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昔の横浜港について聞く

2017-04-08 10:34:02 | 日記
 丹羽技師の横浜港の設計に当たって取り組んだ経緯について投稿いたします。「港湾」総会記念横浜特」より。横浜港は、安政4年(1857年)12月徳川幕府がアメリカの使節ハリスに対し日本とアメリカとの通商条約を結び、貿易港は神奈川、函館、長崎の3港となし、神奈川を開いたら下田は閉じるとなったのが発端でハリスは大変喜んで,承諾し、安政5年(1858年)6月19日に正式に通商条約の締結が出来たのです。
それから直ぐ幕府は外国奉行を横浜に出して、一切外国との交渉を外国奉行が直接やることにした。ところが、この神奈川に開港すると言うことについて問題が起った。それは、最初幕府では、神奈川に居留地を設け、領事その他を住まわせる考えであったらしいが、街道筋に当たり人の通行が多く世間がやかましい時であったから、間違いがあってはいけないと言うことで、幕府は横浜村を指定した。
 当時、神奈川宿と横浜村とは平沼、戸部、野毛等を通り陸路2里(約8キロ)あるから、若しくは、渡船にて海を横切るしかない。当時、横浜村は50戸しかない漁村で住民は農業と漁業を営む人達であった。
このような実態から、ハリスは条約文に貿易港は神奈川と記してあり、横浜とは場所が違う。我々を不便な所に押し込んでしまうと言うことは、恰度長崎の場合と同じで甚だ誠意がない。ことに街というものもない。絶対に神奈川でなければならぬと言う。
幕府の言い分は、横浜も神奈川の町である。横浜の海は水深も深く、場所も広く幾らでも居留地の拡張が出来ると主張したが、承知しなかった。
 そこで幕府が旨い政策を採った。即ち、アメリカはどうしても承諾しないから、横浜村を立派な街にして商売を盛んにするよりほかないと考え大工事を起こして、道路を広げる。橋を架ける。田地や沼地や砂浜を埋めて市街地を造るなど立派に横浜の形を整えた。そうして、土地だけではいかんとて、日本の商人に呼びかけ、地代を安くして商人を歓迎し、種々便利を興えて移住を奨励したことから、外国人と取引して大いに儲けようと思う日本人の商人連中の皆が喜んで横浜の町に集まり、お仕舞いには遊郭まで造って、日本人ばかりではなく外国人や船員などの慰安所にしたと言う様なことで横浜繁昌させた。
そうすると最初は英、米、仏、蘭等皆神奈川に領事館を持ち外国商人も子安近傍に住っていたものが、だんだん横浜が便利になって来ると、神奈川に住んでいるよりも横浜に移りたいという希望がでてきたり、又領事館など神奈川でなければならんと言っていたのが、横浜の方へ心が移り、領事館もまた事実横浜に住いたいと移転し、横浜は自然に発達した。
外国人の居留地も幕府が拵えるに世話もなかったと言うことで、問題は、知らず知らずの内に解決され、横浜が神奈川の一部分として認められたことになり、正式に書類はないが領事団も暗黙の裡に横浜を認めることになった。これが横浜港の起こりである。その実現は、井伊大老の堅き決心神奈川奉行のたゆまざる努力の結果である。後年、横浜港を一望の下に見下ろす掃部山に井伊大老の銅像が建ったことも感銘深きものがあると思います。と言う記述がありました。以上を投稿して、偉人達を終了と致します。

(偉人達の業績標)

(開港150年記念碑)

(開港150年定礎)

(港湾用鉄道碑)

(当時の横浜駅舎)

(港湾停車場跡地)

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