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長谷川潔 画伯之碑について

2015-03-02 08:57:20 | 日記
 今日は、大通公園に来てみました。この公園の構成は、「石の広場」「水の広場」「緑の広場」の三つのゾーンからなっています。各ゾーンには、世界を代表する作家の彫刻作品やレリーフ等も配置されていましたが、緑の広場に、長谷川潔 画伯之碑もありましたので、今回は、長谷川潔画伯について投稿させていただきます。
 銅版画家「長谷川潔」作品のひみつ 執筆 猿渡紀代子から、先ず、長谷川潔画伯 (以下「潔」とさせていただきます。)の出生地ですが、神奈川県久良岐郡戸太村大字戸部(現在横浜市西区御所山49番地の一部と51番地)に明治24年12月9日(1891年)長谷川一彦、欣子の長男として生まれる。父は国立第一銀行横浜支店の支配人であったが、潔が10歳の時父が大阪に転勤し、その翌年に亡くなられ一家は、東京麻布に戻り18歳を目前にして、母が病没し嫁いだ姉と7歳年下の弟だけが残された。
 父は、漢学に通じ書画骨董を愛した人物で、潔に論語の素読をさせたり、拓本を手本とする書や日本画の筆法などを教えた。この親近感と幕末の横浜開港によって、居留地をかかえて日常的に東西文化が混在していた明治20年代に横浜での幼少時代を過ごしたことが後に影響を与えた。
 そんな潔は、麻布中学を卒業し、外交官を目指し勉強していたが、身体をこわし断念し、好きだった美術の道へと進んだのです。
 明治44年(1911年)から葵橋洋画研究所で素描を習い、本郷洋画研究所で油絵を学ぶかたわら、銅版画技法の手ほどき受けつつ、イギリスの陶芸家バーナード・リーチと交友して、1912年頃から銅版画技法の一部を教えてもらい「全体に神秘的感じの濃い作風」を示しおり、リーチに共感を覚えた。 
潔が版画家としての第一歩は、1913年に、文学同人誌「聖盃」の表紙・挿絵を担ったことから、明治末から大正にかけて「明星」「白樺」など文芸雑誌が数多く出版されるようになり、藤島武二、有島生馬、富本憲吉、岸田劉生らが挿絵を寄せて、美術と文学の蜜月時代が出現していた。
 潔は鮮烈な挿絵を提供して注目を浴び、単行本の装丁の依頼も舞い込むようになり、そのころ世紀末象徴主義から、セザンヌ。ゴッホ、ドイツ表現主義まで、西欧の美術潮流が次々と紹介された時期にあたり、潔も「神秘的絵画」に感動し、また、カンディンスキーの版画集を入手し、「假面」「水庸」の挿絵のなかに直接的に写しだされものがあった。
 日本の近代版画史の側面から眺めると、日本独自の「創作版画」の草創期で、江戸時代からの浮世絵版画、絵師、彫師,摺師の三者分業によって作られたが、これらを潔は一人で「自画・自刻・自摺」をおこなって、下絵を版木に写しとることなく、彫刻刀で絵を描くように版木を彫って作った木版画は、その先駆者的な試みであった。
 これだけではなく、日本伝統に根ざす美意識や技法探究の姿勢は「日本伝統木版画には見られない黒色木版画」であった。それは、浮世絵版画では水性絵具とバレンをもちいるが、これをドイツ製黒色インクと洋風印刷機を使用した。しかも、油性インクのテカリを消して、東洋の墨色に近い深みのある黒を出すための工夫を編み出し「東京印刷所で一枚ずつ自分自身が監督しつつ擦らせる方法」をとった。
こ れらは、幼い時から父の薫陶により培われた黒色に対する感受性、刷りに対するこだわりと徹底して独自技法を研めようとする探究心が、渡仏後の長谷川を「マニエール・ノワール」(黒色)の再創造へと導くことになり、後に、パリの印刷所で刷師ケンヴィルに「マニエール・ノワール」作品を刷らせるときも、その姿勢は変わることがなかった。
 また、版画に用いる用紙も上質の局紙などを使い渡仏時にはトランク一杯の和紙を携えていた。このこだわりは、同じイメージを用紙の種類や色を変えて刷っており、バリエーションの幅からも伺える。
 こればかりでなく、「ぼかし摺」である。渡仏後は9点しかなかったが、本人はこの技法を続けていればよかったと語っているが、そのぼかし摺は、広重や北斎の風景版画にも使われているが、潔は、手元に置いて参考にしたのは、幕末洋風版画の奇才、歌川国虎の「近江八景」である。
 潔は、国虎をピカソのキュビスムより早く「マッスの問題」を解決していたと高く評価していた。このぼかしは、渡仏後の「マニエール・ノワール」の風景画へとつながっていった。
 更に、最小限の線で象徴的に描かれたダンス(女性の身体)植物も「リズム」を体現している。音楽と運動との融合に魅了され、雑誌「仮面」と「水◎」の表紙など多くの木版画でダンスの主題を取り上げている。それは、作曲家山田耕作と親しくなって「音楽と絵画の関係がおぼろげながらだんだんとつかめてきた。その経験が絵のために非常に役立った」と語っている。
 潔は、若くして肉親を亡くしたため、それを補うかのように、若き日の交友として、名前を挙げているのは、詩人、北原白秋や荻原朔太郎、評論家の柳宗悦や田中喜作、画家の梅原龍三郎,竹久夢二、小林古径、陶芸家の富本憲吉、小説家の芥川龍之介、ピヤニストの太田黒元雄などそうそうたる芸術家たちで、長谷川の仕事の幅は、こうした交友範囲によってもたらされた。
 その中でもとりわけ密度の高いつながりをもったのが、日夏耿之介と堀口大学の二人の詩人で、装丁と挿絵を潔が手掛けたことで誌と絵がみごとに響きあい、日本近代の装丁本として一つの頂点を成している。
 潔は、フランスにおいても長い年月にわたって友情を結ぶようになったのは、ラウル・デュフィの推薦によって、1924年から、ピカソ、マチス、ローランサンが参加する独立画家・版画家協会展に毎年出品を重ね東洋画の精神に深く共鳴していったラウル・デュフィもまた潔との親交によって多くを得た。
 潔は、ゴチック美術で適用されている黄金分割(1:1+0.618)ではなく、潔が好んだロマネスク美術のルート2の比率に準拠している。つまり、縦横の比率が1:√2(1.414)となっている。
 潔は、横浜にうまれ育ち、大正7年1918年27歳でフランスに渡り、ミシュリーヌ・ピアンキ結婚しフランスで62年間一度も日本には戻らず1980年12月13日(昭和33年)89歳パリ市ヴィラ・スーラの自宅で死去するまで版画家として活躍した。銅版画は、世界の注目するところとなり、1966年フランス文化勲章を受章、日本より勲三等瑞宝章を受章フランス芸術院会員に列せられた。
 「長谷川潔作品のひみつ」に掲げられている作品どれも素晴らしいものばかりです。著作権の関係から投稿できないのが残念です。
 横浜美術館には、版画657点、水彩・素描・下絵1350点、油彩画7点が収納されているそうです。是非これを機会に来館したいと思っています。

(大通り公園) 石の広場

(大通り公園 緑の広場)

(長谷川潔氏の碑)

(碑の後ろから)

(長谷川潔氏の顔)  



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