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水上浩躬・古市公威について

2017-04-01 12:14:21 | 日記
 水上は熊本出身で、明治21年(1888年)帝国大学法科を卒業後、議会の事務視察のためフランスに渡った人物であります。
 みなとびとの記 編集・発行横浜開港資料館によれば次のような記述がありましたので、投稿いたします。
 氏の略歴は、明治23年(1890年)衆議院書記官を経て、明治25年(1892年)井上馨内務大臣の秘書官となる。翌年長崎県書記官として長崎港湾改良問題に取り組み、明治30年(1897年)神戸税関に任ぜられた。翌年3月井上馨推薦めもあって横浜税関長に就任し、横浜港第二期拡張工事の実現に奔走した。明治37年(1904年)に神戸市長となり神戸港拡張工事を推進「築港市長」と呼ばれた。明治42年(1909年)病気のため退任、その後は明治神宮奉賛会や日本美術協会の理事などを務めた。
 横浜港第一期拡張工事について、当時の横浜税関長水上浩躬の回想録(「八年記」横浜税関所蔵)から、その着工経緯を見ていきます。
 明治31年(1898年)3月に横浜税関長に就任した水上は、5月の臨時会議通過を狙って、前任者・大越成徳が策定した計画案を携えて蔵相の井上馨を訪ねます。水上は井上の娘婿に当たります。この計画案は工費40万円で税関から大岡川河口までの海面を埋め立てて上屋などを新設するという小規模なものだったので、井上は計画をより大規模なものに改めるよう促します。そこで水上は、大型船舶が接岸できる岸壁や鉄道引き込み線を備えた工費約500万円の大規模な計画案を作成します。しかし井上は財政的理由から難色を示し、「素人的設計ナレハ直ニ之ヲ会議ノ議案トスルノ価値アリト信セシニアラス、単ニ政府内部ニ於ケル詮議「キッカケ」タルコトヲ期待セシニ過キセルナリ」と冷淡な発言をして水上を失望させます。
 しかし、その年の6月に第三次伊藤内閣が総辞職し、第1次大隈内閣の蔵相に松田正久が就くと、水上は主税局長、目賀田種太郎らの後援を得て、再度計画案を提出し、承認を得ることに成功します。
 そこで設計を古市公威に依頼します。古市はそれまで内務省土木局長として全国の港湾・河川土木に当たっていましたが、第三次伊藤内閣の総辞職とともに官職を辞していました。
 水上の依頼を受けた古市は、「繋船岸ノ築造ハ東洋ニ未タ見サル所、箇様ノ注文ナレ予ハ模範ノ積リニテ引受クヘシ」と二つ返事で快諾しました。
 明治31年(1898年)9月に古市が提出した工事説明書によれば、工費300万円で、海面埋立と係船岸壁の整備を優先し、陸上設備や海陸連絡施設は他日を期すというものでした。この計画案は、第二次山県内閣承認を得たのち、第13帝国会議で工事約234万円に修正されて認められました。このように内閣の更迭が頻繁な中で、横浜港拡張計画が異例の速さでみとめられた背景には、目賀田主税局長や逓信次官として官界に復帰した古市公威の働きかけがあったと水上は回想しています。
 明治32年(1899年)5月に臨時税関工事部が設けられ、大蔵省直轄のもとで着工の運びとなりますが、時事新報や横浜貿易新報などの一部メディアは、埋立工事によって港内が狭くなるとして反対の論陣を張っていました。そこで水上は、横浜市の有力者らを官邸に招いて築港計画の意義を説明するとともに、外国の港湾関係文献を訳出して係船岸壁の必要性を説き、税関見本室を一般に開放して築港計画の概要や工事の様子を内外の人々に縦覧する機会を設けるなどして、拡張工事に対する世論の支持を得ることに成功します。
