園に隣接する横浜能楽堂)
氏は、横浜商業学校(現在のY校)に入学して、同校の講師橋田にすすめられ「珊瑚礁」会員となった。卒業後横浜正金銀行横浜本店に入行し「覇王樹」の創刊同人となり、銀行員として勤め、方や短歌の活動にも打ち込む所謂二刀流。
昭和2年29歳で小倉美代子女史と結婚2児の父親となり、昭和3年アララギ(正岡子規の短歌論を信奉派)に入会して、昭和9年11月アララギに萬葉集百選を発表。昭和11年の22.6事件に危うく巻き込まれることなく、新橋駅から終列車にて帰宅することが出来た。
昭和16年11月満州大連支店に転勤するも、日本は、同年12月に太平洋戦争へと突入し、時々休暇を得て帰国し、短歌の同僚達の宅や同僚の部隊を訪問する傍ら、疎開先の葉山の母の健康を気使って訪問するなどしていたが、没し、昭和19年家族3人を大連に呼び寄せる。ところが、昭和20年8月終戦となり、銀行はソ連のダル・バンクに吸収されて、嘱託となる。
昭和22年1月引上げのため、ダル・バンクを退職、3月博多に帰還し、6月には閉鎖機関横浜正金銀行整理部勤務となるが、昭和24年2月横浜正金銀行整理部を退職し、池田木工株式会社の監査役に就任したが、その後、横浜歌話会委員長など就任し、池田木工株式会社を辞職する。 昭和32年には、東京銀行に嘱託とし入行し、昭和35年同行を62歳で退職し、短歌一筋にまい進し、昭和43年には、「久木」の編集兼発行人となる。また、「港の丘」やエッセ・短歌集「横浜在住70年」を出版するなど歌人として、短歌にかける一代であった。
大連での終戦時の詩「港の風」より、抄出
* 自動機関銃砲へ銀行を占拠せる兵が最初に煙草ねだれり
* したたかに街に乱るるソ連兵を捕ふる古豪の少年憲兵
* 円標示ソ連軍票市(まち)に見えややほがらかになりし東洋人
* 呼び歩き日本紙幣を売る彼等マーケットの中を行きつ戻つ
これらの詩を妻美代子女史が回想し、”思い出遥か”と題し、久木に投稿、当時の横浜正金銀行は、世界に百を超える支店を持ち、為替を扱う特殊な銀行であったが、終戦当時を夫が詠んだ短歌集「港の風」で、大連での貨幣価値が市場では、朝鮮、満州中央、ソ連の真赤な軍票に日本銀行券と四種類の紙幣を使い分ける時代陥った。
それは、朝鮮からお米が入港すると朝鮮券の値上がり、日本から迎えの船が来ると日銀券の値があが上る始末。また、満人が卵を売る振りをして「満州紙幣買います」と呼びかける。これは、後の昭和56年の正月に、NHKで経済小説作家「城山三郎」の作で、昭和初期の「浜口内閣」時代の経済恐慌を書いた「男子の本懐」と云うドラマを視ていた妻美代子が、テレビで放映した映像それは、大連の過渡期を思いわせ、妻は、感激深いものがありました。と結んでいる。
飯岡一家は、銀行員でありながら、満州と云う地で終戦を迎え、金券に惑わせられる一時期を体験さられ、これを短歌として一句を詠み、また、家族がそれを回想する。真に人生を感じさせられました。
なお、碑には、
まちなかに 緑をたもつ 掃部山 ましてや虫を 聴く夜たのしき 幸吉 と刻まれていた。
(掃部山公園日本庭園への路)
(日本庭園の一角に建てられた飯岡幸吉の碑)
(日本庭園)
(日本庭園)
(庭園あずまや)
(珍客赤トンボ)
(公園に隣接する横浜能楽堂)
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