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鎌倉五山について

2017-04-15 12:02:12 | 日記
 今回から、6回に亘って鎌倉五山について、投稿致します。「マイウェー鎌倉物語」著者 小峰邦夫(郷土史家)によりますと次のようなことがらが記載されていました。
 鎌倉五山は、五山の制とは、中国の南 宋時代(十二世紀)にさだめられた制度で、日本では中国の五山に倣って鎌倉時代末期に取り入れられました。
 宝治元年(1247)6月、北条時頼が三浦氏を滅ぼすと、北条氏に対抗する政敵はなくなり、従来有力武将の合議制で運営されてきた政治は、北条氏嫡流の専制政治へと移っていきます。かつて三浦一族の和田氏の所領であった山内壯(現在の北鎌倉一帯・横浜市南部)は幕府直轄領となり、その後は、北条執権家の私領となります。
 北条氏は自領となった鎌倉中心部に近い場所に北条氏ゆかりの禅宗寺院、即ち、建長・円覚、浄智といった臨済宗の寺院を建て、中国から五山の制が伝わるとわが国最初の五山に列しました。こうした寺は官寺として幕府に保護され、最上位の格付けがされましたが、寺領、順位、住持(住職)の任免等は幕府に管理されました。
 元弘3年(1333年)北条氏の滅亡により政権が鎌倉から京都へ移ると、今度は、武家による鎌倉五山に代わって、公家による京都中心の五山制度ができます。この時は、第1位から、南禅寺、東福寺、建仁寺、建長寺、円覚寺と言う順序で京都の寺が上位3位までを占めています。その後も度々変更があり、寺の入れ替え順位の交替などが行われます。そして各寺の僧侶の名簿を作り、役僧の任期を2年と定めるなど制度の内容が固まっていきます。その過程では寺の格を上げたいと言う活動や転寺によって自身の昇格を図りたいという運動もおこったことでしょう。五山称号の変更権や住持の任免権を持つ室町幕府は苦しい財政事情を助けるために、2年ごとの官寺住職の変更に際し名義料(公認料)を徴収すると言うこともあったようです。
 五山の制は、宗教の序列化、官僚化を進めましたが、一方では人事の交流によって文化の広がりなども進みました。今日の五山とは、室町幕府最盛期の至徳3年(1386年)に足利義満によって決められたもので、南禅寺を五山の上(別格)とし、一位 天龍・建長 二位 相国・円覚 三位 建仁・寿福、四位 東福・浄智 五位 万寺・浄妙と言うように京都と鎌倉の寺院が同数になり、この形で現在に伝えられています。などと言う記述がありました。
 一方、中世鎌倉五山の建築 著者 鈴木 亘、発行 日野敬一によれば、次のようなことがらの記述がありました。
 日本における宋朝禅を旨とする専門禅刹伽藍は宋僧蘭溪道隆を開山に迎えて、執権北条時頼により建長五年(1253年)11月に落慶供養された鎌倉の建長寺を似て嚆矢(こうし)とする。その後、執権北条時宗は、宋僧無学祖元を開山に請じて鎌倉に円覚寺を創立し、弘安5年(1282年)12月8日に開堂した。本邦において禅宗が最も盛んであったのは鎌倉時代末から南北朝期であり、鎌倉および京都を中心に多くの禅寺が創設された。それに伴い来日僧および入宋、入元僧を通じて宋・元の文物が招来され、建築では新様式である禅宗様(唐様)の一大発展を見た。
 一方、多くの禅寺の創設に伴い、幕府は禁制および規式条書を配布し、禅寺の統制を計った。中国禅寺の制度を模した五山の制度は、執権北条貞時により鎌倉時代末に採用されたと考えられている。延慶3年(1310年)頃には、建長、円覚、寿福、浄智の四寺が五山に列位され、それに将軍源頼家創建の京都建仁寺を迎え五山と称された。
 南北朝期になると足利氏は、多くの禅寺を管理統制するため、中国禅寺による五山、十刹、甲刹の三段階からなる官寺・寺格制度を採り入れた、室町幕府は、鎌倉時代末以来の五山位次を改め、歴応5年(1342年)4月に五山・十刹次第を定めた。「扶桑五山記」によると、この時の五山次第は次のようである。
 第一位 建長寺・南禅寺(両寺均等之子細、見状左、但衣都鄙改坐位) 第二位 円覚寺・天竜寺 第三位 寿福寺 第四位 建仁寺 第五位 東福寺(住持家井本所承諾、治定禪)となっている。
 京都および鎌倉の五山位次が定まるのは至徳3年(1386年)7月である。この年将軍足利義満創建の京都相国寺が完成し、同寺を五山に加えるために南禅寺を五山の上に昇格した。「扶桑五山記」によると、五山之上 南禅寺五山第一位 天竜寺 建長寺 第二位 相国寺 円覚寺 第三位 建仁寺 寿福寺 第四位 東福寺 浄智寺 第五位 万寿寺 浄妙寺
 京都五山と鎌倉五山は、その後、中世を通じて踏襲された。なお、禅寺の統制は鎌倉時代末から南北朝期に武家の中から任命されて行事に当ったが、三代将軍足利義満の時、僧録司制度を新設し、僧官がそれを統率するようになった。
 また、鎌倉の五山禅寺は、五山制度が確立する以前に創立され、鎌倉時代末期には三門、仏殿、僧堂、庫院、法堂、方丈を中心とする禅宗様の伽藍を整えていた。などと記述がありましたので、先ず投稿いたします。
 次回から、鎌倉五山について個別に投稿いたします。

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