 第一期海面工事は、計画を一部変更し、明治35年(1902年)の暴風雨の被害や日露戦争の勃発にともなう工事繰り延べなどによって遅延しますが、明治38年(1905年)12月には竣工し、現在の新ふ頭の東側半分の埋立と係船岸壁が完成します。しかし、この工事は既定計画の一部であり、西側半分の埋立や陸上施設は全く未着手の状態で、次なる継続工事が緊急な課題でした。しかし戦費19億円を費やした日露戦争が国家財政に与えた影響は大きく、これまでのような国による大規模な改修工事は困難な状況にありました。
 再び水上浩躬(ひろちか)の回想によれば、彼は日露戦争前の明治36年(1903年)9月ごろから、曽根荒助蔵相(第一次桂内閣)に対して第二期海面埋立工事と陸上施設工事の予算化を強く求めていましたが、政府の苦しい財政状況を見越し、総額600万円におよぶ工事費の約3分の1を横浜市が負担することを計画していました。また彼は「私は直接に利益を受くる者が其責任を負担するのが当然だと思います。もし当港が此の責任を放棄すれば、他の競争者は必ず両手を開いて之(築港予算)を拾うに違いない」と「横浜商業会議所月報」紙上で訴え、再び世論喚起を図ろうとします。(同99号明治38年(1905年)1月)
 横浜市でもこれに積極的に応える動きが起こります。明治36年(1903年)1月、横浜市長に就任した市原盛宏は、施政方針演説の中で、従来の横浜市の受け身的な態度を改め「自動的即動きかけの発達を要する」と市民に自己負担による横浜築港工事の速成を呼びかけました。それまで激しい党争を続けていた横浜市会は、新たに公和会を発足させます。日露戦争の講和が近づいた明治38年(1905年)夏頃から、横浜商業会議所や横浜市長・市会議員らが一団となって中央政官界の有力者を歴訪し、8月には横浜港改良期成委員会が発足するなど、第一期海面埋立工事に続く拡張工事を求める世論が徐々に高まってきました。
 明治39年(1906年)9月市原市長は若槻礼次郎(主税局長兼税関工事部長、のちに首相)らと協議の上、拡張工事達成を図るため、横浜市が工費の3分の1を負担する「横浜改良の件につ稟請」を大藏大臣に提出します。横浜市の提案を受け、政府は第22帝国会議に横浜海面埋立第二期工事と陸上施設の予算818万円を提出し、横浜市は270万円を負担することとなりました。翌年3月臨時税関工事部は廃止され、新たに大蔵省臨時建設部が工事に当たることとなり、同年6月には諮問機関として臨時横浜設備委員会が設置されました。
 第二期海面埋立工事は、まず新港ふ頭の西側半分の埋立を明治44年(1911年)3月完成し、続いて倉庫、上屋・鉄道などの陸上施設が大正3年(1914年)に完成、最後に大さん橋の改築工事が大正6年(1917年)に終了し、第二期工事の全工程が竣工した。
 第一期海面埋立工事から数えると、約20年間、総工費1045万円をかけて、横浜港は近代的な港湾施設に生まれ変わりました。埋立面積6万9727坪、岸壁延長2025メートル、鉄道引き込み線を備えたクンガ造り3階建ての倉庫2棟(赤レンガ倉庫)上屋14棟、発電所1棟など陸上施設を備えた新ふ頭が出現しました。
 これにより、明治31年(1898年)〜大正6年(1918年)まての20年間と比較すると、横浜港入港船舶は22倍(5、650隻に対し12万6、058隻、トン数では3.7倍(277万トンに対し1、027万トン)に激増し、外国貿易額は輸出額が8.3倍(8、031万円に対し6億6706万円)、輸入額が2.6倍(1億1101万円に対し2億8726万円)に拡大しました。また、横浜港を支える輸出品の約6割は生糸で、羽二重などの絹織物がこれに続き、茶類は大正期には約1%低落しました。貿易相手国ではアメリカを筆頭に、フランス、イギリス、さらに中国との貿易が増えるなど、新市場の開拓も進み海外定期航路も拡充された名実ともに国際港として道を歩んできました。などという記述がありました。

(偉人達の業績標)

(水上浩躬氏の業績標)

(古市公威氏の業績標)

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