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アイスクリームの碑・機械製氷発祥の地について

2015-12-12 09:59:33 | 日記
 馬車道を海に向って歩いていくとアイスクリームの碑が右側に建立しています。一方、機械製氷発祥の地は、JR石川町駅から元町通りを海に向っていくと右側に建立しています。
「横浜ことはじめ」著者 半澤正時によれば、次のような記述がありましたので、投稿いたします。
 明治2年(1869)6月に馬車道とおりの常盤町5丁目(現在の中区)で町田房造が氷水店を開業した。これがわが国最初の氷水店である。
 毎日新聞記者生出恵哉氏の研究によれば、町田房造は明治元年(1868)にアメリカから帰った北海道開拓使御用掛の農林技師出島松造から、アイスクリームの製法を教わり「あいすくりん」と名付けて売り出した。出島は、万延元年(1861)12月に横浜から、アメリカのサンフランシスコに向けて密航し第1号で、アメリカで酪農を学び明治元年に帰国して、横浜である人にアイスクリームの製法を教えたと自伝に書いている。しかし、房造は、万延元年に臨丸の乗組員として勝海舟らと共に渡米しているから、自分自身でもアイスクリームの製法を見学してきたらしい。
 明治2年6月の当時、アイスクリームの値段は1盛り2分と高値であったから、房造の店には、たまに外国人が食べるぐらいで、日本人の客は無かった。日本人は、外国人が食べているところをただ、珍しげに見物するだけであった。そのため、氷水店の経営は見込みはずれで、大損となってしまった。
 それでも、翌年の明治3年(1870)4月14日伊勢山皇太神宮遷座の大祭を挙行したとき、氷水店を再開してみると、祭りは好天に恵まれて、昼夜、見物人で賑わい、冷たいアイスクリームを食べてみようとする珍しがりやの客が集まって、店は思わぬ大繁盛となった。この繁盛ぶりを見て、その後、町のいたるところで「氷水」の看板を出して営業する者が増えたという。
 現在、房造が店を開いた向かい側のアートビル(中区常盤町4丁目45番地)の前に昭和51年(1976)11月彫刻家 本郷新氏によるアイスクリーム記念碑「太陽の母子」像が日本アイスクリーム協会神奈川県支部によって建てられ、往時を偲ばせている。
 さて、アイスクリームの製法を町田に教えた出島松造は、明治6年(1873)7月に、明治天皇が青山の開拓使第1官園(農業試験所)へ行幸された時にアイスクリームを作って差し上げている。
 文久元年(1861)に富士の天然氷を甲州鰍沢(現在 山梨県南巨摩鰍沢町)から富士川を下り、江尻港(現在 静岡県清水市清水港)から船で横浜へ2000個を運んだが、1個も残らず融けてしまって失敗している。文久3年(1863)には、諏訪湖(現在長野県)の氷を天竜川を下って運ぼうとしたが運べず、これも失敗。元治元年(1864)には、日光山(現在栃木県)の氷を高瀬川を下って横浜まで運んだが、売り捌いた金額よりも運搬費の方が高くついてしまったという。
 更に、慶応元年(1865)の冬に釜石(現在岩手県釜石市)から300トンの氷を運んだが、売れたのは30トンに過ぎなかった。慶応2年(1866)に青森の埋川で氷を取ったが、運搬する船の手配が遅れて融けてしまった。慶応3年(1867)には、函館で氷を作ろうとしたが、暖冬で薄い氷しかできず、これも失敗に終わっている。当時の氷は、全て現金取引だったから金のやりくりは大変なことであった。
 明治元年(1868)に函館から氷を買い集めて、イギリスの帆船をチャーターして横浜へ運び、元町に新築した氷室で販売をしている。明治2年(1869)からは、函館五稜郭(現在函館市五稜郭町)から、初めて良質の氷を切り出しことに成功し、「函館氷」と呼んで大いにもてはやされた。歌川広重は、明治9年に、その様子を「北海道函館氷輸出之図」という錦絵を描いている。また、その当時の人々の氷に対する思いは、「身に染むや夏の氷の有りがたさ団州」と九代目市川団十郎がうたったことから、窺い知ることができる。
 中川嘉兵衛は明治14年(1881)の第2回内国勧業博覧会に氷を出品して龍紋賞牌を獲得した。それ以来「函館龍紋氷」として知られるようになったという。明治22年(1889)以後は、五稜郭外豪貸与規則の変更に伴い、亀田郡(現在 北海道渡島支庁)神山村の池から氷を取るようになった。
 一方、アメリカ人の中にも氷の販売に目を付けた者が出てきた。横浜外人居留地42番の肉屋バージスは、明治4年6月(1871)7月頃マサチューセッツの北、セーレムのウエナム湖の氷を輸入し、横浜外国人居留地43番(現在中区山下町43番地)に氷室を作って、百ポンドにつき、3ドルで販売している。その頃。中川嘉兵衛の外に岸田吟香も氷室会社を作るなど同業者が沢山出て来て販売競争となり、氷の価格は次第に安くなっていった。
 明治6年(1873)の夏には、外国人弁天通り(現在中区)を日本人に氷の入った壺桶を担わせて、氷を売り歩く姿が見られたという。
 天然氷の氷に代わって、機械製氷を最初に行ったのはストルンブリンクである。横浜山手居留地甲184番(現在中区元町1丁目184番地)に横浜氷製造所を作って3トン・エーテル式製氷機を据付けて、明治12年(1879)から氷を製造した。その工場は、現在、神奈川日冷山手営業所となっている(今現在は、跡形もありませんので、申し添えます)
。と記述がありましたので、機械製氷発祥の地の碑と併せて投稿いたします。

(アイスクリームの碑)

(同じ)

(機械製氷発祥の地)

(同じ)

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