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三渓園について

2015-03-06 16:44:44 | 日記
 今日は久しぶり三渓園に行ってきました。天候もよく気温が17℃と桜の花の咲く頃の気候のためか、手に手に紙やペンを持って、何やら呟きながら歩く仲間達、また、片や、椅子に腰かけキャンバスに向かって筆を執って無心に描いているサークル、また、両手でカメラを持て、切り取り場所を入念に見つめる人など、人、人でありました。
 これも原善三郎、そして、原三渓の二代に亘る生糸貿易の果実の賜と思いながら、正門から入り池をぐるりと外苑を回ってホボ中央部に行くとそこには、原三渓翁の碑がありました。看板には、銅像があったが、関東大震災で被害を受けその後、先の大戦による金属の半強制的な供出にせまられ止む無く云々と記述されておりました。また、隣接して高浜虚子の句碑もありましたので、先ずは、原家について、「原三渓翁伝」藤本寛也著よる記述内容を投稿させていただきます。
 創業者原善三郎氏は、武州若泉村渡瀬(現在の埼玉県児玉郡神川町)に文政10年4月28日(1828)に生れて、横浜の安政の開港(1854)に一大転換機と際し、男子事を為すは正にこの好機にありと横浜に来往した。
 これまでには、善三郎氏は武信各地の生糸を買収し、自家製造の品を併せて携え、横浜の生糸問屋、野沢屋庄三郎、吉村屋幸兵衛の店に荷をだしていたが、文久元年野沢屋庄三郎の死後同業の中里と共にその店を継続し、翌年には、独立の店を開き野沢屋の暖簾を譲り受け、自ら生糸問屋業を弁天通り三丁目に開始した。斯くて善三郎は商運隆盛と共に人為り見識に長じ、頭角を顕し、明治初年通商司為替方及び貿易商社頭取に推挙され、明治6年横浜生糸改会社の創立に当り社長となり、続いて横浜第二国立銀行が創設されて頭取となり、翌年の7年神奈川県第一大区議院に選出、明治22年3月海防費献納によって正六位に叙せられ黄綬褒章を賜った。
 その後、横浜商業会議所会頭や郷里より選ばれて衆議院議員となり、功績を称えられ勲四等に叙せられ瑞宝章を賜るなどその名を残し、明治32年2月6日73歳で逝去され、従五位となった。
 しかし、原善三郎氏には子供に恵まれず、武州渡瀬の叔父原安兵衛の長男元三郎夫妻の間に生まれた「屋寿子」は原家を継ぐべき一人娘として、育てられていた。
 一方、後に二代目になる原三渓なる人物は、明治元年8月23日岐阜県稲葉郡(当時厚見郡)佐波村に青木家の長男富太郎が誕生した。家業は農業であるが、古くから地の素封家で代々庄家を勤めた家柄でどの時代から帰農したものか系図は不詳である。
 明治5年8月2日に文部省布達で初めて学制頒布され、これに基づき各地に小学校が設立されたが、佐波村では明治6年3月8日尚文義校の名称の下に佐波村佐波に設立され、同8年1月寄命義校を併合し、後に、明治19年に簡易科小学校と称した。
 富太郎は、明治9年9歳から小学校に入学することになったが、幼児期から神童と云われ、3,4歳に絵によって百人一首の人名を覚え、小学校時代から郡童を擢んで学業が進み早くも頭角を顕し、安藤校長の目に留まっていた。7,8歳の頃祖父母のところに遊びに行く時に土産にと母がお菓子1袋持たせ、石原家の主人が庭先にいたので渡したところ、主人は、庭先で休息している植木職人に袋まゝ与えたのを見て、子供心に憤慨して、その後、二度と祖父母のところには行かなかった。という気骨な一面があり、一寸の虫にも五分の魂、少年時代からこの気概をもって頼もしかった。
 やがて小学校も終えると直ちに、大垣の野村藤蔭の「鶏鳴塾」に就いて漢籍を学び佐波から大垣まで二里(約8キロ)の道程を16歳の頃まで通学した。勉学に勤しむにつれ詩に興味が湧き農村の地主に納って一世を送る意志は無く、東京遊学を心に芽生えたが、当時の世態は容易に富豪であっても許されず無断で家を脱出して東都に出る者もいた。
 富太郎は、苦学の方針を定め恩師の船山に願い出たところ、同情を得て船山の紹介で跡見花蹊女史を経営している「跡見女学校」に助教師の職を求め、一先ず身を落ち着けんと両親に計らず京都を飛び出して東京に走った。その時富太郎は21歳の時であった。
 富太郎は、何故か、早稲田の「東京専門学校」を選択した。当時、福沢吉創立の「慶応塾」はその名称に示すが如く慶応年間の創立であるから、私立学校として先行を付したものであるが、早稲田専門学校は、明治15年に大隈重信候が創立したもので共に私立学校の双璧であった。この他、現在の所謂六大学が存在し「六大法律学校」と唱せられていた。
 苦学は容易ではなく国からの仕送りも絶え人生容易ならざるものを感じ得した。天は自ら助くるものを助くるとの信条に燃え豁然(かつぜん)として、大悟し跡見女学校における勤め振りもおろそかにしないようになった。同校は明治8年の創立で、花蹊女史は大正15年1月10日87歳をもって他界し、後継には養女が継いだ。女流教育家として鳴らした花蹊女史の信頼を得て、富太郎は飛躍を期すべく潜心苦学を続けていた。
 偶々この学校に通っていた原屋寿子嬢と相思の間柄となった。屋寿子嬢は横浜原家を継ぐべき一人娘であった。幸いにもこの学校で教鞭を執っていた中島湘煙女史の同情から斡旋努め、校長花蹊女史も亦粋にくだけた老成の女丈夫で快くこれを認諾賛成し、茲に、目出度く婚約は成立し、湘煙女史の媒介で幸福の典を挙げることになった。
 このように、一気呵成にこの良縁が成熟したように見られたが、富太郎は、青木家の長男のみならず、既に。明治16年11月10日附けをもって家督相続が行われ戸主となっていた。農村地方の風習等から早く、父久衛翁は47歳で退隠し、富太郎17歳の若さであった。
 この結婚は、双方共に宗家を継ぐ長男、長女であったことから、貰い受ける原家は差しさわりないが養女として出て行くことは困難であった。特に家督を相続している青木家の実父久衛氏は、容易に肯ぜなかった。当時、明治24年の二人の年齢は、富太郎25歳、屋寿子19歳であった。
 原家としては、昔からの古い風習に捉われ親から選定して婿を迎えるべく考えていたが、未だ目星も付いていなかった矢先であるから、最初は多少の不服らしい感想もあったが、これは花婿富太郎の人物や家柄を調査して快く納得したのであるが、納まらぬは青木家であった。校長の花蹊女史は二人にとって良縁で本人同士の為に天与の幸福あるとこを確信して熱心に赤縄を操つり、遂に、花蹊女史の養子跡見愛次郎氏を青木家へ受け入れるよう交渉を行ったが中々話が面倒はあったが、明治25年1月19日願済廃嫡の上、原家へ婿養子縁組の入籍が整ったのである。
この続きは、次回投稿をお約束いたします。

(原三渓翁の碑)



(大正年間建てられた銅像)

(猫柳)

(梅が咲き誇っていました)



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