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有吉忠一氏について

2017-01-07 09:37:12 | 日記
今回からは横浜の偉人たち

有吉忠一氏について
有吉氏は、横浜市長に就任しホテルを建設した氏である。明治の横浜の人 著者 川口正英 発行 二宮孝之によると次のような記述がありましたので、投稿いたしのす。
 明治6年(1873年)6月丹後宮津藩士有吉三七の長男として生まれた。全権大使有吉明の兄でふる。明治29年(1896年東京帝国大学英法科を卒業して内務属を振り出しに、同30年(1887年)島根県参事官となり、次いで兵庫県参事官に転じた。その後は千葉県知事、統監府総務長官、朝鮮総督府総務部長等を経て宮崎、神奈川、兵庫の各知事を歴任し、大正11年(1922年)には朝鮮総督府政務総監に栄新した。その後閑職に在ったが、横浜市の市長銓衝委員会から、市長就任の要請が在ったので、この要請に応えて、彼は横浜市長になった。このとき有吉忠一は、銓衝委員会に次のような条件を出した。市政会で憲政派と政友会が完全に協調することと、市会における有吉市長推薦には満場一致であることの二点であった。
 上記によって氏は、大正14年(1925年)5月7日から昭和6年(1931年)2月26日まで、市長の任に在った。この間貴族院議員にも勅選されたり、海軍協会会長、日本赤十字社理事等をも兼ねていた。
 彼は市長に着任早々考えたことが、ホテル建設にあった。時あたかも関東大震災の直後であったことから、横浜は国第一の開港場であるにも関わらず、外国人相手のホテルが無い。殊に横浜の将来を考えると、まことに残念である。当時横浜は大震災の直後であったのに対して、神戸は各種の施設ができ、業者の運動によって生糸の輸出は漸増していた。
 この両市の生糸の輸出問題を考え、その優劣を競うには外国人関係業者の宿泊施設として、ホテル建設の急務を痛感したからである。これによって、横浜再建の足がかにしょうと計画たて、ホテル建設の急務であることを、商工会議所及び横浜市復興会を通じて、これが、建設意識を増強したのであった。
 そこで有吉は着任した大正14年(1925年)11月ホテル建設計画を横浜市会に提案した。これが可決された。場所は中区山下町10番地に1,153坪(3、811.56平方メ―トル)の耐火耐震建築の建物を建設し、これをホテル経営者に賃貸するものであった。これに要した建築費は、136万3千円であった。
 上記大正15年(1926年)工事に着手し、昭和2年(1927)11月28日完成の予定で行われ、12月1日開業することができた。このホテルこそ今も山下公園を前にして厳然とその偉容を誇っているホテルニューグランドがそれである。なお彼の市長在任中は専ら震災後の復興事業であった。
 壊滅的状態にあった横浜市を復興するためには、政府の財政的強力な援助が無ければならなかった。有吉はこれをおこなった。それによって、横浜市の復興事業を完成した。
 殊に今でも横浜市内の次の主なる公園はこの当時造られたものである。
 野毛山公園、神奈川公園、山下公園をはじめ横浜公園、掃部山公園は修築・増強され、保土ヶ谷児童公園、元町公園、久保山合紀霊場附属公園などの造園も行われた。
 公園の外、道路、水道、病院、教育殊に校舎をはじめ万般について復興は勿論戦災前に比してあらゆる施設は大改造が行われ、横浜市は一新された。
 これが実施に当たって有吉市長は勿論、横浜市復興会が38名の設立委員によって結成された。その活動もまことに大きいものであった。
 有吉は請われて、昭和8年(1933年)4月には商工会議所の9代の会頭なり、昭和17年(1942年)8月まで在任した。
 氏は、昭和21年(1946年)死去、この時齢正に74歳であった。正三位勲二等を贈られた。
 追記
 神奈川県には当時高等教育機関は全く無かった。それだけに県民は多年高等教育機関の設置を要望していた。当時の有吉知事は紙の有力者の協力を得て、大正5年(1916年)文部省に高等工業学校の設立を申請した。この申請は受理されて、大正9年(1920年)横浜高等工業学校が設立された。この学校は今日の横浜国立大学工学部である。

(横浜港等の変遷)

(偉人たちの業績標)

(有吉忠一の業績標)

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